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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

夕鶴・彦一ばなし

配架-日本文学 評価-★★★★☆(大満足) いわゆる-メルヘン いわゆる-戯曲

 日本に帰ってきてからというもの、むさぼるように日本文学を読んでいる。といっても、それほど冊数を読んだわけではなく、すでに読んだことのある短篇作品を読み返したり、気の向くままに長篇を拾い読みしているだけなのだが。そんな気安さが、とても心地よい。

夕鶴・彦市ばなし (新潮文庫)

夕鶴・彦市ばなし (新潮文庫)

 

木下順二『夕鶴・彦一ばなし』新潮文庫、1954年。


 日本語の奥深さ、と書くと陳腐で仕方ないが、この、どんなふうにも磨くことができる、という、語彙や表現の豊かさは、心からすばらしいと思う。わざわざ木下順二を引き合いに出してそんなことを書くのは、この劇作家が「民話劇」という一連の戯曲作品のなかで、登場人物たちに、どこにも存在しない方言をしゃべらせているからだ。

 そもそもの関心が、この、どこにも存在しない、ゆえにどんな地方でも通用する、方言にあった。本を開いて最初の一篇、「三年寝太郎」のト書きを引用しよう。

「この芝居の――
  時――は表題でごらんの通りむかしむかしで季節はいつでも。
  所――については、この芝居をやる人々はみんなこれが自分の村に起った話だと思ってやって下さい。まったく、昔も今も、どこへ行ってもこういう事は起っているに違いない。
  人――の中で、先ず「三年寝太郎」というのはお百姓で、いい若い衆の筈なのだが、怠けて寝てばかりいるものだからこんなあだ名がついてしまった。今では村の人も、いや、当の寝太郎の「ばあさま」さえもが、寝太郎の本名は忘れてしまったらしいようすです。そのほかいろんな人が出てくるが、それは追々に分かることだから説明はやめにして――

 さて、幕があくと――」(「三年寝太郎」より、8ページ)

 ト書きがこれほど親密な語り口で書かれていると、一気に引き込まれてしまうではないか。まるでケストナーの小説にきまって付されている、前口上のようだ。いやいや、そんなことより、「時」も「所」もなに一つ特定されていないことを指摘するためにこの文章を挙げたのだった。それなのに、登場人物たちは方言と思しき言葉を話す。例えば、こんな具合に。

じっさ:けんども権六はまた、よっぽど山父の話が好きだな。権六の山父の話はきょうで全体何べん聞かされるこったか。
 ばっさ:けんども、何べん聞いても権六さの山父の話はおそろしいよう。
 ソマの権六:そうともよ。ええか、夜ふけも夜ふけも真夜中だ、あの谷向うのソマ小屋のまっくらすみで、おらがひとりでチカチカと火をもやしつけとると……
 じっさ:そおら始まった。
 ばっさ:黙って聞くだ。
 ソマの権六:薄ぼんやりと暗い中に、ぬうとはいってきて坐ったもんがあるだ。
 ばっさ:ふわあ。
 じっさ:こおれさ、おんなじ話をそのたんびにたまげるでねえだ。
 ソマの権六:それが坐るところをちらっと見たら、何とおめえ一本足で、たき火を越してゆれゆれ揺れとる顔を見上げたらよ、一杯ふわあっと毛があって、そのまん中に、眼がたんだの一つ光ってるでねえかよ。
 ばっさ:ふわあ。
 じっさ:こおれ」(「瓜子姫とアマンジャク」より、190ページ)

 だれか翻訳者のエッセイだったと思うが、翻訳者の腕前は登場人物たちが話す言葉を見ればわかる、というようなことが書いてあった記憶がある。目指すべき最終地点は、ここなのだろう。戯曲の面白さは、セリフ以外の描写を一切付けることができない、という点にある。セリフだけで、彼らがどんな性格の持ち主であるかを匂わせるというのは、並大抵の技術ではない。この例で言えば、「じっさ」と「ばっさ」の人の好さが、その反応からも言葉遣いからも、はっきりと浮かびあがってくるではないか。そう考えると、やはりシェイクスピアというのは恐ろしい男だ。けっして少なくない登場人物を、混同させないというだけでも、ものすごい。もちろん、レーモン・ルーセルやウジェーヌ・イヨネスコなど、そういう観点がまるで通用しないような劇を作っている作家もいるけれど。

権八:(やがて)こら藤六。
 藤六:あいよ。(ズイコズイコ)
 権八:お前ののこぎりを貸せ。おらのはちっとも切れん。
 藤六:あいよ。(すぐ取りかえてやる)」(「木竜うるし」より、105ページ)

 もうひとつ、ひどく感動したのが、オノマトペの絶妙ぶりだ。のこぎりで切る音が「ズイコズイコ」というのは、もう読んでるだけで嬉しくなってくる。ところが、先にも挙げた「瓜子姫とアマンジャク」に、これを上回る感動が待ち伏せていた。

「山奥の小さな百姓屋。その家の土間。
 じっさとばっさと、それからソマの権六がいる。
 片隅の機屋の中から、キコバタトントン、カランコカランコという高く澄んだ機の音が聞えている」(「瓜子姫とアマンジャク」より、189ページ)

