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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ミラノ 霧の風景

 色々とやらなければならないことが貯まってしまって、まったく本を読めずにいた。これじゃあいかん、と思ってなにかを開いてみても、文体であるとか句読点の置き方、あるいは漢字が開かれているか、といった細かいことにばかり神経が向かってしまって、肝心の文章の内容がまったく頭に入ってこなかったのだ。このままでは大学生の卒業論文を書いていたころ(2007年11月)のように、丸々一ヶ月更新なし(つまり読破なし)ということになってしまう。読めないときに無理して読まなくてもいいじゃないか、と思ってもいたのだが、月が終わるまでにようやく忙しさにも一段落がついたので、むさぼるように読んだ。読書というのは、なによりもまず、快楽なんだな、とあらためて思った。

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 

須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水uブックス、2001年。


 日本語の文章をたまらなく恋しく思うときがある。横書きの文章を左から右へと繰っていくのに、疲れてしまうのかもしれない。フランス語や英語で本を読んでいる最中は、読書を中断したくないため、基本的には辞書は引かないのだが、それでも見覚えのある単語だけで書かれた本なんてそうそうない。文章の奥にあるものどころか、文章そのものに門前払いされてしまうのだ。もちろん、あとになってから辞書を引き、読みなおしてはまた辞書を引き、ああ、これはこういうことを言っていたのか、と理解したときの快感は素晴らしいものなのだが、その一連の作業に疲れてしまうことが、たまにある。

 須賀敦子の書く文章には、そんな体験を繰り返してきた人の持つ強さを感じられるのだ。彼女がイタリア語を自在に操るとはいえ、そこに至るまでの道のりがどれほど困難なものであったか、そしてどれだけ言語的な理解を深めようと、自らの母語としてイタリア語やフランス語を読む人びとと、同じように感じることは絶対にできないという悲しみが、なんとなく伝わってくるのだ。第二の故郷がけっして第一の故郷になることはないというのと同じ悲しみが、ここには少なからずある。二十世紀後半の日本作家でいちばん好きなのは誰か、と尋ねられたら、今ならおそらくこの人の名前を挙げることになるだろう。

「車の運転も、霧が出ると(立ちこめる、というような詩的な表現は、実をいうとミラノの会話にはない。霧がある、か、ない、だけだ)至難のわざになる。視界二メートルというような日には、車を野道に乗り捨てて歩くこともあるほどだ。一度霧の中に迷いこむと、とんでもない所に行ってしまうからだ。霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のような、塀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。あるとき、ミラノ生まれの友人と車で遠くまで行く約束をしていたが、その日はひどい霧だった。遠出はあきらめようか、と言うと、彼女は、え、と私の顔を見て、どうして? 霧だから? と不思議そうな顔をした。視界十メートルという国道を、彼女は平然として時速百キロメートルを超す運転をした。「土手」にぶつかるたびに、私の足はまぼろしのブレーキを踏んでいた。こわくないよ、と彼女は言った。私たちは霧の中で生まれたんだもの」(10ページ)

 ページを開いてすぐに現れるこの文章を読んだとき、どうしてだか涙が出た。不意をつかれる、というのか、この人の文章を読むときにはまったく油断ができない。なんでもないことのように、戦慄するほど美しい表現が、さらりと文章中に紛れこんでいるのだ。『ユルスナールの靴』を読んだときにも感じたことだが、またやられた、と思った。過去を語るその口調に溢れる郷愁にも似た寂寥感が、とりたてて隠されることもなく突然現れて、読者を動揺させるのだ。

「もうひとり、夫が死んでしばらくのころ、ある日、ミラノの中心街で、ふと寄った菓子店のレジにいた女性を私は思い出した。買物をすませた私にその女性は、失礼ですけれどと夫の名を言って、私が彼の妻ではないかとたずねた。夫の勤務先の書店はそのすぐ近所だったので、その辺りで彼を知っている人は多かった。私がうなずくと、彼女の目はたちまち涙でいっぱいになった。まだお若かったのにあんなに急に亡くなるなんて、と彼女は言った。いい方でした。私はほんとうによくしていただいた。一度あなたにお目にかかってそれを言いたかった、と。老女と言ってよい年頃のその女性の言葉はどういうことか悲しみにあふれていて、私には思いがけなかった」(29ページ)

