枯木灘
「岬」から二年後の紀州を描いた、「秋幸三部作」の第二作目。
ある女性が「中上健次を読むと、ぶわぁーってなる」と言っていた。こいつ頭が悪いんじゃないかと訝っていたが、読んでみて彼女の言葉の意味を理解した。ごめんなさい。二度と足を向けて寝ません。
「岬」の時にも書いたが、明らかに重力が違う。「重い」なんてものじゃないのだ。一行の、一文字の重みが違う。中上健次の文章には、救いようのないほど嘘くささが欠落している。フィクションになっていないのだ。気安く読める一文字がどこにも見当たらない。その重々しさ故に、暗くなる。
「秋幸は声を噛んだ。あの男の血が流れていることは確かだった。確かに半分ほどの血はあの男から受けたものだった。だが一体それが何だと言うのだ、と思った」(41~42ページ)
登場人物が多く、しかもその関係が非常に複雑なので、最初のうちは相関図に助けてもらいながら読むことになる。例えば「岬」では秋幸の母フサと前夫勝一郎との娘で義理の姉にあたる美恵の夫実弘の兄古市が、古市と実弘の妹の光子の夫の安雄に殺された。二年後の『枯木灘』では人物はさらに増えている。ある程度小説を読み慣れていないと、たちまち投げ出してしまうだろう。
その上、中上健次の文章は読みやすいものではない。秋幸たちの話す紀州の方言がわからない。慣れてしまえば楽しめるのだが非常に戸惑う部分もあり、薦めてくれた尾鷲出身者に電話して聞こうかとすら思った。でもその友人が語っているのを想像したら、なんとなく理解できた。
今回中上健次を読んで、生まれて初めて日本文学を世界文学として読めたように思う。村上春樹を読んでもこんなことは感じなかった。違う国の話に見えるのだ。先ほどの重力の話をぶり返せば、違う惑星の話のように見えるのだ。あまりにも非日常的な物事が、日常的な言語で語られている。「兄弟」や「姉妹」といった言葉の観念からして違う。紀州の路地で起きたことが日本の出来事とは思えないのだ。それでも嘘くささが欠片もない。大変腕の良い翻訳家が訳した違う国の世界文学だったなら納得できる。我々にとってはあまりにも非日常的な世界が紛れもなく日本国内にあったということを、中上健次は示しているのだ。その文脈においても、記念碑的な大作である。
「空に日がある限り働く。秋幸はそんな今の自分が好きだった。十九の時以来それは変りなかった。人は死んだ。人は狂った。泣いた。だが秋幸は日を体に受け、日に染まり風に撫ぜられ十九から二十に、二十から二十四になっていま二十六の男としてここにあった」(73~74ページ)
路地の噂と、思考の反復と、突発的な事件。そういった事柄が交互に押し寄せてくる。噂があって、考えて、事件が起きて、また噂が生まれる。世界に渦巻く悪意と、あまりにも孤独な沈思黙考。それが延々と続くのだ。
何度も泣いた。私には珍しいことだ。ぶわぁーってなったよ。立ち直れない。他の誰にもこの小説は書けない。想像の範疇を根底から越えてしまっている。唯一無二の作家、中上健次。彼の小説を原語で読めることは、誇っていいと思う。
<読みたくなった本>
中上健次『地の果て 至上の時』
→秋幸三部作、完結編。
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
- 作者: ガブリエルガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,鼓直
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12
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