Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ふたりのロッテ

好きな作家の本を読めるというのは、なんて幸せなことなんだろう。しかも、それがまだ未読のものであるなら尚更だ。とはいえ、いつもこの調子で読んでいたら、すぐに未読のものはなくなってしまう。ジレンマだ。もったいない。とうとう読んでしまった。

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

 

エーリヒ・ケストナー(池田香代子訳)『ふたりのロッテ岩波少年文庫、2006年。


ケストナーを読むたびに、大きく揺さぶられる。恋人がいた頃には、彼女にも読み聞かせてやらなきゃ、と駆り立てられたものだ。今はそれがない。その分、何だか寂しくなってしまった。『ふたりのロッテ』ほどの作品を、たった一人、暗い部屋の中で読んでしまうなんて。作中に登場するお父さんは芸術家だ。こんな一節があった。

「「ほんものの芸術家」たる者は孤独に耐えるべきだ」(72ページ)

それがどれだけ寂しい考え方だか、ケストナーは声高に主張する。そんな彼も芸術家だ。ケストナーも当然、これを書くときには一人だったに違いない。終盤に訪れるお父さんの変化は、芸術家の理想だ。ケストナーには、それができなかったのだろう。だからこそ『ふたりのロッテ』を書いたのだろう。そんな気がしてならない。

「月は、寝室の大きな窓からのぞきこみ、これはこれはとおどろく。ふたりの女の子がならんで横たわり、目はあわせないようにしながらも、まだしゃくりあげているほうの子が、いまその手で、もうひとりの、自分をなでてくれている子の手を、ゆっくりとまさぐろうとしている。
 「これでよし」と、銀色の年とった月は考える。「これでわたしも、安心して沈める」
 そして、ほんとうに沈んでいく」(28~29ページ)

ケストナーの語り口は病み付きになる。章の初めに掲げられた「あらすじめいた箇条書き」は、16世紀から18世紀ごろまで出回っていた、民衆本のスタイルらしい。ただケストナーの場合、箇条書きを見ただけではわからない。わざと変なところを取り出してくるのだ。そんなところにまでユーモアが散りばめられている。

やっぱり『飛ぶ教室』を越えることはできないけれど、めちゃめちゃ好きだ。『飛ぶ教室』より先に『ふたりのロッテ』を読んでいたら、どうなっていたかはわからない。いや、でもやっぱり『飛ぶ教室』かな。『ふたりのロッテ』は二番目。いや、『エーミールと三人のふたご』もあるな。それに『雪の中の三人男』も。悩む。

これでとうとう、岩波少年文庫から出ているケストナーは全て読んでしまった。あとは高橋健二訳の全集と、ちくま文庫の『ファービアン』と、創元推理文庫の『消え失せた密画』だけだ。もったいなくて読めない。

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

 


<読みたくなった本>
クリュス『涙を売られた少女』

涙を売られた少女

涙を売られた少女

 

エンデ『鏡のなかの鏡』
ケストナー熱を静めてくれる稀有な作家たち。

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

 

グリム童話
→「ヘンゼルとグレーテル」が作中に出てきたため。池内紀訳と高橋健二訳の、どちらにしようか大いに迷っている。

グリム童話〈上〉 (ちくま文庫)

グリム童話〈上〉 (ちくま文庫)

 
グリム童話〈下〉 (ちくま文庫)

グリム童話〈下〉 (ちくま文庫)

 
完訳グリム童話集〈1〉 (小学館ファンタジー文庫)

完訳グリム童話集〈1〉 (小学館ファンタジー文庫)

 
完訳 グリム童話集 5 (小学館ファンタジー文庫)

完訳 グリム童話集 5 (小学館ファンタジー文庫)