「ホームの待合室のようなところに、男の看護人に付添われて出てきたガッティは、思いがけなくさっぱりとした顔をしていた。年齢を跳びこえてしまった、それは不思議なあかるさに満ちた顔だった。私の知っていた、どこかおずおずしたところのある、憂鬱な彼の表情はもうどこにもなかった。山ほど笑い話の蓄えをもっていて、みんなを楽しませてくれたガッティも、もちろんアルビノーニのガッティも、その表情のどこにも読みとれなかった。私を案内してくれた友人が次々とポケットから出すキャンディーを、ガッティはひとつひとつ、それだけは昔と変わらない、平べったい指先で大事そうに紙をむきながら、うれしそうに口にほうばり、なんの曇りもない、淡い灰色の目でじっと私を見つめた。ムスタキのかわりにレナード・コーエンをくれたガッティ、夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらいらさせないガッティに、私はうちのめされた」(108ページ)

 この本にはたくさんの死がある。著者は章ごとに誰かしらの友人を題材にし、たいていはその最期までが語られているのだ。友人たちの死を、彼女は悲劇的に書こうことはせず、さもなんでもないことのように書いてみせる。文学作品のなかでの死には色々な描き方があるが、そのなかでも私が勝手に「ジェイン・オースティン的な死」と呼んでいるものがある。それはつまり舞台からかけ離れたところで人びとがその生を終え、それが登場人物たちに少なからず影響することはあっても、彼らが悲嘆に暮れる描写は極力排除されているというものだ。虚構作品と現実にあった過去の話という違いはあれど、この著者の採っている態度にはそれに近いものがある気がする。とはいえ、もちろん完全に同じではない。彼女は友人たちを主題に章を構成することで、忘れ去られていく彼らの存在を紙の上に残そうとしているのだから。その動機がすでに、息が詰まるほどに自然で、ゆえに悲劇的なことのように思える。書きながら、ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』を思い出した。彼もまた、忘れられていく人びとを、そこに残そうとしていたのだ。

比較文学の学生はフランス語のほかに、少なくとも二ヵ国語、ヨーロッパの言葉を習得しなければならなかった。それで、ヨーロッパで二番目の夏は、ペルージャの外国人大学に行って、イタリア語を勉強したのだが、そこで、はじめてイタリア語をならうというのに、初級でなく中級に入れてもらった。いきなり中級に入っていけないという規則がそのころはなかったし、語学の初級というものは、どの国の言葉でもおそろしく退屈で、たいていは初級でつづける勇気がくじけてしまう。イタリア語がそうなったらたいへんだと思い、それならちんぷんかんぷんでもいい、あとで努力をして追いつく苦労のほうがましだ、というのが私なりの性急な論理であった」(32ページ)

 ヨーロッパで生活しはじめたばかりのころ、人びとの言語に対する態度にはたいそう驚かされた。パリで出会ったルーマニア人の女の子は、まだ16歳だというのに、母語であるルーマニア語の他に、学校で必修だったというドイツ語、それから英語と、どういうわけかスペイン語も完璧に話し、今はフランス語を覚えている最中だと言っていた。大学のクラスメイトであるガーナ人の友人宅で、すでに10ヵ国語を身につけたという同い年(25歳)の青年に会ったこともある。ここが異常なのではなくて、日本が異常なのかもしれない、とも思う。三ヵ国語を話せる程度で自慢でもしようものなら、それっぽっちかと笑われることだろう。そういえば先日イタリアに行ったときも、片言なイタリア語を必死に使おうとしている私に対して、発音の仕方からなのかなんなのか、おまえフランス語いけるだろう、とフランス語で言われたので驚いた。

「おなじ詩に「匂いたちこめる並木道」とあるのは、下宿の部屋の窓から入ってくる、並木道の菩提樹の花の薫りにぴったりと合わさった。パリからペルージャに着いた日、この薫りが小さな町ぜんたいに漂っていて、むせるような、とはこんなことかと思ったものだった。ほとんど目に見えないところで咲いているこの花の匂いは、記憶の中でだんだんと凝縮され、象徴化されていって、もうおそらく、たとえなにかの魔法で1954年6月30日のペルージャに戻ることができても、あれとおなじ匂いに再会することはできないだろう」(35ページ)

