Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

女と人形

生田耕作が翻訳を手がけた、フランス文学の傑作。

女と人形 (アフロディーテ双書)

女と人形 (アフロディーテ双書)

 

ピエール・ルイス生田耕作訳)『女と人形』晶文社アフロディーテ双書、2003年。


僕が確認した限り、この「アフロディーテ双書」というシリーズは三冊しか刊行されていない。ミュッセの『ガミアニ』、スウィンバーンの『フロッシー』、そしてピエール・ルイスの『女と人形』だ。かつて富士見ロマン文庫で刊行されていたような、海外のポルノ小説、芸術と猥褻の狭間を行ったり来たりしているような作品が並んでいる。

『ガミアニ』と『フロッシー』はまさしく富士見ロマン文庫に収録されていたものだ。ただ、この『女と人形』だけは違う。この底本は白水社の刊行していた「生田耕作コレクション」の第三巻であり、他の二冊の煽情性を考えると、一冊だけ妙に浮いているのがわかる。2003年6月に『フロッシー』を刊行して以来、シリーズが途絶えてしまっている「アフロディーテ双書」だが、その目指していたものがただの猥褻ではなく、紛れもない芸術としての官能性であったことを、この一冊は端的に示しているだろう。

「どんなことがあっても付き合ってはならない女に二種類あります。まず第一に君を愛していない女、それからもう一つは、君を愛している女です。――この両極の間に、可愛らしい女が無数にいる。ところが私たちはそういう女の値打ちがわからないんです」(39ページ)

『女と人形』の物凄さは、筆舌に尽くしがたい。200ページ足らずの小編にも関わらず、プロットの立て方、タイトル、扉絵、そして結末の全てが、技巧に満ち満ちている。巻頭のゴヤの絵が示すもの、そしてタイトルの恐ろしさに気付かせ、その上で結末を読ませる。これほど戦慄を呼び起こす方法があるだろうか。ピエール・ルイスの技巧に、まんまと引っ掛かる。

「それじゃ、これだけいろんなものを差し上げてもお気に召さないっておっしゃるのね? わたしの胸も、唇も、熱い血が通った脚も、いい匂がする髪の毛も、貴方に抱かれるわたしの全身も、接吻に添えて差し出す舌も、みんな貴方のものなのに、これだけじゃ、物足りないって仰言るの? そうだとしたら、貴方が愛してるのはわたしじゃなくて、わたしが拒んでいるものだけなのね? そんなものならどんな女だって差し上げられてよ、どうしてわたしにお求めになるの、嫌がってるわたしに? わたしが処女だと分かったからなの? セヴィリアにだって、処女は他にも沢山いてよ。本当よ、マテオ、わたしの知り合いのなかにだっているわ。アルマ・ミア(私の魂)! サングレ・ミア(わたしの血)! わたしが愛されたいようなかたちでわたしを愛して頂戴、ちょっとずつ、焦らずに。わたしが貴方のものだってことは、そしてわたしの体は貴方のためだけに取りのけてあるのも分かってるでしょう? これ以上何がお望みなの?」(118~119ページ)

解説で中条省平が、この小説を言い表している。「要するに、男をじらしにじらし金銭をむしりとるが、あの手この手で最後の一線だけはけっして許さない悪女と、この女にまんまと手玉にとられる犠牲者の男との残酷なラヴ・ストーリーである」(解説より、202ページ)。

男というものは、悪女にこそ惹かれるのかもしれない。『マノン・レスコー』や『女と人形』が熱心に読み継がれているのは、そういった理由からに違いない。自分の腕に抱かれようとしない女ほど、煽情的なものが他にあるだろうか。マノンやコンチャはいつの時代にもいる。これらの傑作は、そういった女に引っ掛からないために読まれるのではなく、そういった女に引っ掛かった男たちを慰めるためにあるように思えてならない。馬鹿な男が尽きないから、読み継がれていくのだ。芸術はそういった、ひどく個人的な想いに属したものなのかもしれない。

女と人形 (アフロディーテ双書)

女と人形 (アフロディーテ双書)

 

 

<読みたくなった本>
ミュッセ『ガミアニ』

ガミアニ (晶文社アフロディーテ双書)

ガミアニ (晶文社アフロディーテ双書)

 

スウィンバーン『フロッシー』

フロッシー

フロッシー

 

ピエール・モリオン『閉ざされた城の中で語る英吉利人』

閉ざされた城の中で語る英吉利人 (中公文庫)

閉ざされた城の中で語る英吉利人 (中公文庫)