Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

麗しのオルタンス

 日本に帰国した暁にはすぐにも読まねば、と思っている本たちの膨大なリストを片手に、パリのジュンク堂ブックオフを渉猟していた際に、うっかり見つけてしまった一冊。日本の自宅の本棚で、まだそのページを開かれることすらなく書棚に突きささったままになっていること、しかも「ウリポ関連書」という名前で呼んでいる、部屋のなかでは特等席とも言える棚に収められていることは重々承知のうえで、もう一冊購入してしまった。

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

 

ジャック・ルーボー(高橋啓訳)『麗しのオルタンス』創元推理文庫、2009年。
(Jacques Roubaud, La belle Hortense, Collection Points n°202, Édition Seghers, 1990.)


 そもそもこの本が創元推理文庫に収められている、ということが最高に笑える。探偵小説を期待して手に取った人たちの思惑を、徹底的に打ちくだくための悪辣な冗談としか思えない。訳者があとがきで挙げている「抱腹絶倒の悪ふざけ」というものより的確な定義は、なにひとつ思い浮かばないというものだ。

 ジャック・ルーボーは現在も活動をつづけているウリポのなかで、クノーやペレックらが活躍していた時代から所属しているもっとも古参のメンバーのひとり。フランソワ・ル・リヨネーらと同様に数学者でもある彼(もっとも彼が好む肩書きは「元数学者」)は、俳句や連歌に関する著作もものしている日本文学通で、これまでまったく翻訳がなかったことのほうが不思議なくらいの人物なのである。そしてこの小説は次の文章からはじまる。

「夏、エウセビオス食料品店は八時に開店する。もっとも、冬も同じ時間なのであるが」(11ページ)

 最高に人を食った冒頭である。四世紀中ごろに十巻の『教会史』を編纂した、初期キリスト教のなかでもっとも重要な教会史編纂者エウセビオスの名を冠する男が、食料品店を営んでいるのだ。そして、彼がみずから八時に店を開ける理由は、夏服で薄着になった女性観光客の品定めをするためにある。その過程が数学者ならではの筆致で語られるのは、痛快の一言に尽きる。

エウセビオスによれば、それが本章で筆者が採用する視点であるが、厳密に言えば観光客は基本的に二つのカテゴリーに分類されていた(とりあえずスコットランド人などのような個別の、あるいは国境を示唆する分類は避けられている)。すなわち、男はカテゴリーⅠ、女はカテゴリーⅡに入る。カテゴリーⅠにはまるで関心がなかった。カテゴリーⅡ(女)は、さらに二つの下位カテゴリーに分けられていた(「言ってみれば、箱の中の野菜みたいなもんだな」と彼はエウセビオス夫人に説明するのだった。「箱の中には莢えんどうがあり、むいたグリーンピースもある。豆には小粒と、極小がある。極小のなかにも、生とゆでたのがある、わかるかい?」などとエウセビオス夫人に語りかけるのだが、すでに彼女は眠っている)。というわけで、カテゴリーⅡの中にも、惹かれる女(A)と惹かれない女(B)があるのだった。惹かれない女の下位カテゴリー(ⅡB)は、男のカテゴリー(Ⅰ)以上に彼の関心を惹かないのだった。要するに惹かれる女(ⅡA)にしか関心がないのであるが、そのカテゴリーのなかにも熟慮の末、さらに下位の特別なカテゴリー<まんざら惹かれないわけでもない女>を含ませていた。この考えを彼に吹き込んだのは、ニコラウス・クザーヌスの熱烈な信奉者で、この神学者を「大いに笑わせてくれる」と評しているシヌール神父その人であった。それをここではⅡA*と記すことにしよう」(15~16ページ)

 ここでさりげなく登場するシヌール神父は、オルガニストにして無神論者という、限りなく魅力的な人物で、その他の人びとも素晴らしい個性でもって読者を魅了してやまない。そのなかでも特に異彩を放っているのが、高貴な血を引く猫こと、アレクサンドル・ウラディミロヴィッチだ。以下は彼がはじめてエウセビオス夫人の前に現れたときに添えられていた手紙の内容である。

「この揺り籠の中にいる私ことアレクサンドル・ウラディミロヴィッチは、狂おしくも高貴な不倫の落とし子である。私の母親は、ポルデヴィア六皇子ご巡幸の折、従者としてこの町を訪れ、現地の見目麗しき貴種と過ちを犯した。外交上および家系上の犯すべからざる重大な理由により、婚姻は認められなかった。そうした次第で、私は遺棄された孤児として、ベルトランド・エウセビオス、あなたの手に託されることになった。ここに添えられている巾着にはダルマシアおよびポルデヴィアの金貨が詰まっており、私が宮中でのしかるべき地位を要求できるようになるその日まで、養育費に当てていただきたい。私の食生活は次のとおり。朝には牛乳、ただし、清潔なコーヒーの受け皿に注いだグロリア牛乳に限る。肉はヒレ、ミンチにした生肉に限る。週に一度はバルト海でとれた鰊のクリーム煮を出すこと。そのほかはその日の私の気分次第。私の世話を託されたベルトランドよ、この名誉をありがたく受け止め、いかなる場合においても私の出自と私の将来の身分に鑑み、それにふさわしく私を待遇しなければならない。とりわけ私に声をかけるときには、敬意を持ってあなたと呼びかけ、フルネームを使用しなければならない。アレックス、ウラディ、ネコちゃんなどの省略やあだ名はかたく禁ずる」(33~34ページ)

