Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

1Q84

発売から巷を騒がせている話題の新刊。元々こんなに早く読むつもりはなかったのだが、下記の事情で手に取った。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 

村上春樹1Q84』Book1・2、新潮社、2009年。


職業柄、新刊の情報はずっと入ってきていた。発売前から「カフカの次はオーウェルだ!」とか「実は『阿Q正伝』なんじゃないか?」といった憶測が売場で飛び交っており、実際に納入してみたら「Book1」の奥付にチェーホフの引用の出典が書かれている。中央公論新社版のチェーホフ全集。つまり私が持っている全集と同じだった。これはもう読むしかない。

村上春樹の七年ぶりの長編であり、私としても彼の著作を腰を据えて読むのは三年ぶりくらいだ。スラスラと入ってきすぎるものだから、意図的に避けていた。春樹を読むと文章が春樹になってしまう。誰でも真似できる文体で、誰にも真似のできないことを書く。敬遠してはいたものの、やっぱり素晴らしい作家だと思った。

以下、色々と内容について書くことになるので、これから読もうと意気込んでいる方は避けて下さい。

二人の主人公の視点で物語が交互に進められるところを見れば、構成が最も近いのは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だろう。しかし読み進めながら思い出したのは『カンガルー日和』に収められた「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」や『夜のくもざる』の「夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について」だった。「春樹は長編より短編の方が面白いよ」と至るところで言ってきたが、この長編は短編連作のように読める。二つの短編連作が交互に語られ、一つの長編を形作っているのだ。オーウェルの『1984』は至るところに引用されていた。チェーホフも負けないくらい多かった。個人的にはジョン・アーヴィング『ガープの世界』を彷彿させられた。ただ、これは途中で語られるテーマが近いだけだ。

「「つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」
 「そうでしょうね」と青豆は言った。
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」(Book1、23ページ)

久々に春樹の文体に触れたので、妙に嬉しくなった。「やれやれ」だの「重要なことではない」だの、そろそろわざとやっているとしか思えない。相変わらず女性が女性とは思えないことを平気で口走る。読んでいて非常に楽しい。読者が彼に求めんとするところを的確に理解している。楽しい。

「多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ」(Book1、25ページ)

読んでいる最中に様々な「読みたい本」が発生するのは良い本の証拠だ。春樹はフィッツジェラルドサリンジャーを再評価したり、著作に色々な本のタイトルを明記したり、なんだかんだ偉い。末尾の名前の上がっていた本のリストを用意した。これは完全に自分用である。

「こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな? しかし空に月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる。省いてかまわないのは、あるいは省かなくてはならないのは、ほとんどの読者が既に目にしたことのあるものごとについての描写だ」(Book1、309ページ)

「俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」(Book1、40ページ)

「きわめて単純なことだ」に大興奮。

「それはどう見ても、ほかの誰かが手にとって読むことを前提として書かれた文章だった。だからこそ『空気さなぎ』は文学作品とすることを目的として書かれていないにもかかわらず、そして文章が稚拙であるにもかかわらず、人の心に訴える力を身につけることができた。しかしそのほかの誰かとはどうやら、近代文学が原則として念頭に置いている「不特定多数の読者」とは異なったものであるらしい。読んでいて、天吾にはそういう気がしてならなかった」(Book1、128ページ)

「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる」(Book1、318ページ)

ご覧の通り、序盤は文学観が語られる箇所が大変多い。珍しいことだ。創作過程を窺えるような箇所もある。今は売れ行きで話題を呼んでいるが、今後批評が出揃ったらまた話題になるだろう。特に下の引用箇所。間接的とはいえ、ここまで書かれたら黙ってないんじゃないか。

「俺が望んでいるのは、文壇をコケにすることだよ。うす暗い穴ぐらにうじゃうじゃ集まって、お世辞を言い合ったり、傷口を舐めあったり、お互いの足を引っ張り合ったりしながら、その一方で文学の使命がどうこうなんて偉そうなことをほざいているしょうもない連中を、思い切り笑い飛ばしてやりたい」(Book1、50~51ページ)

個人差があるだろうが、舞台が身近なのも楽しかった。新宿や高円寺。見知った街が小説に登場するのは何故か嬉しい。

「予備校で講義を三コマ終え、電車で新宿に向かった。紀伊国屋書店で本を何冊か買い、それから中村屋に行った」(Book1、82ページ)

『海辺のカフカ』よりも、話がまとまっている気がする。断言し切れないのには理由があるのだが、後述する。

1Q84年――私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた」(Book1、202ページ)

「彼が何よりも求めているのは自由で平穏な時間だった。定期的なセックスの機会が確保できれば、それ以上女性に対して求めるべきものはなかった」(Book1、451ページ)

