Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

1999

死の三ヶ月前に刊行された、戦後を代表する詩人田村隆一の最後の詩集。

詩集 1999

詩集 1999

 

田村隆一『1999』集英社、1998年。


最近になって詩集を取り上げるようになったのだが、田村隆一を紹介するのをすっかり忘れていた。愛読している講談社文芸文庫版の『腐敗性物質』を挙げても良かったのだが、折角だからまだ読んでいないものを、と思い手に取った一冊である。

非常に薄い詩集なのだが、収められている詩は長いものばかりだ。二十世紀における世紀末を迎えた人類に寄せられた詩である。

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春画


冬のあいだ
白隠の描いた達磨の
巨大な眼 宇宙を思わせる無重力の世界で
ぼくは浮遊しつづけた
皮膚と骨 それに
心という厄介なものさえなかったら
もっと愉しく遊べただろう

節分をすぎたら
小さな庭の梅の木に花が咲いた
白梅 紅梅
ベッドにひっくりかえって本を読んでいたら
不思議な春画が迫ってきた
眺めているうちに性欲が減退してくるという
奇妙な春画
歌麿よりも栄之 清長を愛すという男の春画だが
白隠の描いた巨大な眼とはまったく対照的な目
眼球そのものがないのだ
まるで柳の細かい葉のようなものが
日のありかを暗示するだけ
ぼくは無重力の世界から追放され
この世の波間にただようだけ

男は三十二歳 昭和三年に女房をつれて
日本脱出の計画をたてる
この男の「計画」は場あたりだが
パリへ行きたくても大阪までの汽車賃しかない
そこで 上野の美校の日本画科に半年ほどいただけだが
清長風の押し売り用の春画を描きまくって
長崎まで
モデルは大阪では胴長柳腰の日本女
長崎ではオランダの微風が目にささやいてくれるから
日本女でもバタ臭くなる しかし目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない
春画を売りつづけて やっと上海まで
目は南画風だが多彩な色彩が生れる
女衒や主義者 一旗組の小商人がお得意だから
少しは金になっただろう ひまな時は
苦力までやった
それから香港 シンガポール まとまった金が入ったので
女房だけマルセイユ行の汽船に乗せることができた
男は男娼以外のあらゆる労働に従事しながら
東南アジアのゴム園で汗をながし 近代世界の原罪を
白色と有色のナショナリズムのエゴイズムを
一九三○年代のヨーロッパの危機を
骨の髄まで体感する それにつれて
春画のモデルも多様化せざるをえない
黒い人 白い人 黄色い人
男の放浪 血と汗の放浪は十年におよぶ
男は金子光晴という筆名で不朽の詩集『鮫』を刊行する
男の押し売りの春画がその詩集を支えてきたことを思うと
性欲が減退するのはあたりまえじゃないか
それにとってかわってわが魂は燃えて燃えて

アインシュタインよ どうして
十六歳の美少女と恋愛しなかったのだ
彼女の陰毛の下に 核分裂と融合の
化学方程式を薔薇の形で刺青にしておけば
二十世紀は灰にならずにすんだのに


(28~33ページ)
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気に入った詩をこの調子で紹介していたら、一冊丸々引用してしまいそうだ。部分が強く印象に残る詩ばかりで、どの詩の全文を掲載するか迷ってしまった。「羽化登仙」には「ぼくの目にするものは死語ばかり/死語の世界で生きていることは/ぼくはあの世の人かもしれない」とある(57ページ)。「愚者の楽園」には「黒いチューリップの花を咲かせるのが不可能なら/ぼくの黒い瞳でレンブラントの光を感受したい」とある(47ページ)。

次は一番最後の三行ばかりが有名な詩「蟻」。最後の三行だけでも十分胸に響くものがあるが、それまでの延々と語られる蟻の生態こそが、この結末を説明してくれていることを忘れてはいけないと思う。どれだけ長くなろうと全文紹介したかった詩である。

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秋は
あらゆるものを透明にする
神の手もぼくの視野をさえぎることはできない
小さな庭の諸生物も
鈴虫の鳴き声とともに地下に消えた
老人と老婆だけが細い道をとぼとぼ歩いて行くのが
垣根ごしに見えるだけ
老人たちには
秋の光は強すぎる 燃える夕陽が
矢のごとく落ちていったと思ったら
たちまち夜の闇につつまれて
ぼくは世界の中を一人旅に出るより仕方がない
ぼくの一人旅とは
まずポーカー・テーブルのスタンドの灯をつけて
三人の椅子にむかって
カードをくばるだけ
それから赤ワインをグラスにつぎ
おもむろに自分のカードを眺める 白波に消えた足跡の砂浜
グリーン・リバーという混濁した川が流れているロッキー山脈の小さな町
無数の生物とその毒素を多量に排出する南アフリカ
星座をたよりに航行する深夜の貨物船