「メルロ・ポンティがコレージュ・ド・フランスで講義をし、カフェ・フロールでサルトルが読書していたパリで、夢中になって戦後のヨーロッパを追っていた私は、ペルージャで小地主の未亡人の家に下宿し、ヴィア・デル・パラディーソ(「極楽通り」と言ってしまうと、なにか京都あたりの町並を想像してしまうが、この通りはなんと、片側の高い石塀に蔓草の繁った、せまくてほそい石段の名称だったのである)などという浮世ばなれのした名の道を学校に通い、プロシュッティ先生のオペラ風のパスコリに、不思議な魅力を感じてのめりこんでいったのである。そんなふうにして私のイタリアとの対話ははじまった」(44~45ページ)

 須賀敦子の専門は、もともとはイタリアではなかった。フランスの文化を学びにヨーロッパへやって来て、そして上掲のペルージャにてイタリアの魅力を知ったのだ。フランス語とイタリア語というのは(スペイン語もそうだが)、日本人にとっての中国語のようなもので、発音や会話はできなくても、なにが書いてあるのかはだいたい理解できたりする。似た言語であることには間違いないのだが、それでも習得するのが簡単な言語などというものは存在しない。こんな話があった。

「ボナチーナ君が最後に私の翻訳の面倒を見てくれたのは、川端康成の『山の音』だったから、68年か9年にかけてのことである。それは、翻訳の仕事をはじめたときから私の訳に一応目を通してくれていた夫が67年に死んで、すっかり自身をなくしているときだった。翻訳の依頼を受けたとき、私は作品の一部を訳して、ボナチーナ君に、このままでも読むに堪えるものかどうか判断してくれるように頼んだ。これが駄目なら、私のそれまでの仕事はすべて、夫あってのことだったのだと(そのことについては、今日も疑わないが)、背水の陣のつもりで、そう頼んだのであった。数日後、ボナチーナ君から電話があって、例の羞らったような、一語一語かみしめるような口調で、「だいじょうぶ、あれでいけます」という言葉を聞いたとき、自分にとってほんとうの意味でのキャリアがはじまった、と私は思った」(81~82ページ)

 先日イタリアの書店で、『山の音』だったかどうかは思い出せないが、須賀敦子が訳した川端康成を発見した。それも、フランスで言うところのプレイヤード叢書に当たる「I Meridiani」だった気がする。日本語で書かれた文学作品をイタリア語に翻訳する、というのはものすごいことだ。心底尊敬する。

「丘のうえに松の木が一本ある。ずっと向うに、海をへだててヴェスヴィオ火山が見える。白黒写真のそんな絵はがきを父からもらって、ながいことなくさずに持っていた。小学校一年のとき、父が洋行の旅先から送ってくれたものである。自分と妹の名でもらったことが、しかもそれがふだんはいっしょに暮らしている父から来たことがめずらしく、うれしかったのを覚えている。何度もどこかにしまい忘れては、また出てくる、というのを繰りかえすうちに、見えなくなった。それでも棄てたはずはないから、どこかの引きだしに古い手紙にまじって、いまでもあるのだろう。その絵はがきの裏には、角のとれた、かたちのいい、大きな父の字で、「ナポリを見て死ね、という言葉があります」とあった。もっとほかにも書いてあったのかもしれないが、それは忘れてしまった」(49ページ)

「この都会には、秩序とか、勤勉とか、まがりなりにも現代世界に生きると自負する私たちが、毎日の社会生活において遵守しなくてはならないと自ら信じ、人にも守らせようと躍起になっているもろもろの社会道徳を真っ向から無視して、大声で笑いとばしているようなところがあるのだ」(61ページ)

 ナポリ、という私がまだ行ったことのない町は、どういうわけか、同じくまだ行ったことのない、フランスのマルセイユを想起させる。どちらも南にあるからなのかどうかわからないが、自分の陳腐な想像のなかでは相違点がまるでないのだ。大学の教授から聞いた話では、マルセイユというのはフランスでも特別な場所だそうで、その例として教えてくれたのは、フランスでは公共の場(レストランやカフェ)での喫煙が禁止されていて、そのため寒い冬でもテラス席で震えながら煙草を吸うしかないのだが、マルセイユでは店内でも平気で吸えるらしい。警察に取り締まられないのか、と誰かが質問したら、「警官も一緒になって店内で吸っているから無理だ」と返ってきた。須賀敦子の描くナポリを読んで、その話を思い出した。

