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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

書痴談義

 先日紹介した『愛書狂』の三年後に刊行された、生田耕作の編訳によるもうひとつの「愛書小説」アンソロジー。

書痴談義

書痴談義

 

ピエール・ルイス他(生田耕作編訳)『書痴談義』白水社、1983年。


 これもまた函本である。空になった函を机のうえに置いて、中身である本を読むのがたまらなく好きだ。中断しているあいだにも函が目に入って、早く続きが読みたくなる。『愛書狂』もそうだったけれど、これもあっというまに読み終えてしまった。それぞれの作品に通底するテーマが愛書家だから、というだけの理由ではなく、全部でたったの200ページしかないし、それに字も大きいのだ。だが、なにより選者が生田耕作であることが大きい。この人が選んだというだけで、おもしろさは保証されているようなものだ。

 以下、収録作品。

★★☆ピエール・ルイス「書庫の幻」
★★★オクターヴ・ユザンヌ「シジスモンの遺産」(※)
★★★ジョルジュ・デュアメル「書痴談義」
★☆☆ローレンス・G・ブロックマン「アルドゥス版殺人事件」
(※奢覇都館版の『愛書家鑑』として紹介済み)

 正直なところ、こちらの選集は『愛書狂』よりも、よっぽどごたまぜ感が強い。作風が違うのももちろんのこと、なにより作品ごとのテンションがぜんぜん合っていないのだ。CDアルバムの曲順に納得がいかない感覚に似ている。というより、単純にオクターヴ・ユザンヌのテンションが高すぎるのだ。この作品については以前にも書いたことがあるが、あまりのノリノリ感に思わず再読してしまった。この作家はユーモア文学の書きかたというものを、熟知しているように思える。

「「女性とはなんぞや? イヴの一版にすぎん、保存程度に多少の差はあるが――」
 「なるほど――しかし装幀も大事なんでは?」」(ユザンヌ「シジスモンの遺産」より、41~42ページ)

「あの書斎には、グロリエや、マイオリや、国王や、皇帝や、皇女の旧蔵本が、すばらしい装幀本が収まっておるんですぞ――お嬢さん! 貴女はその知識を持ち合わせていらっしゃらない――ご存知ないからだ――グロリエたちを! 私なら同じくらい見事な装幀にしてもらえるというんなら、皮膚を売っても、生きたまま皮を剝がれても構わんと思っとるほどなのに!」(ユザンヌ「シジスモンの遺産」より、52~53ページ)

 巻末には『愛書狂』と同様、「作家紹介」が付されていた。この愛すべき作家の作品をもっと読んでみたいとずっと以前から思っているのだが、邦訳が無いだけならまだしも、フランス語で探してもほとんどまったく見つからなかった。ほとんど、という留保を付けたのには、わけがある。以下の引用文がその内容だ。

「シャルル・ノディエの伝統を継ぐ古書愛好趣味の擁護・推進者として、英吉利アンドルー・ラングと並ぶ位置を占める好事家文学者。書籍学(ビブリオグラフィ)の造詣を実地に活かし、自ら造本指導に当って刊行した贅沢本の数々、『扇子』『日傘』『仏蘭西贅美本』其他の諸著作は、アール・ヌーボー美術の一つの頂点として、こんにち、古書市場において万金の値を呼んでいる」(「作者紹介」、オクターヴ・ユザンヌの項目より、180ページ)

 そう、完全なる稀覯本となってしまっているのである。パリとアムステルダムの書店で一度ずつ見かけたことがあるのだが、いちばん安くても400ユーロ(約4万5千円)だった。普及版すら無いのである。「モロッコ革じゃなくていいんだ、ただ読みたいだけなんだ!」といくら叫んでみたところで、なんの意味もない。とはいえ、いつか強盗してでも手に入れるつもりである。

 こんなとき、金のない愛書家はこんなふうに考えて溜飲を下げる。「だいたい、モロッコ革だのなんだのにこだわる連中は、本の外観ばかり気にして、肝心の中身をないがしろにしているんだろう、こんちきしょう、こんちきしょう」と。この、愛書家は本の外観と中身のどちらを愛するのかということは、ジョルジュ・デュアメルの作品のなかでも語られている。

「ご存知のとおり、蒐集の成果を挙げようと思えば、おのずと範囲を限らざるをえません。私の場合も、そんなわけで、もともと好きな詩人の本を集めることにしました。それでも間口が広すぎて、フランスの詩人、それも十六世紀以降に限定せざるをえませんでした。原稿類は除外して。刊本のみにとどめ。むろん、稀覯本。とりわけ、美しい版。私は贅沢本が好みで。それに、まさかと思われるでしょうが、集めるだけでなく読むようにもしております。もちろん、大型紙本にペーパー・ナイフを入れるような真似は致しませんが。そういう場合は、気楽に読める版を別に備えてあります。ええ、仕事の合間にも、暇を盗んでは読むことにしております。それでも、来客の応待もあれば、古書目録に目を通し、時には競売にも顔出ししますし、本屋が訪ねて来ることもあります。目が廻るような忙しさ。まるで囚人の暮らしですよ!」(デュアメル「書痴談義」より、79ページ)

