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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

コルシア書店の仲間たち

 大声で愛を表明せざるをえない、というわけではないけれど、一定期間を置くと不意に読みたくてたまらなくなる作家、というのがいる。須賀敦子はわたしにとって、そんな作家のひとりだ。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

 

須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』文春文庫、1995年。


 きっかけは、霧に包まれたことだった。唐突だが、わたしはいま砂漠のまんなかに忽然と現れた都市で働いている。正直、都市、という言葉を使うのにもためらいを覚えるような場所で、日中は当然のように気温が40度を超え、ポンプを設置して水を常時供給できるようにしなければ、椰子の木ですらすぐさま枯れてしまうようなところだ。気候はもちろん一年中夏で、緑がないのと同じように、文化もない。あるのは砂と金ばかりで、そんなものをいくら積み上げたところで、文明は生まれてこないのだ。そんな砂漠の土地で、早朝、煙草を吸うためにベランダに出てみたら、霧に包まれた。自分の足もとさえ見えないような濃さで、わたしはすぐさま『ミラノ 霧の風景』の、以下の一節を思いだした。

「車の運転も、霧が出ると(立ちこめる、というような詩的な表現は、実をいうとミラノの会話にはない。霧がある、か、ない、だけだ)至難のわざになる。視界二メートルというような日には、車を野道に乗り捨てて歩くこともあるほどだ。一度霧の中に迷いこむと、とんでもない所に行ってしまうからだ。霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のような、塀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。あるとき、ミラノ生まれの友人と車で遠くまで行く約束をしていたが、その日はひどい霧だった。遠出はあきらめようか、と言うと、彼女は、え、と私の顔を見て、どうして? 霧だから? と不思議そうな顔をした。視界十メートルという国道を、彼女は平然として時速百キロメートルを超す運転をした。「土手」にぶつかるたびに、私の足はまぼろしのブレーキを踏んでいた。こわくないよ、と彼女は言った。私たちは霧の中で生まれたんだもの」(須賀敦子『ミラノ 霧の風景』より、10ページ)

 幸いなことに、わたしの職場は書店で、砂漠の国といえども日本語の書籍も手に入る(だからこそ、ここに住むことを決断できたわけだが)。霧は一時間もしないうちに晴れてしまったが、須賀敦子を思いだしたという事実は、いつまでもわたしのなかに留まっていた。その日の仕事を終えて、すぐさま購入したのが、この『コルシア書店の仲間たち』だった。

「私がローマをひきはらい、コルシア・デイ・セルヴィ書店を拠点にしてミラノで勉強をつづけてはどうかと、ダヴィデがみなに提案してくれたのは、二日目の夜だったと思う。「ローマなんかにいても、勉強できるはずがない」いま思えばいかにもミラノ人らしい独断と偏見にみちた意見だったが、この書店の活動をもっと近くから見たかった私にとっては、ねがってもない話だった。やっと食べていけるだけの送金で、アルバイトをしながらの暮らしだった外国人の私を、いわば「かかえこんでしまう」ことのわずらわしさを書店の連中はどう考えたのだろうか」(49ページ)

 この本のテーマ、というか、中心となっているのは、著者自身が勤めていた、ミラノの書店での日々である。コルシア・デイ・セルヴィ書店は、ミラノの一大繁華街、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りにあった。

「この通りは、ミラノの都心ではもっとも繁華な道筋のひとつで、大聖堂の後陣にあたる部分から、すこし曲って東北にのびている。十九世紀後半に達成されたイタリア統一を記念して、『いいなづけ』に出てきたコルシア・デイ・セルヴィという街路名は棄てられ、当時の国王だったヴィットリオ・エマヌエーレ二世の名で呼ばれることになって以来、現在にいたるまでその名で親しまれている。私たちの書店は、その通りのなかほどにある、セルヴィ修道院、いまのサン・カルロ教会の、いわば軒をかりたかたちで、ひっそりと店をかまえていた」(64ページ)

 去年の二月末、わたしは生まれて初めてミラノに行く機会を得て、この書店があった場所も訪ねてきた。以下はそのときに撮った写真である。写真からは想像できないかもしれないが、この大きな(といっても、ヨーロッパの大聖堂の水準からすれば、よほど小さな)教会は、現代的なブティックの並ぶ繁華街に、じつに唐突に現れる。