 手もとの原書を開いてみると、原文はこうなっている。

「Je suis, dans ce berceau, Alexandre Vladimirovitch, fruit d'amours coupables, passionnées et princières. Ma mère, de la suite des Princes Poldèves en visite dans ta ville a fauté avec un noble autochtone et irrésistible. Les plus hautes raisons diplomatiques et dynastiques ont empêché son mariage. C'est pourquoi me voici orphelin et abandonné, confié à tes soins, Bertrande Eusèbe. La bourse ci-jointe, pleine de pièces d'or dalmates et poldèves, pourvoira à mon entretien et à mon éducation, jusqu'à ce que le temps soit venu pour moi de réclamer la place qui m'est due à la cour. Mon régime sera le suivant: du lait tous les matins, mais uniquement du lait Gloria, dans une soucoupe propre. De la viande, mais uniquement du filet, haché, et cru. Des harengs de la Baltique à la crème une fois par semaine. Le reste selon mon humeur. Toi, Bertrande, à qui je suis confié, tu seras sensible à cet honneur, et en conséquence tu me traiteras en toutes circonstances avec les égards dus à mes origines et à mon rang futur. En particulier, tu ne m'adresseras la parole qu'en me vouvoyant et tu ne prononceras mon nom qu'en entier. Tout diminutif ou sobriquet, que ce soit Alex, Vladi ou Chabichou est strictement interdit」(pp.27-28)

 フランス語には二人称の主語が二通りあって、話者同士の親しさによってそれらが使い分けられる。親しい相手には「tu」を、目上の人や初対面の相手には「vous」を用いるのが一般的で、それでも相手が「tu」を用いる場合にはこちらも「tu」で答えるのが普通だ。親しみを込めて「tu」を用いて話すことを「tutoyer」、他人行儀に「vous」を用いることを「vouvoyer」という動詞で示すこともできる。そしてここでアレクサンドル・ウラディミロヴィッチは、エウセビオス夫人のことを「tu」と呼びながら、相手には敬意を持って「vous」と答えることを強要しているのだ。恐るべき猫である。

 ほかにも魅力的な人物はいくらでもいるのだが、私を震えあがらせたのは哲学者であるオルセル教授の双子の娘たち、アデルとイデルである。彼女たちはまだ九歳なのだが、ウリポの作家たちが子どもを書くときには注意が必要だ。クノーのザジちゃんや、ペレック『煙滅』に出てくる「ラカンを読んでいる六歳児」アウエ君のことが思い出される。要するにクソガキだらけなのだ。

「昼食のとき(主な献立としては、羊のロースト、インゲン豆添えにヴァシュラン(アイス))、アデルが聖トマス・アキナスの『神学大全』の短い要約をすると、イデルはウィトゲンシュタインの『哲学探究』をくそみそにこき下ろした。アイスを食べる合間に、彼女は父親の言葉を引いて、ブロニャール警部が<金物屋の恐怖>事件を解決することはけっしてないだろう、なぜなら「彼の取り組み方はあまりにデカルト的だから」と指摘した(これはあくまでも、ぼんやりと聞いていたシヌールの解釈であって、実は彼女は「デカルト的(カルテジエンヌ)」と言ったのではなく、英語からの借用で「カルトジオ修道会的(カルトゥジエンヌ)」と言ったのである)」(228ページ)

 原文では「デカルト的」は「cartésienne」、「カルトジオ修道会的」は「carthusienne」となっている。当然ながら、後者は手もとにあるぶあつい仏仏辞書にも載っていなかった。まったくもって翻訳者というのは大変な職業なんだな、と思った。

 ブロニャール警部が担当している「<金物屋の恐怖>事件」というのが、この本を創元推理文庫に収めさせたほとんど唯一の理由と呼べるもので、そのミステリー的要素が、多くを語ることを私に禁じている。そのためここでは、ストーリーにはまるで触れることなく、いかにもウリポ的なこの本の奇妙な構造について書いてみたい。

