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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

A2Z

先日『ぼくは勉強ができない』を絶賛したばかりだが、個人的に最高傑作だと思っているのは実はこの『A2Z』だ。

A2Z (講談社文庫)

A2Z (講談社文庫)

 

山田詠美『A2Z』講談社文庫、2003年。


知り合いに「月に一回は必ずこの小説を読む」という女の子がいる。僕の場合はそんなペースで読み返すことはできないけれど、彼女の気持ちは理解できる。『A2Z』はそんな気持ちにさせてくれる小説なのだ。何度読んでも足りない気がして、ずっとこの感覚の中で溺れていたくなる。今回でまだ三回目だけれど、読むたびに驚かされる。そんな恋愛の解剖学。

「大人の女なんかじゃない。一浩が大人の男じゃないように。演技する必要のない密室の中で、大人たちは、いつだって子供に戻る。問題は、その密室を用意してくれる人間が側にいてくれるかどうかだ。一浩は、もう私にそれを与えてくれない。そして、私も彼に与えてあげることが出来ない。その方法が解らない。何故なら、お互いのみっともなさを、私たちは、もう、いとおしがれないからだ。その姿に出会うのが、特別な機会ではなくなった時、私たちは、共有していた密室を失ったのだ」(147ページ)

ある男女の出会いから別れまでを書き尽くした恋愛小説、というのは案外少ないんじゃないか。重要なのは書き尽くした、ということ。出会いの新鮮な興奮が、お互いへの探究心に変わり、そして更に化けていく。その過程をここまで描いた小説は他にはないと思う。

夏美には夫の一浩がいて、成生は恋人だ。構図だけ見れば不倫に違いないのだが、その関係の美しさは元々倫理なんてそんな大層なものじゃないと思わせてくる。夏美と成生の関係は、すごく動的で情熱的だ。反面、一浩との関係は静かで、無頓着に見える二人の中にただならぬ信頼と愛情が隠れている。どちらの場合でも「こんな関係素敵だなあ」とため息を吐いてしまう。

「すべての男と女の物語は、いて欲しい時に、いてくれない、そのことから始まるように、私には思える。いて欲しい時に側にいてやれる。いて欲しい時に側にいてくれる。そんなシンプルなことが、何故、かなわない夢に終わってしまうのだろう」(235ページ)

夏美も一浩も、職業は編集者だ。周りの人たちもみんな古くさいものをこの上なく愛していて、そんな彼らの姿勢に思わず微笑んでしまう。

「私、世の中がどんなに進歩しても、ベッドサイドの本と伏差しの中の手紙は失くならないと思っているの。機能的な方向に進めば進む程、いとおしくなる種類のものたちね」(24ページ)

そんなことを言うのは、仁子先輩だ。『ぼくは勉強ができない』の主人公、秀美の母である。相変わらず男たちより男前で、格好良い。

「会社の先輩の時田さんに言われた。彼女は、女手ひとつで、ひとり息子を育てて来た。役に立つ年寄(彼女の父親らしい)が家にいて子育てしてくれたからね、とは彼女の言葉だが、隙のない仕事ぶりとその合間に見せるやんちゃでおもしろがりの様子のギャップはすごいと思う。子供の父親だった男性とは、どのような事情かは知らないが、結局、籍は入れなかったという。息子の秀美くんは大学生。会社に時々遊びに来るので紹介されたが、二人でいるのを見ると、母親と息子というより、まるで年の離れた恋人同士に見えた。編集部の女の子たちは、敬意と気やすさを込めて、彼女を仁子先輩と呼んでいる」(22ページ)

一浩はチェスが好きだ。彼にも妻とは別に恋人がいる。夏美と成生の関係が不倫という言葉では説明できなかったように、彼らの関係もただ夫婦という言葉だけでは説明できない。不在がちの一浩が家に戻って、夏美とチェスをするシーンは印象的だ。

「一浩は、昔からチェスが好きで、そして強い。中学時代はクラブに入っていて、フィッシャー一浩と呼ばれていたと自慢していた。間抜けなプロレスラーみたいな呼び名だが、チェスの神様、ボビー・フィッシャーから来ていると言う。恋人同士になり、デートの場所が街中から部屋に移る頃、私は、彼から手ほどきを受けた。恋の相手とチェスをする、というあまり一般的ではない場面に自分がいることは、私の気に入った。人とは違う特別な恋をしているような気がした。これが、将棋だったら、この男にたらし込まれなかったかも、と思うと、つくづく口惜しい。ロマンスには、やはり、王手よりチェックだろう」(81ページ)

そんな一浩の愛読書は、セリーヌ。それだけで彼に好感を持ってしまうのは、高校生の時にはなかったことだ。

「「あー、本の下で眼鏡割れてる。さっき、ナツが投げた時、床に落として踏んだんだ。うわ、ということは、おれは、セリーヌを足蹴にしてしまったんだな」
 一浩は、黒い布張りの全集の一冊を手に取った。彼の愛読書だ。私には、やかまし過ぎて、どこが良いのか解らない。
 「いいじゃん、別に。『なしくずしの死』なんて題名。何回踏んづけて死なせたって一緒じゃん」」(21ページ)

高校生で読んだ時は成生にばかり共感していたのに、今回は一浩の素晴らしさが際立っていた。自分が変わったことがわかる本なんて、それだけで稀少価値だ。

『ぼくは勉強ができない』の時にも書いたけれど、文学好きの友人たちに薦めてみたい。ここまでリアルに恋愛という感情を描いた小説は中々ない。文学好きで恋愛が嫌いな奴なんていないのだ。僕らはみんなロマンチストだ。だからこそ、ちょっと試しに読んでみて、と言いたい。彼らがため息を吐くのが、目に浮かぶ。

A2Z (講談社文庫)

A2Z (講談社文庫)