ぼくは半裸体の漁師のペテロ
ぼくは廃屋の三階建てをたった一人でツルハシをふるっている青年
ぼくはペスト コレラ エイズ まだ持ち札はたくさんある
ぼくはマドロス・パイプをくわえた貨物船の船長
ぼくは熱帯にも寒帯にもコロニイをもっている蟻
蟻 おお わが同類よ
宇宙から観察したら 身長3ミリの蟻と
一七五センチのぼくとたいして変らない
蟻と人間だけが一億二千万年も生きながらえてこられたのは
分泌物と匂いという武器でコロニイをつくりわけられたからだ
人間は言葉
コロニイとコロニイが武力衝突するのも
国と国 民族と民族が戦争するのも
そっくりさ
人間は遺伝子
民族は言葉から神にむかう
あるいは神の母胎から言葉が生れる
蟻のコロニイはカースト制で
女王蟻を頂点に生殖専門の雄蟻
三位の多数の蟻は労働 戦力 餌の蒐集
おまけにゼネコンの下請け
若い兵士の戦死率はきわめて高い
おなじコロニイの死者は土葬にする これも
昔の人間とそっくりだ
コロニイは共同体というよりも「非個性」という絶対値で形成されていて
コロニイそのものが個体であり
たえず巨大化にむかって地下に王国をつくる

ある年の晩夏 ぼくは小さな庭で蟻の行進に見とれていたことがあった
一列縦隊 先頭の蟻はリーダーにちがいない それとも道案内人か
五匹がかりで白色の餌物をかつぎ その他の蟻はただ単縦陣にしたがって細い
  線上を歩くだけ
なんだ 働きものと云ったって、数十匹の蟻のなかで餌物をかついでいるのは
たった五匹
しかし昆虫学者の本を読んでその謎がとけた
単縦陣について歩いている蟻たちには
さまざまな機能と任務があるのだ
監視 防衛 偵察 救護
ぼくは地下の「コロニイ」という非個性的な生物が見えなかっただけだ
目に見えないコロニイは何層にも築かれていて
哺乳室から病室 リビング・ルーム ベッド・ルーム 貯蔵室まで完備されて
  いて
彼らのスローガンは「帝国主義
敗者のコロニイから屈強な捕虜を陣営に吸収して
膨張だけつづければいい
コロニイそのものが組織化された一箇の「生物」なのだから

地上にも蟻塚がある
フィンランドのヨーロッパエゾアカヤアリの巨大な塚
身長3ミリの蟻にとっては目もくらむような超高層ビル
そのビルも全体で呼吸していたのだ
処女の女王蟻のハニー・ムーンは劇的である
乾いた膜状の翅をつけて無数の雄蟻をつれて飛行する
生殖がおわると若い女王蟻は翅を切断し
地上におりると新しいコロニイの建設にとりかかる
彼女は長く生きのびて二十数年にいたるものもある
その期間に排卵し遺伝子をつたえ成長させる子どもたちの数は
まさに天文学的数字である
そこへいくと雄蟻の運命は悲惨そのもの
自らの死せる身体と遺伝子だけを残して数時間
長くて一日のうちに息たえる
三つのカースト
女王蟻も激しい戦いに生き残ったものだけが君臨し なかには
姉妹 娘から追放される哀れな女王蟻もいる
雄蟻はもっと悲惨だ ただ生殖のために生きているようなものだ それも
外敵と闘い 生き残ったただ一匹の蟻の数分間の生涯 生殖器だけは巨大で
  ある
働き蟻にいたっては ただ働き交戦し餌の採集と保管 若い働き蟻ほど戦死
  過労死 地下深く綿密に設計されたコロニイの技師であり建築労働者
  そして翅もなく生殖器も退化している
全世界に分布している蟻は一万種 人種の総人口よりはるかに多い

ギリシャ神話では
アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
ゼウスは蟻をその住民に変えたという
さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999


(76~85ページ)
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田村は「いくたびか夏過ぎて」の中で「「世紀末」という言葉は/十九世紀だけに使える特権だ」と書いている(66ページ)。二十世紀の世紀末をも過ぎてしまった今、田村隆一のいない世界で、詩人たちはどのように次の世紀末を描くのだろうか。爽やかに発せられた「さよなら」の一言が、ひたすらに重く感じられた。

詩集 1999

詩集 1999