 この一節を読んだ瞬間には、思わず声が出た。機織りの音が「キコバタトントン、カランコカランコ」だなんて! が、これだけではなかったのだ。話が進むと、機織りをこよなく愛する瓜子姫は、大切なはたをアマンジャクに取られてしまう。そのときに、こんな独白をするのだ。

瓜子姫:あ、アマンジャクがはたを織り始めただな、あんげな大変な音たてて。あんげなふうに織られてはどもなんね。おらが織っとった時はキコバタトントンカランコカランコいいよったに、ようニワトリッコよう、あの音はドジバタドジバタいいよるでねえかよう。……ドダバタンドダバタンいいよるでねえかよう。……ドッチャライバッチャライいいよるでねえかよう、ニワトリッコよう。……ああ、あんげなふうに織られてはどもなんね。ちがう、ちがう、ちがうがな。……ほんだらふうではちがうがな」(「瓜子姫とアマンジャク」より、206ページ)

 もう、しつこい、と言ってもいい。でも、これだけしつこく書かれると、あの「キコバタトントンカランコカランコ」の美しさが、どうしても際立ってくる。キコバタトントンカランコカランコ! キコバタトントンカランコカランコ!(しつこい)

語り手:(音楽を下にもって)殿様は、きょうも少し口をあけたままお庭の松の木のてっぺんをながめながら、何も考えなかった。何の考えることもなく、何を考えるつもりもなかった。あぽんと床の間に坐ってあぽんと松の木のてっぺんでも眺めていれば、そのうちに朝はけっこうおひるになり、おひるはけっこうよるになって、別に何のさしつかえもなかった。あとはただ、その、朝からよるまでの間に、三度ほど飯をくわねばならないのが、少々大儀で少々楽しみなくらいのものであった。だからきょうもあぽんと口をあけたまま、殿様はお庭の松の木のてっぺんを眺めていた」(「絵姿女房」より、227ページ)

 これもけっこう気に入った。「あぽん」。こんなオノマトペを、翻訳文学に持ち込むことのできる猛者、というか勇者など、どこにもいはしないだろう。あぽん。

 新潮文庫のこの本には、八篇の作品が収められている。忘れていたので、今さら収録作品一覧。

★★☆「三年寝太郎」
★★☆「聴耳頭巾」
★★☆「彦一ばなし」
★★★「木竜うるし」
★★★「夕鶴」
★☆☆「わらしべ長者
★★★「瓜子姫とアマンジャク」
★★☆「絵姿女房」

 いつものことだが、星の数にはあんまり意味がない。民話を材に採っているだけあって、それこそペローやグリムのおとぎばなしに甲乙を付けようとしているようなものなのだ。ハッピーエンドが好きなので、それに左右されている部分が大きい。「木竜うるし」は気に入った。お金よりも大切なものがあるということを、説教くさくなることもなく高らかに宣言する作品だ。本当に、ケストナーみたいだ。同じく「夕鶴」も。ただ、この一作品だけは、ほかとは少し趣が違う。とびきり悲しいのだ。

つう:与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだんに変って行く。何だか分らないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分らない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは。あたしは一体どうすればいいの? ……あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとうに嬉しかったから、あたしはあんたのところに来たのよ。そしてあの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは、そのたびに「おかね」っていうものと取りかえて来たのね。それでもいいの、あたしは。あんたが「おかね」が好きなのなら。だから、その好きな「おかね」がもうたくさんあるのだから、あとはあんたと二人きりで、この小さなうちの中で静かに楽しく暮したいのよ。あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。だからこの広い野原のまん中で、そっと二人だけの世界を作って、畠を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きて行くつもりだったのに……だのに何だか、あんたはあたしから離れて行く。だんだん遠くなって行く。どうしたらいいの? ほんとにあたしはどうしたらいいの?」(「夕鶴」より、136~137ページ)

 木下順二は「あとがき」に、こんなことを書いている。

「『夕鶴』は、同じ43年に書いた『鶴女房』を、戦後の48年に書きなおした作品である。というより、“鶴女房”という民話を単なる素材と考えて一篇の現代劇を書いたわけで、だから『夕鶴』にだけは、民話劇という呼び名を私は使わない」(「もう一度、あとがき」より、240ページ)

 この文章を先に読んでいれば、あれほど不意を突かれることもなかったのかもしれない。と、未読の方には余計に感じられるであろうことを書いてしまうのは、たとえこれを読んでいたところで、やはり自分は不意を突かれただろう、と心のどこかで思っているからだ。思い出されるのは『飛ぶ教室』の言葉だ。

「金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら相手にしない」(ケストナー(丘沢静也訳)『飛ぶ教室』光文社古典新訳文庫、2006年、161ページ)

 同じことが、じつに色々なかたちで繰り返されているというのに、それでもまだ繰り返す必要があるのは、いったいどういうことなのだろう、と思った。

夕鶴・彦市ばなし (新潮文庫)

夕鶴・彦市ばなし (新潮文庫)

 


<読みたくなった本>
太宰治『お伽草紙』

お伽草紙 (新潮文庫)

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ケストナーケストナーの「ほらふき男爵」』

ケストナーの「ほらふき男爵」

ケストナーの「ほらふき男爵」

 

木下順二訳のシェイクスピア
→調べてみたところ、シェイクスピアの翻訳をライフワークにしていたそうだ。小田嶋雄志訳と読み比べたい。

リチャード三世 (岩波文庫)

リチャード三世 (岩波文庫)