お伽草紙
古典や民話を題材にして中期の太宰が著した、新しいお伽噺の数々。
題材は井原西鶴の短編や日本の昔話、中国の『聊斎志異』などから採られている。以下、収録作品。
「盲人独笑」
「清貧譚」
「新釈諸国噺」
「貧の意地」
「大力」
「猿塚」
「人魚の海」
「破産」
「裸川」
「義理」
「女賊」
「赤い太鼓」
「粋人」
「遊興戒」
「吉野山」
「竹青」
「お伽草紙」
「瘤取り」
「浦島さん」
「カチカチ山」
「舌切雀」
太宰の手にかかると、もはや再話ではなくなる。トルストイの民話を思い出した。再話という名の下の、紛れもない創作だ。
「七月六日。
たなばたの、うたにとて、よむ。
ひととせに。こよいあうせの。あまのかわ。わたらばいまや。水まさるらん。
あわぬが、よい。」(「盲人独笑」より、21ページ)
「同十二日。気が、さゑん。あんらくじにて、もりかねの、うたざらゑあり。ひるは、さらさら汗が出る。よるわ、ぞろぞろ雨がふる。はだしで、もどった。やぶれがさ。」(「盲人独笑」より、21~22ページ)
「盲人独笑」は葛原勾当という音楽家の日記からの抜粋だという。ひたすら、ゆるい。
「同二十七日。となりわ、ごしゆうぎ。よる、おほゆきとなる。ことしわ、めづらしきつみを、たんと、つくりたなあ。」(「盲人独笑」より、26ページ)
日記の合間に挿し挟まれる和歌が、どれもこれも妙に良い。仮名文も何となく、ゆるさを助長しているように感じられ、堪らない。
「清貧譚」も「竹青」も、素晴らしく美しい話だ。余計なものが一切無い。前者は『聊斎志異』から題材を採ったもの、後者には「新曲聊斎志異」と副題が付けられている。
「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ」(「竹青」より、208ページ)
「新釈諸国噺」に収められているのは、全て井原西鶴の創作が元になっている。太宰は西鶴を「世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ」と激賞している。成程、読んでみると、ストーリーが非常に面白い。西鶴の紡ぐ縦糸に、太宰の心理描写たる横糸が合わさり、一篇一篇が芸術となっている。
「川に落ちた銭は、いたずらに朽ちるばかりであるが、人の手から手へと渡った金は、いつまでも生きて世にとどまりて人のまわり持ち」(「裸川」より、122ページ)
それぞれ寓話性も強く、何らかの教訓が引き出せるようになっている。個人的には「貧の意地」「猿塚」「裸川」「女賊」「赤い太鼓」「粋人」が面白かった。「吉野山」なんて、もう上手すぎる。つまり、全部良い。
「お伽草紙」の四編はいずれも日本人に馴染み深い作品が題材だ。それ故に、その変貌ぶりには、ただ驚かされる。浦島太郎の亀を、こんなにも憎たらしく描けるのは太宰だけだ。
「人生には試みなんて、存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思っている」(「浦島さん」より、247ページ)
「野心があるから、孤独なんて事を気に病むので、他の世界の事なんかてんで問題にしてなかったら、百年千年ひとりでいたって楽なものです」(「浦島さん」より、263ページ)
タイトルが良い。「浦島さん」。「浦島さん」って。
「言葉というものは、生きている事の不安から、芽ばえて来たものじゃないですかね。腐った土から赤い毒きのこが生えて出るように、生命の不安が言葉を醗酵させているのじゃないのですか」(「浦島さん」より、267ページ)
「カチカチ山」に至っては、もう原型を留めていない。元々のストーリーを踏襲しつつ、ここまで別個の作品を作り上げる才覚には、ただ脱帽である。
ギリシャ神話を描いたオウィディウスから太宰に至るまで、再話は幾度となく試みられている。神話や民話の持つ、圧倒的なストーリーの面白さが、これを可能にしているのだろうが、原作を越えるものを作るには、書き手の力が不可欠だ。まして、別個の作品にするには、どれだけの力が求められるだろうか。太宰の力量は計り知れない。
〈読みたくなった本〉
蒲松齢『聊斎志異』
オウィディウス『変身物語』
- 作者: オウィディウス,Publius Ovidius Naso,中村善也
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井原西鶴『諸国噺』