 これは登場人物の一人、ある愛書家の発言である。すばらしい、読んでいるじゃないか。しかもわざわざ「気楽に読める版」を用意してまでいる。つまり、いちばん理想的なのは、彼のように、どちらも全力で愛するということなのだ。ところが、である。みごとな愛書家がいるものだ、と感心した矢先に、物語は十数年の時をまたぎ、変わり果てた彼の姿を見せてくれる。

「だがそうも言っちゃおれん! 全部揃えましたよ。仕方ないもんな。ヴェルレーヌ、もちろん。それから君たちが祭り上げとるマラルメも。それから、糞いまいましい、もう一人の気狂い野郎まで、なんという名前だったっけ? そう、ランボー! まったく! ややこしいったらない。それにたわごとをほざきちらして、目の玉が飛び出るような値段で売りつけよる、例の<大使>(割注:駐日フランス大使を務めた詩人ポール・クローデルを指す)のものまで。全部揃っとるよ。だからといって好きなわけじゃない、まして、読むなんて!」(デュアメル「書痴談義」より、104ページ)

 繰り返すが、これは同じ人物による発言である。この愛書家、クールタン氏の姿を見た主人公は、友人にこう告げる。

「どうやら君や僕の場合は本を愛しているとは言えんようだ。詩や、美しい思想や、がっちり組み立てられた理論や、巧みに語られた物語を愛しているんであって。クールタン氏のほうは本そのものを愛しているんで、彼が本に注ぐ情熱は、最初の準備期間を経て、濾過・精製を重ね、純粋な境地にまで高まった時期すらあったが、今やそれが腐敗し始めたというわけだ。この満たされぬ地上に属する事物を対象とする限り、どんな情熱でも避けられない宿命だ」(デュアメル「書痴談義」より、110ページ)

 これはそのまま、先日読んだばかりのラルボー『罰せられざる悪徳・読書』のなかで語られていたことに通じている。理想の読者、理想の愛書家となる段階のなかには、いくつもの罠が張り巡らされているのだ。

「<蒐集家> amateur という言葉の中には、なんにしたところで、<愛情> amour という言葉がいくらか含まれていると思わないかね?」(デュアメル「書痴談義」より、75ページ)

「本物の愛書家を常に支配している蒐集精神、これはあらゆる学問の基礎になるものだ。言ってみれば死を敵にまわしての戦い、この宇宙をたえず混沌に投げ込む方向へ働いている恐るべき遠心力に抗って作業しているようなものだ」(デュアメル「書痴談義」より、111ページ)

 先日のラルボーが初体験だったのと同様に、ジョルジュ・デュアメルも、何度も名前を目にしているのに一度も読んだことのない作家の一人だった。本筋とはあまり関係のない、なんでもない一文にも、輝きを感じる。こういう作家の本は、いくらでも読める気がする。

「船旅というやつは、言ってみれば、葡萄酒をねかせるのと同じような不思議な力を備えているみたいだ。せんだっても君に話したと思うが、距離もまた時間に劣らず判断力を熟成させるのに役立つものだ。その確信が日を追うにつれて僕のなかで強まってきている。どんなに些細な変化からだって人はなにかしら得るところがあるものだ」(デュアメル「書痴談義」より、71ページ)

 それから、おなじみのセーヌ河岸のブーキニストは、ここでも悪口を言われている。つくづく、ろくな扱いを受けていない。

「悪い時代に巡り合わせたもんで、この道も楽じゃない。業者の在庫のなかにベルトーの元版を見つけて、四スウで買い取れたような時代はもう過ぎてしまった。今じゃどんなちっぽけな露天古本屋(ブキニスト)だって店の中になにがあるかちゃんと知っていて、考えていることといえば、一つだけ、愛書家に本当の掘出し物をさせないことだ。掘出し物? 今や死語だ! どんな代物もそれに見合うだけの金額を支払わねば手に入らない、となると蒐集家(コレクター)は消滅したも同然だ」(デュアメル「書痴談義」より、93ページ)