「そんなブリアンツァが、ナタリア・ギンズブルグの『マンゾーニ家の人々』を訳していて、じわじわと記憶にもどってきた。この本は、マンゾーニの生涯を、彼の生前に家族や友人が相互に書き送った手紙を土台に構成された、手法からいうと、森鷗外の史伝を思わせる、すぐれた作品である。マンゾーニは、日本のいわば明治維新にあたる、イタリア統一の時代の建国思想を代表する作家だから、この作家の生涯はこれまで必要以上に神話化されてきた。多くのイタリア人はこの神話を、家でも、学校でも、聞かされつづけて、それこそ耳にたこができている。そんな人物をギンズブルグは、神話を真っ向から解体してみせることはせずに、ごちゃごちゃした家族(もともと家族というものは、ごちゃごちゃしたものである)の手紙の中に組み込んでしまい、そうすることによって、この大作家を、時代の断面図の中のひとつの核にすぎぬ存在にしてみせている」(112ページ)

 ほとんど丸々一章を割いて、このナタリア・ギンズブルグの著作のことが紹介されている。なかでも印象的に取り上げられているのが文豪の次男エンリコという人物で、彼の手紙を紹介する語り口が胸に響く。

「はじめは、彼が、寄宿学校時代に教師から教えられて書いた、父親への感謝と挨拶の、たどたどしいが、ほほえましい手紙。あたらしいお母様によろしく、という少年の言葉が胸をつく。それが、成長するにつれて、未来の事業への抱負を語る夢物語となり、ついには借金を要請する悲痛な人生破綻者の手紙になる」(115ページ)

「エンリコの隣人たちは、この文豪の息子をずっと後まで憶えていた。ながい失業生活のあいだ、彼はいつも、運河の橋の上に立って、なにか考えているようだったという。いったいなにを考えていたのか。なにも考えないで、ただ水の流れるのを眺めていたのではないだろうか。そして、考えあぐねて、ただ水を見ていたエンリコに、著者のギンズブルグは痛いほどの親近感をおぼえていたのではないだろうか」(118~119ページ)

 それから彼に関連して、こんなシャンソンが紹介されていた。大好きな曲だったので、なんだか嬉しい。

「『さくらんぼの季節』というなつかしいフランスの歌があるが、ヨーロッパ人にとって、さくらんぼは、それが一年でもっとも美しい季節に実ることもあって、ミラノの人たちは、毎年、これが八百屋の店頭に出るのを楽しみにしている。さくらんぼは四月ごろに、まず都心の高級ブティック街の、初物ばかりを扱う青物屋の店頭にならぶ。それを町っ子は、もうさくらんぼが出ていたと話題にして、心を躍らせて初夏の到来を待つ」(120~121ページ)

 つい先日、友人のロシア人が居候している家のパーティーに行き、一休みがてら庭で煙草を吸っていたときに、友人がそこにあったさくらんぼのなる木を指し、昨年の夏には落ちた実のなかで泳げるほどだった、と話してくれた。その話に触発されて上記の『さくらんぼの季節(Le temps des cerises、記憶の邦題では「さくらんぼの実るころ」)』を口ずさんでみたら、一緒に庭に出ていたフランス人も歌いだし、夜の八時だというのにいつまでたっても日が落ちない庭のなか、男三人の歌声だけが響いていたのを覚えている。

「マリアはやっぱり「ボタンつけの名人」だった。彼女は日本人が英語ができないといってこぼした。近くの郊外電車の駅に英字新聞が売っていないことに彼女はあきれた。雑誌の自動販売機にお金を入れたらポルノ雑誌が出てきたといって腹を立てていた」(138ページ)

 ヨーロッパの人たちからすれば、日本というのはエキゾチックを通り越して奇妙な国に映ることもあるようだ。先日まで読んでいたジャック・ルーボーのエッセイでも、電車で寝ている人が、自分の降りる駅に着いた途端に目を覚ます原理がわからない、と書かれていた。当たり前だと思っていたものが奇妙に見える、という感想を聞くと、新たな発見がある。

