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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

巨匠とマルガリータ

河出書房新社から発行されている、池澤夏樹個人編集の『世界文学全集』第5巻。

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

 

ミハイル・A・ブルガーコフ(水野忠夫訳)『巨匠とマルガリータ河出書房新社、2008年。


ストーリーの展開が全く読めない、とんでもない作品だった。モスクワの公園で二人の男がキリストの実在の是非を議論しているところから小説が始まり、行方のわからぬまま登場人物ばかりが増え、200ページほど読んだところでようやく主人公が登場する。そして今、何よりも驚くべきことに、それらの伏線全てがストーリーに関わった上で、律儀すぎるほどに完結されているのだ。

レトリック云々よりも、ストーリーに引きずられるようにページが進み、肥大化していく世界の中で迷い、いつの間にか道を取り戻しているような感覚だ。悪魔の引き起こす圧倒的な混乱と、リアリティに満ちたモスクワの風景が、現実の滑稽さを引き立てている。諷刺ともとれるような、ユーモラスな描写も多い。

「なによりもまず、この男は両足とも引きずってはいなかったし、背も低からず高からず、いくぶん長身であったにすぎない。歯に関していうなら、左側にはプラチナ、右側には金の義歯。身につけているものは上質なグレーのスーツに同系色の外国製の靴。グレーのベレー帽を横っちょにかぶり、プードル犬の頭の形をした黒い柄のついたステッキを小脇に抱えていた。見た目には四十歳を少し越したくらいか。口はなんとなく歪んでいた。ひげはきれいに剃りあげられている。髪はブリュネット。右の目は黒く、左の目はなぜか緑色。眉は黒いものの左右の釣り合いがとれていない。要するに外国人である」(13ページ)

「ウェイターたちは汗びっしょりになって、踊っている客たちの頭上高く、滴のたれるビールのジョッキをかかげて運び、しわがれた声で、「失礼します、お客さま!」と突っけんどんに叫んでいた。どこかで、両手を口もとに当ててメガフォンを作って、客が注文していた、「北極海スープをひとつ! ビーフを二つ、王様風チキンをひとつ!」と。いまはもう、甲高い声は歌っているというのではなくて、「ハレルヤ!」と吠えているみたいだった。ジャズ・バンドの金色に輝くシンバルを打ち鳴らす音が、ときどき調理場の洗い場へと通ずる傾斜面に皿洗い女たちが乱暴に投げ入れる汚れた食器のぶつかる音でかき消されることもあった。要するに地獄である」(90ページ)

池澤夏樹が指摘している通り、『カラマーゾフの兄弟』に見られたような議論も面白い。

「こういう問題を考えようとはしないのか、もしも悪が存在しないなら、おまえの善はどうなる、もしも地上から影が消えてしまうなら、地球はどういうふうに見えるだろうか? なにしろ、影は物や人間があってこそできるものではないか。ほら、ここに剣の影がある。だが、影は樹木や生き物からもできる。さえぎるものとてない光を楽しみたいという空想のために、あらゆる生き物を地上から一掃し、地球全体を丸裸にしてしまいたいのか? おまえは愚か者だ」(534ページ)

池澤夏樹編世界文学全集を読んだのは初めてだったが、一ページ当たりの紙が厚く、小説自体は見た目ほど長いものではなかった。字も大きく、厚さを理由に忌避している方々には是非進めたい。

尚、ブルガーコフソ連の作家だが、キエフ出身であることからウクライナの作家に区分した 。

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)