今更ながら『1Q84』は「僕」の話ではない。『ダンス・ダンス・ダンス』の続編、という噂もあったのだが、ここでは羊もイルカも出てこず(ちなみに山羊は出てくる)、一貫した三人称の小説だ。あらためて力量を感じる。誰でも真似できる文体で、誰にも真似のできないことを書ける力。純粋に凄い。

チェーホフは優れた作家だが、当然のことながら彼のやり方だけが唯一のやり方ではない。物語の中に出てくる銃がすべて火を吹くわけじゃない」(Book2、79ページ)

「青豆の中にいる三十歳になった天吾は、現実の天吾ではない。彼はいわばひとつの仮説に過ぎない。すべてはおそらく彼女の想念が生み出したものだ」(Book2、113ページ)

ちなみに、中に出てくる小説の批評に、「マジック・リアリズムの空気を吸ったフランソワーズ・サガン」(Book2、122ページ)というものがあった。爆笑。

「牛河は玄関ロビーの隣にあるカフェテリアで、カフェオレを飲みながら天吾を待っていた。カフェオレはどう見ても、牛河に似合わない飲み物のひとつだった。そして若い元気な学生たちの中に混じると、牛河の外観の異様さはいっそう際だっていた。彼のいる部分だけが、ほかとは違う重力や大気濃度や、光の屈折度を持っているみたいにも見えた。遠くから見ると、彼は実際に不幸なニュースのようにしか見えなかった」(Book2、213~214ページ)

春樹は読みやすい。普段海外文学ばかり読んでいる分、尚更そう感じるのかもしれない。ところどころに現れるユーモアが素晴らしい。「不幸なニュース」って。カフェオレ飲んでるだけなのに。

「天吾は窓際に行って、カーテンを少しだけ開けて外を眺めた。三階の窓から見える風景にとくに変わったところはなかった。不審な人間の姿も見えないし、不審な車も駐車していない。いつもどおりのぱっとしない住宅地の、ぱっとしない風景がそこに広がっているだけだ。歪んだ枝振りの街路樹は灰色のほこりをかぶり、ガードレールには多くのへこみがつき、錆を浮かべた自転車が何台か道ばたに放置されていた。「飲酒運転は人生の破滅への一方通行」という警察の標語が塀に掲げてあった(警察には標語をこしらえる専門の部署があるのだろうか?)。意地の悪そうな老人が、頭の悪そうな雑種犬を散歩させていた。頭の悪そうな女が、醜い軽自動車を運転していた。醜い電柱が、空中に意地悪く電線を張り巡らせていた。世界とは、「悲惨であること」と「喜びが欠如していること」との間のどこかに位置を定め、それぞれの形状を帯びていく小世界の、限りのない集積によって成り立っているのだという事実を、窓の外のその風景は示唆していた」(Book2、256~257ページ)

今回発売と同時に、私も含めて周囲が一斉に『1Q84』を読み始めた。「今どのあたり?」なんていう会話が日常的に交わされ、みんな自分のペースで読書を楽しんでいる。こんなに明るい光景はなかなか見られない。あと一週間もすれば、みんな読み終わって感想を語り合えるだろう。楽しみだ。話題の新刊をみんなで読む、というのも悪いものではない。

「間違ったことはしていない。ただ法律に反しているだけだ」(Book2、322ページ)

ところで、刊行前から気になっていた「Book1」と「Book2」という名称。当然、何故「上下巻」ではないのか、「Book3」が遅れて刊行されるのか、といった憶測が生まれる。「Book2」まで読み終えた個人的な所感としては「Book3」なるものは刊行されない。ストーリーが完全な完結を迎えているわけではないのだが、『アフターダーク』に見られた見事なフェードアウトのような読後感が残っている。理由は他にもあるのだが、内容を深く語るのはまだ控えたい。悔しいが何とも言えない。だからこう言うしかない。

また七年後、期待しています。
でも「Book3」が出るなら買います。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 

 

<登場する本リスト>
オーウェル『1984』(全編)
アリストテレス『ニコマコス倫理学』(Book1、307ページ)
ディケンズオリバー・ツイスト』(Book1、315ページ)
平家物語』(Book1、367ページ)
『今昔物語』(Book1、368ページ)
森鴎外山椒大夫』(Book1、368ページ)
チェーホフサハリン島』(Book1、460ページ)
マクルーハン『メディア論』(Book1、517ページ)
ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』(Book1、554ページ)
中里介山大菩薩峠』(Book2、179ページ)
フレイザー金枝篇』(Book2、241ページ)
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』(Book2、244ページ)
チャーチル第二次世界大戦』(Book2、248ページ)
フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』(Book2、335ページ)
ルイス・キャロル不思議の国のアリス』(Book2、420ページ)