「最初、連絡がついたときに、大使夫人は早速、マリアのためにスーツ・ケースから衣服一切を調達してくれた。そのなかに、夫人のお古で<バレンシアガ>だったか、<ニーナ・リッチ>だったか、とにかく有名なクゥチュリエの、大きなつばに花かざりのついた帽子があった。収容所から出てきたマリアには、この世にこんな美しいものがあったかと思えたそうである。夜も、それを枕もとにおいて寝た。ところが、大使がマリアのために見つけてくれたイタリア行きの便は、マルセイユまで汽車で行って、そこからイタリアの潜水艦(!)でナポリまで行くというものだった。マリアはそれをことわった。潜水艦には大きな荷物をもって乗れない。そしてなによりも、あの帽子を断念しなければならなかったのである。彼女は軍用機に乗っても、帽子だけはずっと手に持っていたという」(141ページ)

 これは著者の友人マリアが、自分でも気づかぬうちにパルチザンの協力をしていて、戦争中にドイツの収容所に入れられ、そしてまたしてもいつのまにか、「レジスタンスの英雄」として帰国することになった、という話である。先述のロシア人が居候している家には90歳を越えた老夫婦が住んでいて、じつは彼は妻とともに、この夫婦の世話をしながら同居させてもらっているのだが、先日訪ねた際、思わぬ話をされて困惑した。おじいさんは戦時中にドイツで強制労働をさせられていたそうで、そのときに解放してくれたのがロシア軍だったから、このロシア人の友人を快く迎え入れた、というのだ。そのため老人はドイツ語が堪能らしく、私が英語を話せるのも、日本をアメリカが支配したからだろう、と言われ、そういうわけではない、と言ったまま、それきり言葉が出なくなってしまった。この人と対等に話をしようとするには、自分はあまりにも戦争のことを知らなさすぎる、と思った。

「サバの詩は、自伝的といわれる。晦渋ということがひとつの特質のようになっている現代詩のなかで、彼の作品はどれも一見ひどく単純にみえる。≪ユリシーズ≫を、さいしょ友人に読んで聞かせたところ、ひとりはすてきだと言い、もうひとりは、きみの詩はわかりすぎるからだめだと言った、とサバが書いている。青年時代、当時イタリアの文壇の中心であったフィレンツェに行ったとき、彼は何人かの著名な詩人に会ったのだが、なんとなくつめたくあしらわれたらしい。ダダや未来派の風が吹きまくる当時のフィレンツェに、時代の流行から離れたところで詩を書いていたサバは、田舎者としてばかにされたようである。彼自身、自分の書く詩がなんとなくアナクロニスティックな存在であることを意識していたが、それでも調子を変えることなく、生涯、サバ調でとおした。その作品の評価は専門家のあいだでも、おそらくは好ききらいというレヴェルで、まちまちである」(149ページ)

 トリエステについて書かれた章のなかに、ウンベルト・サバが登場する。この文章を読んで、一気にこの詩人の作品を読んでみたくなった。私が好きな詩人は吉野弘であったりジャック・プレヴェールであったり、わかりやすい言葉で書く詩人なのだ。正直に言って、ボードレールヴェルレーヌはともかく、ランボーの良さは私にはまるでわからない。そして仮に私が文学者だったとしたら、こんなことを言うのは許されない、という現代の風潮が許せない。「ランボーなんてくそだ」と言いたいのだ。好きな人が大勢いるのは知っているし、個人的には「象徴」を通り越して「抽象」だろうとも思えるようなその作風も、理解できれば楽しいのかもしれないが、私にはまるで理解できないのだ。好きだ、という人がいたら、なにが良いのか教えてもらいたい。フランスの大学教授に同じことを聞いたら、やれアレクサンドランだのなんだのと、形式の話ばかりされて、うまくはぐらかされた気がしてならない。堀口大學の訳文を読んで響かなかったものも、原文で読めばなんとかなるかも、と思いもしたのだが、やはりだめだった。それからシュルレアリスムも。一部の作家はこのうえなく好きだが、「主義」という言葉で括ろうとしても、浮かんでくるものがなにもない。そもそも「主義」という言葉で括ってなにかが浮かぶということ自体がほとんどないのだが、これは何々主義の傑作だ、と言われると、それだけで読む気がなくなってしまうのだ。だから、サバのような作家にはとても惹かれる。一部の人にしかわからないもの、というのは、その一部の人にだってわかっているのかどうか怪しいものなのであって、それを理解しているように見せることは、単なる衒いとしか思えないのだ。自分の性格が悪いだけなのかもしれない。