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 コルシア・デイ・セルヴィ書店は、教会の正面に向かって右手の扉のところに、「ひっそりと店をかまえていた」。ここには現在、教会と同名の、サン・カルロ書店がある。とはいえ、あいにく訪れたのが日曜日だったため、店内の様子まではわからなかった。

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 「サン・カルロ書店」と書かれた真新しい大理石の看板を取り囲む、なにかを剥がしたような痕跡。かつて別の看板がかかっていたという事実を、これほど声高に告げてくれる痕跡もない。

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 コルシア・デイ・セルヴィ書店を創立したのも、須賀敦子を誘ったのと同じダヴィデだった。「カトリック左派」と呼ばれるグループの司祭にして、同時に、イタリア文学史に名を残すほどの詩人であった彼が、須賀敦子の手にかかると、旧知の友のように思えてくる。

「つぎにダヴィデに会ったのは、その翌年、夏休みを利用して、私がロンドンに行ったときだった。ロンドンで会った二度目のダヴィデは、ローマでの彼の、ややおごそかな印象(会ったのが、夜だったからかもしれない)とは違って、不器用で、大ざっぱで、ブレーキのきかない大声の、どこかちぐはぐなロマンチストだった。なんどか会ううちに、私は、かねて彼から学ぶのを期待していた、現代神学や文学についての系統だった知識をこの人にもとめるのはほとんど不可能だということがわかった。彼はあらゆる体系とは、無縁の人間だった。しばらくのあいだ、なかではいろいろと愉しそうなことがあるのに、入口がどこにあるかわからない家のような彼をまえにして、私はぼんやりしていた」(45ページ)

 ダヴィデ以外にも、書店の仲間たちの名前は頻出する。カミッロ、ガッティ、ルチア、そして須賀敦子の夫で、夭折したペッピーノ。紅一点のルチアについて語った文章は、ほかの男たちの端的な紹介にもなっている。

「ルチア・ピーニは、まだダヴィデがいたころからずっと、コルシア・デイ・セルヴィ書店のもっとも華やかな存在だった。創立後まもなく仲間に加わった彼女は、書店の男たちとは、ほとんどすべての面で一線を画していて、それが彼女をきわだたせていた。仲間うちでは、ルチアだけがレジスタンスの過去と関係がなかったし、彼女だけが、ブルジョワ階級の出だった。ダヴィデもカミッロもガッティもペッピーノも、それぞれくせがつよくて、神経質で、救いがたく屈折したインテリだったのにくらべて、ルチアだけが、あかるくて、率直で、実際的で、そのうえ、背が高くて、姿勢のいい、ちょっとボーイッシュな美人だった」(217~218ページ)

 つまり、ほとんど全員が「くせがつよくて、神経質で、救いがたく屈折したインテリ」だったのだ。彼らがどんなに個性的な人物で、そして、個人的にはこれがとても印象的だったのだが、どんなに互いを思いやっていたかは、文章の随所から匂いたっている。

ダヴィデが、コルシア・デイ・セルヴィ書店から離れていったころ、彼といっしょにこの書店をはじめたカミッロもミラノを去って、スイスとの国境にちかい故郷の町に帰ってしまった。ダヴィデがいなければ、書店の出発は物理的に不可能だったろうけれど、書店の哲学はすべてカミッロだ。そう、ガッティがいつも言っていた。がさつに、あの大きな手でかきあつめたすべてを包みこみ、抱えこんでしまうダヴィデに対して、カミッロは思索のかたまりのような男で、ていねいに紙のしわをのばすように、自分に合うものと、合わないものとを入念に区別していくようなところがあった。合わない、と思えば、最初から関与しない。それがカミッロのやりかただった。あらゆるものに巻きこまれ、のたうちまわって、こんどこそ再起できないとみなが息をひそめるうちに、まるでなにごともなかったようにひょいと立ちあがって、歩きだすダヴィデとは、そんなところも対照的だった。自分が読んでいる本の話をするときなど、カミッロはふいに顔を赤らめることがあった。まるで、明晰であることをはずかしがっているかのように。ときどき国境の山から降りてきて、書店の奥の部屋にすわっていることがあったが、そんなとき、書店の騒音が彼に吸いとられていくような気がするのだった」(54~55ページ)

