Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

青い麦

感情を掻き乱す、感覚のみによって書かれたコレットの小説。芸術と呼ぶには、あまりにも距離感が近い。 

青い麦 (新潮文庫)

青い麦 (新潮文庫)

 

シドニー=ガブリエル・コレット(堀口大學訳)『青い麦』新潮文庫、1955年。


「マダム・ダルレーへの三度目と四度目の訪問を、フィルは苦もなくヴァンカに隠すことはできはした。だが、ぞっこん惚れこんでいる魂が、掲げ、探り、気になる汚点を発見して、さてその上で引っ込めてしまう不可視のアンテナに対しては、距離や土塀が何の力を持ち得よう?……彼ら二人の偉大な恋の秘密の上に接木されたこの小さな寄生木のような秘密が、事実としてはまだ無罪なフィリップを、徳義上の汚れで傷つけていた」(71ページ)

恋愛とは何か、結局わからないままの我々でも、自らの愛する人のことを理解することはできる。恋人の仕草一つ一つの意味が、手に取るようにわかる。途方もなく長い時間が、それを可能にすることがある。

「彼女の思いの重量が、初のアヴァンチュールの途上にある十六歳の少年を凍らせる恐怖以上に、この試練を苦役に、またこの誇らしい有頂天を勇気の足りない好奇心にとかく変えてしまいそうだった」(76ページ)

そんな仲になると、わざわざ言葉を交わさずとも想いを伝えられるようになる。場合によっては、「なってしまう」と言うべきかもしれない。『青い麦』が描き出すような場合には。

「《彼がもし大人だったら、わたしに「愛している」と言ったに相違ない》と彼女は思った。《だけど、この子は、もしもわたしが問いつめたら、泣きながら接吻しながら、叫んで言うはずだ、わたしを愛してはいないと。問いつめてやろうかしら? そうしたらこの子を追い出すか、それともわたしがわななきながら彼の口からわたしの優位の限界を教えられるか、そのどちらかになるわけだわ》」(100ページ)

「砂浜に肱をついて読んだり、または咎め立てを恐れるというよりはむしろ遠慮から、部屋にこもって彼が自由に読んでいる本の中のどの一冊も、こんなありふれた難破から人が死ぬような重大な結果が生れるとは教えていなかった。普通小説本は、肉体の恋愛に行きつくまでの準備に、百ページも、それ以上も費やすが、肉の行為そのものの記述となると、たった十五行で終っている。それにまた、フィリップは自分の記憶の中をいくら捜してみても、一人の若者が、彼の少年期と童貞を、たった一度の過失によって失ったままにしてしまう本は見いださなかった。むしろそれとは反対に、そのような若者は、必ず、いわば地震のような深い心の動揺によって、幾日も幾日も悩み続けるのが普通のようだった」(108~109ページ)

関係が発展すると、つもりがなくとも、相手の変化に気付いてしまう。誰かの影を落としたままの自分の恋人を、直視できなくなる。そんなことが起きてしまう。

「二人は、何気なさそうな口をきき合った、そのくせ、自分たちが重大な言葉を、さもなければ、それと同じほど意味の深い沈黙を用意していると知っていた」(127ページ)

コレットの小説は技巧的ではない。感覚のみによって書かれている。だからこそ、親しみが持てる上に、痛々しい。慄然とさせられる。

「「浮気か……」痛いながらも嬉しくフィリップが繰り返した。「こんなこと、僕の年頃の若者なら誰にだってあることだよ!……」
 「だからわたしが慣れなければいけないって言うんでしょう」ヴァンカがさえぎって言った。「結局あんたという人間が、あんたの年頃の《若者たちの誰》とも変わらないものだということね」」(145ページ)

悲劇的な話だが、ラストが抜群に良い。かなりの内容を語ってしまったが、気になる方は是非自身で手に取ってもらいたい。

青い麦 (新潮文庫)

青い麦 (新潮文庫)