 また友人の話になるが、クロアチア人の女の子で、どういうわけか人生の大半をトリエステで過ごしてきたというクラスメイトがいる。文学好きの彼女は、現地の人びとのサバに対する熱狂ぶり、それからジョイスへの傾倒を、うんざりした様子で語ってくれた。ジョイスのなにが面白いのさ、と言うので、他のは知らないけれど『若い藝術家の肖像』は面白かったよ、と薦めてみたところ、彼女が五回挑んで毎回敗退したという『ユリシーズ』の登場人物、スティーヴン・ディーダラスが、すでにこの小説で描かれていることを知らなかった。今調べてみたところ、ジョイスがこれを書いたのはトリエステに滞在していたころだ。なんで知らないんだよ、と逆に疑問になったが、当然のように、英語で読んでみるわ、と言っていた彼女のことが心配だ。日本に丸谷才一がいて良かった。

「そんなとき、サバの名が、ふとだれかの口にのぼった。マスケリーニは、生前の詩人と親交があったようだった。私はいっしょうけんめいに詩人のことを聞きだそうとしたのだが、彼ら、とくにマスケリーニの口調には、きみたち他国のものにサバの詩などわかるはずがないという、かたくなな思いこみ、ほとんど侮りのような響きがあった。また、他の客たちの口にするサバも、トリエステの名誉としてのサバであり、一方では、彼らの親しい友人としての日常のなかのサバであった。そのどちらもが、私をいらだたせた。私と夫が、貧しい暮しのなかで、宝石かなんぞのように、ページのうえに追い求め、築きあげていったサバの詩は、その夜、マスケリーニのうつくしいリヴィング・ルームには、まったく不在だった。こっちのサバがほんとうのサバだ。寝床に入ってからも、私は自分に向ってそう言いつづけた」(161~162ページ)

 この須賀敦子が、妙に可愛い。この箇所は、うんうん、と頷きながら読んだ。フランス人を相手に好きな作家の話をするときも、こいつはよく知ってるな、と思われることはあっても、深い愛着そのものを語っているのに、肩すかしを食らうことがあるのだ。外国人の分際でフロベールの話なんかしてやがる、と思われているのかもしれないが、こちらだって、フランス人のくせに『感情教育』を読んでいない、と心のなかで反論している。似たようなものか。

庄野潤三さんがあの文章を書かれたころに(それはたぶん、まだ夫が亡くなって五年も経たないころ、住みなれたミラノを去って日本に帰ってきたころだったと思う)もしこの映画を見ていたら、おそらく私は自分が溶けてしまうほどの、もういちど立ち上がれないほどの衝撃を受けただろう。ごくはじめのところで、主人公が夜中によっぱらって家に戻ってくる場面がある。ドアに鍵をさしこんで家に入っていくと、家族はみんな出かけていて、あたりは真っ暗だ。その瞬間、あ、スイッチは左側にある、と私のなかのだれかが言って、私を完全に打ちのめした。その鉄道官舎も間取りが似ていて、映画に出ているアパートメントは、それほど、あのミラノ・ローマ本線の線路沿いの夫の実家そっくりだったのである」(180ページ)

 これはピエトロ・ジェルミ監督の『鉄道員』という映画について書かれた一節である。なんでもないように思えることが、ときにおそるべき破壊力を持って、人を「完全に打ちのめす」のだ。須賀敦子の文章そのものである。彼女の文章はこんな圧倒的な破壊力によって、打ちのめされつづけてきたことで生まれたものなのかもしれない。

「夜、とたしかルチッラは言っていた。町を歩いてると、人の靴音や話し声なんかが、角を曲るまえから聞こえてくるのよ。ヴェネツィアでいちばんすてきなのは、あれかも知れない」(186~187ページ)

