Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ほんとうの私

1997年に、フランス語の原書よりも早く日本で刊行された、ミラン・クンデラの小説。

ほんとうの私

ほんとうの私

 

ミラン・クンデラ(西永良成訳)『ほんとうの私』集英社、1997年。


「覚えているかい、ひとつの美しい体が分泌物の器官だということが、ぼくにはずっとショックだった。それできみに、娘が洟をかむのを見るのが耐えられないと言ったんだ。いまでもありありと眼に浮かんでくるよ、するときみが立ちどまり、じっとぼくを見つめ、妙にわけ知りな、誠実な、断固とした口調でこう言ったんだ。洟をかむ? 娘の眼がどんなふうにまばたきをするか見るだけで、角膜のうえの瞼の動きを見るだけで、ぼくはほとんど抑えきれないほどの嫌悪を感じるんだと。覚えているかい?」(13~14ページ)

「恋愛小説」が売り文句となっているが、『存在の耐えられない軽さ』と同様に、一般の恋愛小説に見られるような軽さは全くない。

あらすじを書こうとすると陳腐になってしまう小説がある。そういった小説において重要なのは行動の結果ではなく、その行動に至るまでの過程なのだ。そしてクンデラほど、この過程を重視する作家もいない。

「このことをよく覚えていてちょうだい。あたしたちの宗教、それは生の礼賛だってこと。「生」という言葉は言葉の王様なのよ。この言葉=王様は他の大げさな言葉たちに取り囲まれている。「冒険」という言葉! 「未来」という言葉! それに「希望」という言葉! ところで、ヒロシマに落とされた原子爆弾の暗号名がなんだったか、あなた知っている? リトル・ボーイ! そんな暗号を考え出したひとって天才だわ! これ以上いいのは見つけられなかったでしょうよ。リトル・ボーイ、少年、小僧、がき。これ以上優しく、感動的で、未来のつまった言葉はないわ」(39ページ)

この小説は非常に短い51の章から成る。各章は連続していることもあれば、主体を変えての反復となっていることもあり、全く繋がっていないこともある。思考の過程とそれを行動に移した結果が、そしてその結果が喚起する新たな思考が、あらゆる角度から描写される。

「いつもそんなふうなのだ。彼女に再会する瞬間から、自分が愛しているとおりの彼女だと認める瞬間まで、一定の道のりを経ねばならない」(46ページ)

「いや、彼女に必要なのは愛の眼差しではなくて、共感もなく、選択もなく、優しさも礼儀もなく、宿命的に、避けがたく注がれる、見知らぬ、粗野な、貪欲な眼差しの氾濫なのだ。そのような眼差しこそ彼女を人間社会に引き留めるのにたいし、愛の眼差しのほうはそこから彼女を引き離すのだ」(49ページ)

そんなに分厚い小説でもないのに、読後感の重々しさは凄い。詰め込み過ぎな気がする。

「ひとは感情にたいしてはなにもできない」(51ページ)

「そのときぼくは、現在ひとが実践している友情の唯一の意味を理解したんだ。人間にとって友情は、記憶がちゃんと機能するために不可欠だということだ。自分の過去を思い出し、つねに過去を担っていること。たぶんそれが、よく言われる自我の完全さを保持するために必要な条件なのかもしれない。自我が縮小しないため、自我が容量を保つためには、壺の花々みたいに、想い出に水をやらねばならない。そしてそのように水をやるには過去の証人たち、つまり友人たちと定期的に接触していることがどうしても必要だ。彼らはぼくらの鏡、ぼくらの記憶なのだ。そこに自分の姿を見ることができるように、ときどきその鏡を磨いてくれること以外に、ひとは友人たちにはなにも求めない」(58ページ)

精読を要求される作品だ。難解というわけではないが、立て続けに読まなければ前後する章の関連がわからなくなってしまう。

「ところで、未来のママの胎内にいる胎児の生態を撮影した者がいる。その胎児は、ぼくらには真似をするのも不可能な、アクロバットのような姿勢で、自分のごく小さな器官のフェラチオをおこなっていた。いいですか、セックスは辛い羨望を惹起する若々しく、恰好のよい体だけの専有物ではないということなのです。胎児がおこなう自己口淫は、この世のおばあさんたちすべてを、どんなに気難しく、どんなに貞淑ぶったおばあさんたちでさえもほろりとさせるだろう。なぜなら、赤ん坊とはあらゆる多数派のもっとも強く、広く、確かな共通分母だからだ。そして胎児は、ねえ、みなさん、赤ん坊以上のもの、いわば原=赤ん坊、超=赤ん坊なんですよ!」(66ページ)

「秘密なものとはもっとも共通の、もっとも凡庸な、もっとも反復的な、そして万人に固有のものなのだ。身体とその欲求、病気、癖、たとえば便秘、あるいは月経など。ぼくらが恥ずかしそうにそんな私的なことがらを隠すのは、それが個人的なものだからではなく、逆に嘆かわしいほどなんとも非個人的なものだからだ」(129ページ)

最終的には、語られていた思考の過程と現実の境界が限りなく曖昧になる。現実なのか非現実なのか、境界がどこにあるのか、わからなくなる。

「あたしは裸だ! それなのに彼らはあたしを脱がせつづけるんだ! あたしからあたしの自我を脱がせるんだ! あたしの運命を脱がせるんだ! 彼らはあたしに別の名前をあたえたあと、見知らぬ人たちのあいだにあたしを捨ててしまうだろう。あたしはその人たちに、自分がだれかということをけっして説明できないだろう」(196~197ページ)

詰め込み過ぎなのだ。そこがクンデラの良さでもあるのだが。思考の波に、呑まれてしまう。ここまでやる作家はいない。だからまた、いずれ手に取ることになるだろう。

ほんとうの私

ほんとうの私

 


<読みたくなった本>
ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック
→本文中、男性主人公はシラノのように振る舞う。

シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)

シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)