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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

幼女と煙草

サミュエル・ベケットに才能を見出されミラン・クンデラの絶賛を受けたという、手を伸ばさずにはいられなくなるような評価を与えられた現代フランス作家ブノワ・デュトゥールトゥルの初めての邦訳作品。

幼女と煙草

幼女と煙草

 

ブノワ・デュトゥールトゥル(赤星絵理訳)『幼女と煙草』早川書房、2009年。


日本での翻訳は初めてだが彼は既に10冊以上の作品を発表しているフランスでは有名な作家で、アカデミー・フランセ-ズ賞やメディシス賞を受賞したことすらあるそうだ。翻訳がなかったことの方が不思議である。今回の初邦訳によってようやくフランス文学者たちの怠慢が少しだけ解消された、ということなのだろうか。

『幼女と煙草』という興味深いタイトルを付された本書は、ある死刑囚の要求から始まる。執行の直前、彼は死ぬ前の最後の一服を要求したのだ。だが、刑務所内には完全禁煙の規則があり、所長は彼の望みを斥ける。しかし刑務所内の別の規定、刑罰に適用する規定では、死刑囚が習慣に適った最後の望みを果たすことが許可されているのだ。

「一年前、公衆衛生保護を目指す複数の組織の圧力を受けて書き加えられたこの付則は、塀の中での喫煙を禁じていた。たしかに、死刑囚の健康を守るという考えは、そこに手のこんだ残酷さを見るなら話は別だが、当惑を招きかねないものではある」(3~4ページ)

そしてこれらの規則が孕む矛盾が取り沙汰され、死刑執行は延期、彼が最後の望みを果たせるかどうかは最高裁の決定に委ねられることとなる。昨今の喫煙に対するファシズム的な様相を指摘した、見事な幕開けである。煙草を吸いたいと言い続ける死刑囚デジレ・ジョンソンの、頭の悪そうな口ぶりがまた素晴らしい。曰く「で、俺はやれんのかな、最後の一服を?」(13ページ)。善なるものと信じられた禁煙ブームが孕む暴力性が暴かれ、善なるものの名の下にあらゆる暴力がひしめいている情景が浮彫りにされる。日本においてもそうではないか。一昔前は「防災・テロ対策」の名の下にあらゆる強引な改革が推し進められ、今は「環境保護」の名の下に信じられない悪政が実践されている。

「何でもない行為が、僕らの目には成熟の象徴と映った。車を運転する、クラブに行く、《プレイボーイ》を売店で買う。けれども大人の権利のうち一番のものは、まぎれもなく“喫煙”だった……。ガンになるリスクなんてどうでもよかった。それどころか、映画や広告はこの習慣を、自由を表わす行為と見るよう僕らに教えてくれた。煙草に火をつける、口にくわえる、煙を吐く。この変わった芸当は、それを行なう人間にモダンで洗練されたエレガントな物腰を与えていた。役立たずで、観賞用とも言える物、煙草は、人間を動物と分けていたのである」(53ページ)

喫煙者である自分の立場から言って、最近の禁煙運動の暴力性はおぞましいものがある。そんな中、喫煙者の権利を声高に訴える死刑囚は大変頼もしい。煙草を肯定的に描くものを今やほとんど見なくなってしまったことに気付いて愕然とする。煙草は元々は、反体制の象徴のようなものではないのだ。大人だけに許された一つの自由な行為として映画や広告が持ち上げた煙草は、今ではどこに行ってしまったのだろうか。

一方、この小説のもう一つの闘いは子どもを擁護しようとする政治的なあらゆる動きの中に見出される。『幼女と煙草』というタイトルの通り、ここでは過剰に保護された子どもたちが権勢を誇っているのだ。市役所には託児所が設置され、そこに勤める「僕」は所内にはびこる大勢の子どもたちと闘いを続ける。

「闘いは互角ではないけれど、僕はまだ抵抗できる。ついさっきエレベーターに乗る前に、三人の子どもたちを追い抜いて、その鼻先で扉を閉めてやることに成功した。そうなると上の託児所に行くのに五分待たなくてはならず、子どもたちは怒り狂って扉をドンドン叩いていたが、エレベーターはとっくに上昇していたのだった」(66~67ページ)

喫煙所の撤廃された所内では、「僕」はトイレの中で煙草を吸うことを習慣にしている。煙センサーの届かないギリギリの場所は、トイレの個室だけなのだ。ある日、窓をドライバーでこじ開けいつもの一服を堪能していると、どこからか忍び込んだ「幼女」にその場面を見られてしまう。彼女が目撃したことを口外しないよう「僕」がドライバーを振り上げ脅しをかけると、後日彼は逮捕されてしまう。罪状は「子どもに対する犯罪」。幼女の訴えにより、彼は小児性愛者のレイプ魔として刑務所に入れられてしまうのだ。

「これまで様々な話を耳にしながら、僕は警官よりも犯罪者、判事よりも囚人の肩を持っているものと長いあいだ思っていた。ごく自然な共感により、この過酷な社会に生きるアウトローたちへ気持ちが向いていた……。でも僕はここで、囚人というものは概して人情味があると同時に卑劣でもあると理解する羽目になる。加えて、彼らがこの施設内で、外の世界と変わらない情け容赦ないヒエラルキーを作り出しているということも理解せざるを得なくなる。また、彼らの低いモラルが、そのモラルをさらに簡略化して粗野なバージョンに変えた、ここでしか通用しないモラルを再生産しているということも。彼らは、時代の幻想に押し付けられたメディア受けする恥ずべき行為が身に付いていた。そして、自らの犯罪の汚名をそそごうとするかのように、社会から最も下劣であると判断された人間に対しては、仮借の無さを倍増させて恨みをぶつけるのだ」(118~119ページ)

煙草に対する排斥運動と、子どもに対する過剰な保護。2005年に刊行された本ながら、その内容は少しも古びていない。そしてもう一つ、現代が孕む危険性を告発した箇所として、突如現れたテロリスト集団が挙げられる。彼らの方法は芸術的である。拘束された国籍も年代も様々な六人の人質は、毎週与えられる題目、歌であったりクイズであったりを演じなければならず、その模様はインターネットを通じて全世界に放映される。そしてその優劣は視聴者たちの投票によって決められ、最も獲得票数の少なかった者から順に殺されていくのである。処刑の模様もオンラインで放映され、政府は投票をすることは卑劣な行為だと視聴者に対して自粛することを求めるが、途中経過の発表によって自国の国民が処刑されるのが決定的になると今度は逆に投票を奨励せざるを得なくなる。インターネット上のテロリストたちの動きを制御することはできず、メディアも次第にそのニュースに向けられる関心の高さに抗うことが出来ず、テレビ中継を始めるようになる。

「諸君、テロリズムは特殊技能であるということを君らに示せるかどうかは、我々にかかっている。そして、戦う術を心得ている被害者ならば必ずや生き延びるチャンスがあるということを実証できるかどうかは、君らにかかっている。覚悟を決めて、精神を集中しろ、試練は明日始まるぞ。君らの人生は君ら自身が握っている。それでは、最も優れた者が勝利せんことを!」(138ページ)

死刑囚の最後の一服、幼女による告発、そしてテロリストたち。これら三つの要素がめまぐるしく交錯することで小説は進展していく。こんなに面白い小説をどうして今まで訳さずにいたのだ、と言いたくなるほど、現代社会の関心に満ちた作品である。現代が孕む様々な危険性をユーモラスに描いた、普段小説を読まない人にも勧められる傑作。他の作品の翻訳を待ち望む。

幼女と煙草

幼女と煙草