「年月とともに、私は、ヴェネツィアという島=町が、それまで私が訪れたヨーロッパの他のどの都市とも基本的に異質であると思うようになっていた。そして、その原因のひとつとして私が確信するようになったのが、この都市自体に組み込まれた演劇性だったのである。ヴェネツィアという島全体が、たえず興行中のひとつの大きな演劇空間に他ならないのだ。16世紀に生きたコルナーロはヴェネツィアに大劇場を設置することを夢みたが、近代に到って外に向って成長することをしなくなったヴェネツィアは、自分自身を劇場化し、虚構化してしまったのではないだろうか。サン・マルコ寺院のきらびやかなモザイク、夕日にかがやく潟の漣、橋のたもとで囀るように喋る女たち、リアルト橋のうえで澱んだ水を眺める若い男女たち、これらはみな世界劇場の舞台装置なのではないか。ヴェネツィアを訪れる観光客は、サンタ・ルチアの終着駅に着いたとたんに、この芝居に組み込まれてしまう。自分たちは見物しているつもりでも、実は彼らはヴェネツィアに見られているのかもしれない。かつて、私がヴェネツィアのほんとうの顔をもとめたのは、誤りだった。仮面こそ、この町にふさわしい、ほんとうの顔なのだ」(194~195ページ)

 最後はヴェネツィアである。先日北イタリアを横断したときにはあまり時間がなく、ゆっくりとまわることはできなかったのだが、ちょうどカーニバルの真っ最中で、仮面をつけた人びとをたくさん見ることができた。本当に、ヴェネツィアというのは他のどんな町とも違う。観光客だらけ、特にフランスがバカンスだったこともあってフランス人だらけで、私だってもちろんそのバカンスを利用して行ったのだが、自分はどこに来ているんだ、と思うほど、周囲の人びとの話すフランス語が耳から離れなかった。そのときはサン・ミケーレ島の、ヨシフ・ブロツキーエズラ・パウンドの墓も見に行った。ヘミングウェイや多くの文人たちが愛した水の都を、堪能できたとは言い難い。いつかまた必ず行きたいと、この文章を読んでさらに強く思った。

 須賀敦子の文章を読んでいると、ひらがなに開かれている漢字が非常に多いことに気がつく。それも、別の章では「あたま」と開いていたのが、次の章では「頭」となっていたり、一定ではないのだ。この作家はものすごく、ひとつの言葉を漢字にするべきか否かを意識しているように思える。「いっしょうけんめい」をひらがなにしていたかと思えば、「潟の漣(かたのさざなみ)」などという常用漢字とも思えない字を出してきたりして、気を使っているのがわかる。訳書も多い人だから、色々と思うところがあったのかもしれない。期待通り、素晴らしい時間を過ごせた。

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 


<読みたくなった本>
パトリック・ジュースキント『香水』
「数年まえの夏、イタリアに滞在していたときに、「新聞小説の復活」というふれこみで日刊紙『コリエーレ・デラ・セーラ』の紙上をにぎわした、そのために私が毎日、早起きして新聞を買いに行くほど熱中して、友人たちにからかわれた小説があった。『香水』という題のその小説の主人公は、のちに稀代の香水づくりの名人となるのだが、体臭というものをまったくもたずに生まれたため、悪魔の落し子として母親に捨てられ、周囲のものからも疎まれる」(18ページ)

 先日、お隣さんの韓国人夫婦がこの映画のDVDを貸してくれて、原作をもう一度読みなおしたくなった。この小説は池内紀が翻訳したからあれほどまでに疾走感があって面白かったのだ、と思っていたのだが、どうやらそれだけでもないらしい。パトリック・ジュースキント、あれ以降なかなか名前を聞かないけれど、どうしているのだろうか。

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

 

アンデルセン『即興詩人』
「『即興詩人』は1838年頃にアンデルセンがはじめてイタリアに旅行したときの感激から生まれた作品と言われるから、ここに描かれたナポリは、いまから百年とちょっとまえのものということになる」(54ページ)

森鴎外全集〈10〉即興詩人 (ちくま文庫)

森鴎外全集〈10〉即興詩人 (ちくま文庫)

 

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲
「最近ある本を読んでいて、ふとナポリのことがあたまに浮んだ。それはアントニオ・タブッキという作家が書いた『インド夜想曲』という、近年イタリアやフランスで評判になった小説だったが、その中にこんな話があった。ある本に一枚の写真がのっていて、ひとりの黒人が勢いよく両手をあげて、まるでマラソンのゴールイン寸前のような格好で写っている。ところが、つぎのページでは、その写真が全体の一部分でしかないことが明かされる。全体というのは、南アフリカの黒人弾圧の場面を撮った写真で、勝利の瞬間のように両手をあげた黒人は、たったいま官憲の銃弾に撃たれて、倒れ込む瞬間なのだ。そして、その本の題は『アンソロジーにはご用心』だったという。作品全体を把握せずに、部分で用をすませるのは危険だ、と作者のタブッキは、彼らしい、なにげない調子でつぶやいている」(71~72ページ)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