「そんなカミッロの、ときには臆病とさえみえる静かさが、彼の思惑をこえてダヴィデを突き刺してしまうことがあった。もちろん、カミッロはすぐそのことに気づいて、自己嫌悪におちいり、生来のひっこみ思案な性格にそれがかさなって、ますますミラノから足が遠のいた。ふたりが、かつてのように、肩をくんで歩ける少年でなくなっただけの話だったのだが、そのあたりまえのことに、ふたりは傷ついていた」(55ページ)

 つい先日紹介した『絵本を抱えて部屋のすみへ』のなかで、江國香織は「友情の物語が書けたらどんなにいいだろう」と書いていた。それに続けて、「友情というのは厄介な代物で、言葉にするとたちまち空々しく鬱陶しくなってしまうのだが、だからこそ、正しく紙の上に写すことができたら、と憧れる」とも。コルシア書店の人びとの姿を見ていると、それを語る須賀敦子自身も含めて、これこそが友情を正しく紙の上に写した例だ、と思わずにはいられない。

「歩きながら、私は自分の仕事のことや、出版社のだれかれのことを話した。ガッティはいつものように、だまって聞いてくれた。ひんやりとした空気なのに、汗っかきの彼は、蒼白いひたいに大粒の汗をかいていた。アイロンをかけてない、縞柄のハンカチを手ににぎりこむようにして、すこし大儀そうに、汗をふきふき歩く彼には、がっしりした体型にもかかわらず、どこか虚弱児童のような、ひよわさがあった」(160ページ)

「ミラノに降りてくると、カミッロは書店のうしろにあるセルヴィ修道院に泊まり、毎朝かかさずに、フェラーリ広場のルチアの家まで、三十分ほどの道を歩いて彼女を迎えに行った。ただ、迎えに行くだけだった。早すぎた朝は、忠実な飼犬のように、ルチアの家の前にじっと佇んで、彼女の出てくるのを待っていた。緑の夏がおわって、霧の季節になっても、カミッロのお迎えはせっせとつづいた。
 そのことを、ぐうぜん、私たちが知ったのは、ルチア自身の口からだった。ある日、何人かの仲間があつまって食事をしたとき、ルチアが、いかにも、困ったなあ、という表情で打ち明けた。「いやになっちゃう。みっともないでしょ。私たち、べつにどうってことないんだから。カミッロにたのんで、やめてっていったけど、ぜんぜん聞いてくれない」しかし、「どうってことない」のは、ルチアのほうだけなのを、私たちは知っていた。カミッロにとって、それは、彼なりに、二十年来、ずっと抱きつづけてきたルチアへの愛の、これまでにない大胆でぎりぎりの表現だったのだ。朝霧の街をひとり、背をのばして、すたすた歩いてルチアを迎えにいく五十をすぎたカミッロの姿は、想像するだけで、心があたたまった。しかも、彼は、けっしてそれ以上は、立ち入ろうとしない。カミッロはそういう男だった。そのことも、私たちにはよくわかっていた。また、家柄や財産を大切にするルチアが、スイス国境の山の町の鉄道員の息子だったカミッロに、それ以上をけっして許さないだろうことも、私たちはよく知っていた。だからよけいに、せめてその朝の時間が、カミッロにとってさわやかであってほしいと、ひそかに希うだけだった」(223~224ページ)

 それにしても、『ミラノ 霧の風景』を読んでいたときにも思ったことだが、須賀敦子は夫のペッピーノのことをほとんど語らない。どこにでも登場してくるので、どんな人物だったのかはうっすらと想像できるのだが、彼自身が中心人物となるような章はひとつもないのだ。そのことが逆に、この男性の存在を大きくしているような気がする。

「ニコレッタと私たち夫婦は、家事の責任を負うでもなく、いそぎの仕事があるわけでもなく、のうのうと、なまけていた。夫は、たいてい、居間かキッチンか、そのときどきでいちばん邪魔にならない場所をえらんで、ひとり本を読んでいたし、だれよりもいちばん、午睡の時間が長かった。ニコレッタと私は、締切のないにひとしい翻訳やら、出版社にたのまれて書く、私は文学畑、彼女は社会科学畑の外国書の梗概の作成に没頭し、それについて話しあい、あとはキッチンの裏の、坂になった草地に寝ころがって、どうすれば手にはいるのかさっぱり見当のつかない未来の夢を追うことにかまけて、あれもしたい、これもしたい、と空想の店をひろげて騒いでいた。また、きみたちは、こんなところでさぼってるな。通りかかったシポシュ氏に、あきれられながら」(133ページ)

