Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

実朝

小林秀雄の論じた、文庫本で40ページ程度の源実朝。 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

小林秀雄「実朝」『モオツァルト・無常という事』所収、新潮文庫、1961年。


たった今「論じた」と書いたが、はっきり言ってこれは論評ではない。激賞である。数多くの実朝論を取り沙汰しながらも、あくまでそれを否定し、あるいは無視し、ひたすらに主観のみによって実朝を、また彼の和歌を論じている。

「僕は、実朝という一思想を追い求めているので、何も実朝という物品を観察しているわけではないのだ」(113ページ)

「実朝の作歌理論が謎であったところでそれが何んだろう。謎は、謎を解こうとあせる人しか苦しめやしない」(128ページ)

太宰が和田合戦の後に詠んだとした「ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし」(『金槐和歌集』雑部、652番)を、小林はこんな風に語っている。

「彼の周囲は、屡々地獄と見えたであろう。という様な考えは、恐らく僕等の心に浮ぶ比喩に過ぎず、実朝の信じたものは何処かにある正銘の地獄であった。僕は、この歌を読む毎に、何とは知らぬが、いかにも純潔な感じのする色や線や旋律が現れて来るのを感じ、僕にはもはや正銘の地獄が信じられぬ為であろうかと自問してみるのだが、空疎な問いに似て答えがない。僕にしかと感じられるこの同じ美しさを作者も亦見、感じていなかった筈はあるまい。美というものは不思議なものである」(138ページ)

こんなに自由で、主観的な論じ方ができるのが、ひどく羨ましい。読書ブログを書いていても、ここまで主観的にはなれない。凡庸な歌から秀歌と呼ばれたものまで、それぞれが愛着をもって語られている。自分こそが最も深く愛していると思っている本を、他人に論評され、憤っているようだ。実際、そうだったのだろう。

「奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持って生れた精妙な音楽のうちに、すばやく捕えられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたう」(140ページ)

以下、挙げられている和歌を紹介しよう。括弧内は岩波文庫『金槐和歌集』(柳営亜槐本)の収録部と通し番号。

  吹風は涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴て秋は来にけり(秋部、189番)

  流れ行木の葉の淀むえにしあれば暮ての後も秋は久しき(冬部、325番)

  旅をゆきし跡の宿おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ(雑部、596番)

  塔をくみ堂をつくるも人なげき懺悔にまさる功徳やはある(雑部、651番)

凡庸と打ち捨てられてしまいそうな和歌がふんだんに紹介されており、著者の深い愛を感じる。

普段と違う角度から、実朝を見つめることができた。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 
金槐和歌集 (岩波文庫)

金槐和歌集 (岩波文庫)