マンゾーニ『いいなづけ』
「コルシア・デイ・セルヴィ書店との出会いは、それについて一冊の本が書けてしまうほど、私のミラノ生活にとって重要な事件だったのであるが、ここでは私がガッティとかかわった場としてだけ話すことにする。この書店の名は、現在ヴィットリオ・エマヌエーレ通りと呼ばれるミラノの目抜き通りが、昔はコルシア・デイ・セルヴィ(セルヴィ修道院まえの馬車道)と呼ばれていたことに由来する。ヴィットリオ・エマヌエーレというサヴォイア王家出身のイタリア王の名は、当然、イタリア統一後につけられたもので、この名の由来をたずねられると、店の人たちが誇らしげに、マンゾーニの『いいなづけ』にも出ています、と答えるのを、私は何度も耳にした。アレッサンドロ・マンゾーニは19世紀の国民的作家で、彼の書いた『いいなづけ』は、イタリアで中等以上の教育を受けたものならだれでも学校で読まされた本だから、そう言われるとみんな、へえという感じで頭を掻いたりした」(93ページ)

 先日ミラノを訪ねた際、このコルシア書店の跡地にも、マンゾーニの生家にも行った。だが月曜日だったため、生憎どちらも閉まっていて、読み終えるまでは迎えてもらえないということか、と勝手に解釈したものだ。

いいなづけ 上 (河出文庫)

いいなづけ 上 (河出文庫)

 
いいなづけ 中 (河出文庫)

いいなづけ 中 (河出文庫)

 
いいなづけ(下) 17世紀ミラーノの物語 (河出文庫)

いいなづけ(下) 17世紀ミラーノの物語 (河出文庫)

 

ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』
 上述。まだ海外文学にほとんど触れたことがなかったずいぶん昔に、江國香織が『ある家族の対話』を絶賛しているのを知って、この作家に興味を持ったことがあったのを思い出した。マンゾーニを読んでから探してみたい。

マンゾーニ家の人々(上) (白水Uブックス177)

マンゾーニ家の人々(上) (白水Uブックス177)

 
マンゾーニ家の人々(下) (白水Uブックス178)

マンゾーニ家の人々(下) (白水Uブックス178)

 

ウンベルト・サバの詩集
 上述。みすず書房から出ている須賀敦子訳を、日本に帰ったらすぐにでも入手したい。

ウンベルト・サバ詩集

ウンベルト・サバ詩集

 

ポール・セロー『レイルロード・バザー』
「遠い汽車の汽笛を床の中で聞いて想像をめぐらす場面は、『失われたときを求めて』の冒頭にも出てくる。最近読んだ、アメリカ作家のポール・セルーも、東部の町で過した少年時代に、夜、ベッドの中で聞いた遠い汽車の音を、魅力的な現代版のオデュッセイア、『レイルロード・バザー』の導入部に置いている」(164ページ)

鉄道大バザール 上 (講談社文芸文庫)

鉄道大バザール 上 (講談社文芸文庫)

 
鉄道大バザール 下 (講談社文芸文庫)

鉄道大バザール 下 (講談社文芸文庫)

 

エリオ・ヴィットリーニシチリアでの会話』
ヴィットリーニが、彼よりは二世代若い、前衛的な作家のイタロ・カルヴィーノと組んで、新進の作家を育てるために文芸雑誌『イル・メナボォ』を創刊したのは、『山猫』の成功(彼にとってはみじめな失敗)の翌年だったが、夫はヴィットリーニが小説を書かなくなったことを、惜しんでいた」(171ページ)

シチリアでの会話 (岩波文庫)

シチリアでの会話 (岩波文庫)

 

ゲーテ『イタリア紀行』
 先日ファニー・メンデルスゾーンの伝記『もう一人のメンデルスゾーン』を読んでから、ずっと読みたいと思っている。フェーリクスがそうしたように、この本を片手にもう一度イタリアをまわってみたい。

イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)

イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)

 
イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

 
イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)

イタリア紀行 下 (岩波文庫 赤 406-1)