 さて、ここから先はまたテンションを変えなければならない。収められているのはたったの四作品だというのに、アンソロジーの感想をまとめて書くことの難しさを感じる。だが、誤解を恐れずに言えば、感想を書きづらいアンソロジーというのは作品ごとの連関性の薄い、あまりまとまりのない選集ということだろう。そのほとんどが玉石混淆となっている、作家単独の短篇集とはわけが違うという点もある。そのすべてが「玉」であることは間違いないとしても、その理由は作品によってそれぞれ異なるのだ。いや、やっぱり結局は、ユザンヌのテンションが高すぎることが原因かもしれない。

 ピエール・ルイスについて、今さらなにかを説明する必要があるだろうか。ここではすでに『女と人形』「女性のための社交術」を紹介したことがある。今回のこの本に収められた作品は、「愛書小説」というのとはすこし毛色が違うが、やはり抜群にうまく、必要最低限の言葉で書かれたすばらしい短篇作品であることはまちがいない。書物が効果的に使われている、というだけの理由で、生田耕作が自分の趣味を反映させたのだろう。

「彼女は爪先で立つと、部屋から部屋へ、広間から広間へと歩き回った。生れ育ったこの広い館にいま始めて彼女は恐怖を覚えるのだった。じっくり考え込んだすえにシールが悟ったのは、この空っぽの家に昼日中、夜の沈黙(しじま)が訪れたということだった。光の闇と同じく音の闇がもたらすいうなれば時間の混乱ほど不思議なものはない。なるほど、戸外には太陽が輝いている、だが周りの事物の突然の沈黙の中で、シールは日蝕の下にでもいるように身震いするのだった」(ピエール・ルイス「書庫の幻」より、12ページ)

「まわりの闇が濃くなりだした。日が傾きつつある、急速に。青みがかった硝子窓から、一条の長い光が差し込み、彼女がいま開いたばかりの書物の黒い口絵を照らし出した。
 そこにはカルメル会修道女の衣に身を包んだスペインの聖女が、どこかアフリカめく風景のなかに立っている姿が銅版画で描かれていた。片手に鞭を、もう一方の手には血の滴る大きな心臓を摑んで。
 シールは、震え上がって、さらに後退った。
 やがて、この広い部屋の中で、聖女の蒼白い陰気な幻だけが照らし出され、それ以外のものはなにひとつ見えなくなってしまった。ところが周囲の闇が深まるにつれて、聖女の姿はますます皎々と輝きわたるのだった。
 体は大きさを増し、身動きし、眼も動きだしたように見えた。
 背後の風景から吹き渡る風がその衣のひだをなびかせ。
 聖女は頭を前に傾けた。
 とうとう口をきいた」(ピエール・ルイス「書庫の幻」より、17~18)

 最後のブロックマンは、とりわけ浮いて見える作品だ。タイトルから予想されるとおり、探偵小説なのである。探偵小説特有の疾走感や謎解きの楽しみに溢れてはいるものの、この選集に入っている必要性はほとんどないと思った。なにせ、愛書家の代表格として登場する人びとも、結局は利益のためにそれらを転売したりしていて、ユザンヌが描くような気ちがいじみた愛書家の域にはぜんぜん達していないのである。それでも、久しぶりに探偵小説を読みたくなった。

「私は急いで近寄った。そばから見下ろしても、公証人の木菟面は死人特有の様子をしている。私は腸がじわじわと溶け出るような恐怖を覚えた」(ブロックマン「アルドゥス版殺人事件」より、141ページ)

 それから、生田耕作による「編者後記」に、「書痴」という言葉に与えられるすばらしい定義があった。これを紹介せずに、この本を紹介した気にはなれない。

ジョン・カーター氏の洒落た辞典の定義によれば、<書痴> bibliophile とは、ただの本好きとは異なり、<目にいささかの狂気を宿した>連中にして初めてこの称号を授けられる資格を有するものらしい。愛書狂 bibliomaniac への距離は紙一重である。同じ本好きでも、アカデミーの殿堂にしかつめらしく鎮座まします学者先生方とは異なり、「ミューズ女神」の下着泥棒でもやらかしかねない、愚かしさが付きまとうところに、書痴の書痴たるゆえんがあるのであろうか」(「編者後記」より、185ページ)

 生田耕作の、こういうところが本当に、ほんとうに大好きである。わたしも「ミューズ女神」の下着泥棒になりたい。

書痴談義

書痴談義

 


<読みたくなった本>
アナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』

シルヴェストル・ボナールの罪 (岩波文庫)

シルヴェストル・ボナールの罪 (岩波文庫)

 

ジョージ・ギッシング『ギッシング短篇集』

ギッシング短篇集 (岩波文庫)

ギッシング短篇集 (岩波文庫)

 

Octave Uzanne, Contes pour les Bibliophiles

Contes Pour Les Bibliophiles

Contes Pour Les Bibliophiles

 

John Carter, ABC of Book-Collectors

ABC for Book Collectors

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