 このブロニャール警部に随行する小説家志望のジャーナリスト、モルナシエ青年は、この小説のなかでは一人称で「私」と名乗り、原著者の思惑を離れて好き放題に物語を押しすすめようとするのである。「メタフィクション」などという言葉は使いたくないので出来るだけ具体的な例を挙げると、それはまるで二人の「私」が出てくるペレックの『W ou le souvenir d'enfance』や、「著者」と「読者」と「原著者」がめまぐるしく入り交じるセルバンテス『ドン・キホーテ』(特に後編)のようである。

「筆者という言葉で私が言わんとしているのは、あくまでもこの物語の語り手であり、正確には複数の語り手のことである。というのも、どんな物語であっても語り手は一人ではなく、おびただしい数の語り手が暗黙のうちに、あるいは明白に想定されているからである。正常に構成された語りにおいては、重要なことが起こる場所と頭脳の数に応じて、語り手の数も増える。愚かな小説家だけがいつも同じ場所に、つまり彼自身のうちに、自分の頭の中にとどまっている。私ことジャック・ルーボーは、ここではたんにペンを持つ者にすぎなく、この場合は黒のフェルトペン<パイロット・レーザー・ポイント>細字であるが――キャップの先端に黄色で示されているのが細字で、逆に白い丸で示されているのが太字。細字のほうが高価なのだが、しかたない――、そういうわけで、私は文法用語で言うところの謙譲の複数として筆者という言葉を使うのである。ちなみにこの小説では、まもなく明らかになることではあるが、その前にここで言ってしまうと、語り手の一人が物語の登場人物となっている。彼は早くも第2章から登場し、様々な物語と同じく、私と名乗る。しかし、どうか彼を本書の著者である私と混同なさらないようお願いする次第である」(12ページ)

 やがて青年が奔放にその筆を走らせると、著者が「註」と称して色々といちゃもんをつける。口論が激しくなると「編集者による註」まで出てくるようになり、その流れに乗じて「翻訳者による註」まで飛びだしてくる。付言しておくとこの翻訳、原文の軽やかさを決して減じていない、すばらしいものである。ルーボーの使う語彙はペレックに比べたら遙かに簡単なものだが、それでもウリポの文章を訳せるというのは、すごいことだ(ちなみにペレックに関しては、さすがに『煙滅』の偉業をやり遂げた作家、見覚えのない単語が行列を成して出てくる。おそらくフランス人にとっても彼の文章を読むのは容易ではない)。

「思うに、小説にとって、語りの時間ではなく、語られる出来事の時間に即して、最初の時点から先に話を進めていくことがいかに難しいか、読者はそれに気づくことだろう。三度にわたって、この19**年9月6日の朝から話を先に進ませようと努力を傾けてきたが、ブロニャール警部との出会いを語っただけで、かろうじて午前中のなかばまで来たにすぎない。説明しなければならない小説以前の出来事が山ほどあるから、一分でも前に進められたら奇跡と言うべきだろう。この点に関しては、できたら同業者に質問してみたいほどだ。とくにアレクサンドル・デュマあたりに。なにしろ二十年後にいきなり飛んでしまうのだから、なんという離れ業だろう!」(95ページ)

 小説そのものについての考察は枚挙に暇がない。この複数の著者が至るところで介入してくる、という仕組みが、この本にエッセイのような軽やかさを与え、ページを繰る手を止められなくしているのだろう。ちょうどケストナーがその著作の冒頭に置く前口上のようなもので、これによって物語そのものが持つ空間的な広がりが大きく向上していると思う。シヌール神父のこんなセリフを見つけて、はしゃいだ。

「「忘れるために飲むんだよ」と彼はときおりイヴェットに語るのだった。
 「忘れるって、何を?」
 「飲んでることを忘れるためにさ」」(131ページ)

 さりげなく書かれてはいるものの、これは明らかにサン=テグジュペリ『星の王子さま』、そのなかでも私が愛してやまない「酔っぱらいの星」を意識した一節である。他にも探してみたらいくらでもこういうものが見つかるのかもしれない。読者を喜ばせる要素がたくさん織り込まれていて、非常に楽しい。それこそシヌール神父ではないが、「大いに笑わせてくれる」。

「お嬢さん、あなたの目は美しい、とくに右目が」(99ページ)

 小説というのは批評するためではなく、楽しむために読むものだということを強く感じた。未読のかたには、是非ともこれを機に手にとって頂きたい。ミステリー好きでも文学マニアでも普段小説を読まない人でも、楽しめることを確約できる稀有な一冊である。

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

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La Belle Hortense

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<読みたくなった本>
Jacques Roubaud, L'Enlèvement d'Hortense

L'enlevement d'Hortense

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Jacques Roubaud, L'Exil d'Hortense

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Jacques Roubaud, Le Grand Incendie de Londres

"Le ""grand incendie de Londres"" (édition 2009)"

 

Raymond Queneau, Pierrot mon ami

Pierrot Mon Ami (Folio)

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