Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

本屋はサイコー!

出版業界紙新文化』のホームページ上のブログ、「ルーエからのエール」に紹介されていた一冊。

本屋はサイコー! (新潮OH!文庫)

本屋はサイコー! (新潮OH!文庫)

 

安藤哲也『本屋はサイコー!』新潮OH!文庫、2001年。


僕が吉祥寺のブックスルーエに絶大な信頼を寄せていることは以前にも書いた。ルーエが圧倒的な魅力を放つ理由の片鱗を、この本を通じて少しだけ理解できた気がする。

著者である安藤哲也は出版社の書店営業を経て書店員となった。自身がプロデュースした往来堂書店で実践された「本の売り方」が、棚作りの上で大いに参考になることは間違いない。

「意識して一冊の本の魅力を伝えないと、誰もその書店に寄り付かない」(56ページ)

「僕の勝手な思いを言わせてもらえば、大書店でワゴンに山積みされた中から拾い上げた『大往生』と、マイ・フェイヴァリット・マガジン『壮快』と一緒に買った『大往生』は、彼女達にとっては意味が違うと思うんだよね」(109ページ)

それは、絶対にそうだ。書店員ではなく愛書家の意見として、自宅の棚に並べられた膨大な数の本たちには、それぞれに思い入れがある。そして、その本をどこでどのようにして買ったかという思い出が強い本は、往々にして自分のお気に入りの一冊となっているのだ。「本と読者の出会いを演出するのが書店員」という言葉が、これほどまでに実感できる瞬間が他にあるだろうか。

 

ルーエで力強いポップに魅せられて買った『青空チェリー』、同じく吉祥寺のバサラブックス(こちらは古本屋)でジュール・ルナール全集を購入した際に「おまけ」として頂いたツルゲーネフ『父と子』、そしてパリのジュンク堂で記念に購入した『マノン・レスコー』。どれもが作品の外で素敵な思い出を形作り、今も尚息づいている。そしてそういった思い出は否応なしに内容そのものへの評価に関わってくる。

例えばアマゾンで購入した本に、こういった思い出は付随するだろうか。著者安藤哲也は往来堂書店の店長を経てオンライン書店bk1の店長となった人物だ。きっと彼にはネット書店においてもこの感覚を実践できる自信と実力があったのだろう。だが僕はやはりこういった本への愛は、リアルな店舗においてこそ達成可能なもののように思われる。本を愛する想いがそれを購入した本屋を愛する想いに直結しているのなら、現在起きている町の中小書店の倒産ラッシュやアマゾンの活況などが逆説的に証明されるような気がするのだ。

「僕が言いたいのは、「二十一世紀の出版業界をどう生き抜くか」と考えるなら、これまでのルールを踏まえることはあまり意味がない、そのくらいの考え方でちょうどいいんじゃないか、ということだ」(176ページ)

bk1の場合、社員数こそ少ないけど、組織としての規模は大きい。個人の突出した動きが、無意識のうちに抑制されてしまう傾向がある。誰かが一歩、前に出るしかない」(196ページ)

タイミングが良いのか悪いのか、今日は僕にとって新たな人生の第一歩となる入社式の日だ。これまでの四年間に及ぶ書店経験に一旦別れを告げ、一からの再スタートを切ることとなる。突出した動きを最初からする気は毛頭無いが、早く周りからの評価を得なければならないだろう。誰かが一歩、前に出るしかないのだ。

「書店はただの売場ではなく、メディアだ」(159ページ)

徹夜して入社式に臨むことになったが、それだけの価値はあった。
出版業界の未来は、きっとこれから次第だ。

本屋はサイコー! (新潮OH!文庫)

本屋はサイコー! (新潮OH!文庫)