 コルシア書店というのは、考えれば考えるほどすてきな、理想の空間だ。書店員たちの夢。わたし自身が書店員だから、そう思うのかもしれない。書店において、微々たるものとはいえ責任のある立場についていると、どうしても経営的な数字のことを考えざるを得なくなり、売りたい本と売れる本とのギャップに頭を悩ませることになるのだ。気の置けない仲間たちとともに、自分たちの売りたい本だけを売れる書店を作れたら、どんなにすばらしいことだろう。正直なところ、わたしはいまでもこの夢をあきらめきれていない。だが、コルシア書店の歩みは、そんな書店を作り維持させていくことの難しさを、先取りして教えてくれる。

「たとえば雑誌の編集という職場でなら、共同体というものが考えられるかもしれない。そうダニエルはいった。でも、それ以上はぜったいむりよ。若いうちはいいけれど、年齢とともに、人間はそれぞれの可能性にしたがって、違ったふうに発展する。そこでかならず亀裂がはいるのよ。ムニエの場合もそうだったでしょう。彼女はかなりペシミスティックだった。
 それでも、やはり魅力はある、と私がいうと、ダニエルも同感で、だけど、流れにさからうのは、たいへんなのよ、と風にみだれる髪をかきあげながら私をみつめた」(39~40ページ)

「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」(232ページ)

 そういえば、わたしもあるとき、友人たちといっしょになって、ある共同体を作りあげた。いま思いだしても大成功をおさめたその共同体の活動は、わたしの人生において、他人に自慢できるほとんど唯一の過去となっている。しかし、じつにさまざまな理由から、それも長続きはしなかった。そのころの激動を思うとき、わたしは『感情教育』の一節を思いだす。「あれがぼくらのいちばんいい時代だった」。コルシア書店の日々の軌跡は、一種の感情教育なのだ。

 ここで終わりにしてもいいのだが、ほかにもいくつか、挙げておきたい美しい文章がある。『コルシア書店の仲間たち』は、けっして書店の歩みだけを描いた本ではないのだ。書店という場を中心にして、常連客や協力者といった、じつにたくさんの人びとのことが語られているのである。

「ニニの夫だった伯爵は、若くして自動車事故で亡くなり、彼女はまだ幼かったふたりの娘と残された。それが彼女の癒えない心の傷だったが、やがて成人した姉娘は、母親の気にそまぬ結婚をして、ニニのまえでは、そのひとのことを話題にしないことになっていた。ニニが溺愛した妹娘の結婚相手は、彼女の思惑どおり貴族だったが、その結婚式の写真は、かなりの期間、書店をおとずれるたびに、彼女のバッグから取り出された。湖を背に、グレイのモーニング、おなじ色のシルクハットをこわきに抱えた瀟洒な青年貴族と、おばあさんが結婚のときに着たという、豪奢なレースの衣裳をまとった、うつくしい花嫁の写真は、ヴィスコンティの映画の場面そのままに、完璧で空虚だった」(17~18ページ)

 須賀敦子の文章の美しさが際立つのは、これら友人たちとの親密な関係を語っているときだ、と思う。相手を思いやりながら、それでも冷静な視座を失わない彼女は、生きた存在としての彼らをわたしたち読者に伝えてくれる。たとえば、ツィア・テレーサ。

「ツィア・テレーサの居間の、ドアを入って右手の壁は、つくりつけの本棚になっていた。きらびやか、といいたいような背に金文字のはいった書物のならんでいるなかで、一カ所だけ、本は見せかけのつくりもので、四角い隠し扉になったところがあって、それを開けると、中にテレビが入っていた。カミッロは、その仕掛がおもしろいといって、行くたびに、いいですか、とことわってから、それを開けてみせた。本だと思わせておいて、テレビだなんて、ツィア・テレーサもすみにおけない、などといいながら。すると、ツィア・テレーサは、そのたびに、わるさを見つけられた幼女のように、頬をあからめ、いいから、もうお閉めなさいと小さな声でけんめいにあらがうのだった」(28~29ページ)

