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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ぼくは勉強ができない

山田詠美の代表作とも言える、連作短篇集。最近山田詠美ばかり読んでいるのは仕事の都合なのだが、彼女の作品を読んでいるとそんなことは忘れてしまう。

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮文庫、1996年。


人格形成に影響を及ぼす読書、というものがある。今回再読したことで、高校生の時に『ぼくは勉強ができない』を読んで「勉強」という言葉の観念が大きく変わったことを思い出した。教室でおとなしく座っていることだけが、勉強ではない。これはそのことを徹底的に語り尽くした本だ。

「数学の授業が終わると、脇山が、笑いながら、ぼくに近寄って来た。
 「時田、おまえ何点だった?」
 「なんで」
 「いや、心配してやっただけさ。クラス委員やってる奴が、あまり出来ないと問題あるだろ。おれなんか、満点に近かったからさ、なんか、不公平かなって思ってさ」
 「別に不公平なんかじゃないよ」
 「でも、おまえ、このままじゃ三流大学しか入れないぜ」
 「ぼく大学行かないかもしれないから」
 「へっ? またなんで」
 「金かかるから」
 「おまえんち貧乏なの?」
 「そうだよ」
 「でも、大学行かないとろくな人間になれないぜ」
 「ろくな人間て、おまえみたいな奴のこと?」
 「そうまでは言ってないけどさ」
 脇山は、含み笑いをしながら、ぼくを見詰めた。嫌な顔だと思った。
 「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」
 「……そうか」
 「でも、おまえ、女にもてないだろ」
 脇山は顔を真っ赤にして絶句した」(21~22ページ)

女にもてないような男の言うことは信用できない。秀美はそう言って、哲学者の顔を確かめ、信を置ける人間かどうか確認する。この男子高校生、時田秀美が最高に格好良い。男子高校生だった当時の僕は、彼を英雄として祭り上げ、崇拝していたのだった。

「その日、ぼくは、電話もせずに、桃子さんのアパートを訪れた。夜中に急に彼女の顔を見たい衝動に駆られたのだ。夏の終わる気配を夜の空気に感じて、それを彼女に告げたくなったのだ。季節は、いつも暦を裏切り、名残りの尻っぽを落として行く。空気は秋でも、影は夏、そういうことに気付くと、ぼくは桃子さんに伝えたくてたまらなくなるのだ。夏の影法師を踏むような足取りで、ぼくは月夜の晩に、彼女の部屋をノックしに行ったのだった」(59~60ページ)

秀美を取り巻く人々が、みんな生き生きしている。母の仁子さん、おじいちゃん、恋人の桃子さん、同級生の真理や山野舞子。この山野舞子の描き方が際立っている。自分の美しさを十分に意識しながら尚、そのことに全く気付かぬ振りを続ける掛け値なしの美少女。こういうやつは、本当にいる。

「人の感情は、千差万別で、例として取り上げることなど出来ないものだ。どんなに尽くされた言葉でも、自分の気持とは、どこかが違うのだ。それは、人間が違うからだ。それでも、自分でない人の書いた恋の話を人々は求める。いったい、何を確認したいのか」(64ページ)

高校生にとって、この小説は危険だ。同じく山田詠美の短篇集『姫君』の「MENU」が、当時の僕のバイブルだった。一番好きだったのは江國香織村上春樹だったが、一番実生活上の影響を受けたのは山田詠美かもしれない。

「世の中には生活するためだけになら、必要ないものが沢山あるだろう。いわゆる芸術というジャンルもそのひとつだな。無駄なことだよ。でも、その無駄がなかったら、どれ程つまらないことだろう。そしてね、その無駄は、なんと不健全な精神から生まれることが多いのである」(83ページ)

軽い言葉の中に、真理が隠れている。この小説はもっと読まれてもいいはずだ。代表作なのだからある程度は有名なのだろうが、恋愛小説作家と思わずに、純文学や海外文学ばかり読んでいる友人たちにあえて薦めたい。人生変わるぜ。

「手を抜かないというのは、そのやる気を隠す段階まで進むことだ」(144ページ)

大人になった今だから、昔を思い出して尚更楽しかった。今後この小説の評価が落ちることはないと思う。むしろ、年を追う毎に上がっていくだろう。最初に読んだのが大体6年前だから、また6年経ってから読み返してみたい。その時心に響かなくなっていたとしたら、それは警告として捉えた方が良い。未来の自分に、そう言っておきたい。

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)