「デザートはいつもアイスクリームだった。あれは、たぶん、私たち夫婦が最後にそろって彼女の家に呼ばれたときだった。同席の男たちが、政治のことでがやがや議論をしているなかで、ツィア・テレーサが、ふと私の方を向いて、そっといった。ねえ、アイスクリームって、どうしてこんなにおいしいのかしら。私はアイスクリームさえあれば、なにもいらないと思うくらいよ。いちどでいいから、はじめからおわりまで、アイスクリームだけっていうディナーを食べてみたいわ。
 くいしんぼうな青い髪の仙女のことばに、私は笑いがとまらなかった。彼女の目は笑っていたけれど、声はかなり本気だった。いまでも、アイスクリームを食べるたびに、私はフランス革命マリー・アントワネットみたいにとんでもない、ツィア・テレーサの告白を思い出す」(29~30ページ)

 そして、たとえば、ミケーレ。

「いわゆる正業につかせようと、書店の友人たちが、じつにさまざまな仕事を、つぎつぎに見つけてきたけれど、どれも長続きしなかった。写真家で都心にアトリエをもっているパオロが、そんな篤志家のさいごのひとりだった。写真の整理を手伝ってくれないかということで、ミケーレはパオロのアトリエに勤めることになったのだったが、三日もたたないうちに、ペッピーノに電話をかけてきた。シニョール・ペッピーノォ、受話器のむこうで泣き声がいった。こんなところにいたら、ぼくは死んでしまいますよお。ぼくは、屋根のあるところでは働けない。空が見えないと、息がつまって死にそうです。おねがいですから、パオロさんにいって、ぼくを自由にしてもらってくださいよう。そこまでくると、もう、ハックルベリーの奴隷物語だ。彼が自分の言葉に酔っているのは見えすいていた。たった四、五日まえには、せめて一週間はがんばってごらんよ、といわれて、ダイジョブです、と張り切ってみせたことなど、ミケーレは、きれいさっぱり忘れたみたいだった」(109ページ)

「石炭がなくなったのは、アルバイトでもうけたお金で、夏のスーツを二着も買ってしまったからだと、ミケーレはいった。秋口のセールで、あんまり安かったから。どうも、はなしがごちゃごちゃしていた。何月の給料が、いつなくなったのかが、はっきりしない。夏服を買って、石炭が買えなくなったというのも、彼の話を聞いているあいだは、なるほどと思えるのだけれど、よく考えてみると、どこか、つじつまが合わないような気もする。ミケーレの話には、よくそんなところがあった。昼間、見たときは、面白くて不可思議だったのに、夜、寝ようとしてもういちど考えると、どこかが変だと思いあたる手品のように、彼がながながと説明しているあいだは、けっこう信じられたものが、彼がいなくなると、ふっと筋がくいちがっていたり、要点がはずしてあったりするのに気づく。その夜のことも、石炭がなくなったことだけが、はっきりしていた」(111~112ページ)

 さらには、刑務所、という物騒な言葉とともに現れるふたり、ガストーネとジプシーのジャンニ。

「それにしても、ガストーネは、ほんとうにドジなドロボウだった。なにをしても捕まる彼は、おなじドロボウ仲間にさえ相手にされなかった。インテリ派というのか、芸術派というのか、盗みそのものを愉しみ、そのテクニックの複雑さで優劣をきそうようなところのある、イタリアのその道の伝統のなかで、直截的、短絡的な彼の盗みは、あまりにも曲がなさすぎた。それでいて、捕まることにかけては名人級だったから、カルラは、彼のことを嘆いていった。あの子は、中にいるほうが、外にいるよりも長い。「中」というのは、もちろん刑務所のことだった」(206~207ページ)

「ジプシーのジャンニは、十六歳の妻にナイフで切りつけて、けがをさせ、二年、刑務所にいたのだった。問題をおこしたとき、彼は、はたちだった。
 わけがあった、とペッピーノはいった。ジャンニが馬を市で売るためによその町に行ったあいだに、奥さんが、生まれたばかりの赤ん坊を死なせてしまった。移動中のトラックが揺れて、赤ん坊がねかせてあった籠ごと床におちて、頭を打ち、打ちどころが悪くて、死んだ。ふたりの初めての子で、男の子だった。旅から帰ったジャンニが事故を知らされて、気がついたときには、奥さんに大けがをさせていた。おまけに、そのことを、警察に告げたやつがいたんだ。ふつう、ジプシーたちの間の出来事は、外に洩れないのだけれど、ジャンニを憎んでる男がいたらしい。
 とても二十世紀後半の話とは思えなかった。まるでメリメの物語を読むようだった」(213~214ページ)

 以前『ミラノ 霧の風景』を紹介したときに、「彼女は友人たちを主題に章を構成することで、忘れ去られていく彼らの存在を紙の上に残そうとしている」と書いた。いまでもその考えは変わっていないけれど、ここに付け足すことがあるとすれば、その行為が人びとの死と同時に、生をも伝えている、ということだ。だから、須賀敦子の文章からは、ふたつの相反する匂いが立っている。死の匂いと、生の匂いだ。

 また、ヨーロッパで生活してみなければ、なかなか肌で感じとることのできないものも、須賀敦子は文章に織り上げている。それはたとえば、第二次世界大戦がヨーロッパ社会に残した傷跡だ。日本でも数年前に、戦後六十年、という言葉が囁かれていたが、「戦後後」の社会を生きているわたしたちにとって、それはおそらくどんな感慨も呼び起こすものではなかっただろう。ヨーロッパでは、そうはいかない。

「私は、パパがユダヤ人だということを、ずっと知らなかったのよ。パパは戦争中、あんまりこわい目にあったものだから、娘にはなにも知らせないことにしたのよ。そのことを私が知ったのも、まったくの偶然だった。ある日、パパがいない食卓で、私がともだちのことを、ユダヤ人のブタが、っていった。そしたら、ママが突然、こわい顔して、ニコレッタ、それはないでしょう。あなたのお父さんはユダヤ人なのよ、っていった。そんな教えかたってないでしょう。ねえ、そんなひどい教えかたないでしょう。高校生だった私は、世の中が真っ暗になったみたいで、しばらくは、ぼんやりしていた。
 その日、ママの口から、私は生まれてはじめて、パパの両親がナチスの収容所で亡くなったことを知った。それまで、歴史のなかの、ある残酷な時間という、抽象的な認識にすぎなかったことが、その日、私の肉体にかかわることだって、わかったのよ。こわかった。しばらくは、どうしていいか、わからなかった」(127ページ)

「戦時中、ナチス・ドイツに全面的に協力したハンガリー王国は、戦後、ソヴィエト軍に占領され、つづいて1949年に人民共和国となる。この辺の事情は、すべて歴史書を読めばわかることだが、私たちがすこしでも左翼がかったことをいうと、シポシュ氏は、あの暗い灰緑色の目をあげて、ひくい声で懇願するようにいった。きみたち、ソ連の支配下で生きたことのない人間は、自由のとうとさがまったくわかってない。この屋根の下にいるかぎり、冗談にも、社会主義がいいなんて、いわないでおくれ」(138ページ)

 それから、とびきり美しい、というわけではないのだけれど、なんとなくとても気に入った箇所もあるので、書き留めておきたい。微笑ましくって、とてもいい。

「女に料理はまかせられない。そういって、恰幅のいいお父さんは、朝まだきに起きて浜の魚市場で買ってきたという材料で、香草の匂いたつジェノワ風ブイヤベースを作ってくれた。愉しい食事だった。彼は、私がスプーンを口に運ぶごとに、どうだ、日本のさかなよりおいしいか、と訊ね、おなじくらい、と答えると、目をほそめてよろこんだ」(178ページ)

 さらには、ガブリエーレに誘われての、ジェノワ行き。この、ミラノ・ジェノワ間の鉄道旅行について書かれた文章は、この本のなかでももっとも美しい描写のひとつだと思う。

「一年ちかく経っただろうか。ジェノワに来ないか、とある日、書店で会った彼がさそってくれた。しんからの旅行好きというのではたぶんないのだけれど、私はそんなふうに友人にさそわれて旅に出るのが好きだ。ガイド・ブックや職業案内人にたよる旅行は、知識は得ても、心はからっぽのままだ。友人といっしょに見たあたらしい(見なれた街角でもいい)景色には、その友人の匂いがしみついて、ながいこと忘れられない」(181ページ)

「そのときも、私は、たちまちガブリエーレの誘いにのって、ジェノワ行きを決めた。ミラノ中央駅から列車に乗るだけで、気分が高揚した。ミラノ・ローマ、あるいはミラノ・ジェノワ行きの列車は、アルプスのふもとの都会から地中海沿岸に出るための列車だから、旅人は、すでに出発の時点で、あの海の匂いを、波にひかる太陽を心にいだいている。列車は、平坦なロンバルディア平野をすぎると、はじめは丘陵にさしかかり、退屈する時間もないうちに、アペニン山脈が海にはいる直前の岩山にさしかかる。トンネルがつづいて、景色が見られないのにあせっていると、ふいにジェノワの駅である。街並がすこしずつ混みあってきて、だんだん都会らしさが濃くなる、という景色が、このミラノ・ジェノワ線にはない。山の中をトンネルくぐりに夢中になって走っていると、いきなり終着駅に着いてしまうから、いつも、ほかのことを考えているうちに、という感じで列車をあとにする。こんな着きかたが、でも、この路線のたのしみかもしれない」(182ページ)

 冒頭に書いたとおり、須賀敦子の文章は、折にふれて無性に読みたくなる。その理由は、彼女が、わたしたちが彼女に期待しているところのものに、いつだって完璧に応えてくれるからなのだろう。

「私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった」(83ページ)

 こうなるともう、作品ごとに評価をつけることに意味はない。須賀敦子は、いつだって須賀敦子なのだ。『ユルスナールの靴』は五つ星で、『ミラノ 霧の風景』は四つ星だった。今回は五つ星である。この文章を書きはじめたときには四つ星にするつもりだったのだが、頭のなかを整理しているうちに、どんどんこの本のことが愛おしくなって、結局五つ星にしてしまった。思えば、書物に対して評価を付けることに、意味があった試しなどないのだ。すばらしい一冊だった。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

 


〈読みたくなった本〉
トーマス・マンのいくつかの著作
「夫人の得意なドイツ文学、とくにトマス・マンの作品について、話がはずむこともあった。あるときは、『ブデンブローク』派と『魔の山』派にわかれて、議論が伯仲した。とはいっても、こういった場所での議論というのは言葉のテニス・ゲームのようなもので、ひとりがコートの『魔の山』側に立って球を打つと、いち早く、だれかが、反対側から『ブデンブローク』の球を打って返すという感じの、さわやかな遊びだった。そんなとき、還暦をすぎたフェデリーチ夫人の、生気にあふれた黒い目は、コートに降り立った少女のように、きらきらとかがやいた。彼女は若いころ、ミュンヘンの大学で哲学の博士号を取得していたが、ドイツ語で書いた彼女の論文のことをだれかが話題にのぼせると、いいわよ、そんなことはどうでも、と彼女ははずかしそうに笑って、すぐに話を変えてしまった。マンの翻訳者として有名だった夫人の女ともだちが、老いて重病の床にあったが、医者にかかる費用もないというような噂をきいて、そのころ翻訳がおもな収入源だった自分をかえりみて、身につまされたこともあった」(92~93ページ)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

 
魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

 
ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)

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ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)

ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)

 
ブッデンブローク家の人びと 下 (岩波文庫 赤 433-3)

ブッデンブローク家の人びと 下 (岩波文庫 赤 433-3)

 

ジャコモ・レオパルディの作品
「男たちがビリアルドに興じはじめたころ、私たちは夫婦は三階にある、ひろびろとした図書室に案内された。つややかなオークの天井まである本棚にぎっしりと並んだ、すべて同色のモロッコ革で表装され、金の背文字をいれた先祖代々の蔵書を見て、私は、十九世紀の初めに、田舎貴族だった父親の書庫でひとり大勉強をしたロマン派の詩人のレオパルディを思い出した。こんな部屋のある家に育った人たちが、べつに本のとりこにもならないで、健全に世に出て行くほうが、ずっと不思議なようにも思えた」(103ページ)

レオパルディ カンティ

レオパルディ カンティ

 

ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』
「ある夜、食後のオレンジを食べているときに、当時、ベストセラーを続けていたナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説について彼と話したことがある。アシェルは、ナタリアがヨーロッパ系のユダヤ人であることに、なんとなく違和感があるようだった。ぼくたちとは、ちょっと違う。そう、アシェルはいったけれど、私にはその辺の事情がよくわからなかった。しかし、アシェルもナタリアの『ある家族の会話』には脱帽だといった。ある時代のイタリアの歴史が、これほど、さりげなく、語られたことはないだろう。それに、イタリアの文学にはめずらしい、ユーモアがある。きみは、どう思う。
 自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。でも、アシェル、あなたのいうように、ユダヤ人の系統の違いなんて、いままで考えたこともなかった」(196ページ)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)