Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

エレンディラ

ラテンアメリカ体験第二弾。ガルシア=マルケスが『百年の孤独』と『族長の秋』の間に描いた、あまりにも南米らしい魔術的短編集。

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

ガブリエル・ガルシア=マルケス(鼓直木村榮一訳)『エレンディラ』ちくま文庫、1988年。


魔術的リアリズムを知りたければ『エレンディラ』を読んでみるといい」と敬愛する友人に言われ、手に取った。

以下、収録作品。
「大きな翼のある、ひどく年取った男」
「失われた時の海」
「この世でいちばん美しい水死人」
「愛の彼方の変わることなき死」
「幽霊船の最後の航海」
「奇跡の行商人、善人のブラカマン」
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」

エレンディラ以外は短編である。現実と幻想の境目が、まったくわからなくなる類の。ありえないことが次々と起こっているのに、それを平静に見つめてしまう類の。

「なにより医者を驚かしたのは、天使の翼の合理性だった。まったく人間的なこの肉体にきわめて自然に取りつけられており、ほかの人間が同じように翼を持たぬ理由が納得しかねたほどだった」(「大きな翼のある、ひどく年取った男」より、17ページ)

上に挙げた奇跡めいた描写は、次のページでは日常になってしまう。

「ある朝、エリセンダが昼食用のタマネギを刻んでいると、海の沖からと思われる風が台所に吹きこんだ。それに気づいて窓の外を覗くと、飛ぶ練習を始めている天使の姿が見えた」(「大きな翼のある、ひどく年取った男」より、18ページ)

タマネギを刻みながら見ているのである。おいおい、と声をかけたくなってしまう。普通じゃないことが、日常化している。

「ごらんのとおりだ。ここではごみ屑まで宙に舞うんだよ」(「愛の彼方の変わることなき死」より、78ページ)

六つの短編全てが、幻想的だ。しかも現実的なのだ。「魔術的リアリズム」という言葉は矛盾している。そのはずなのに、「信じがたい」とは言わせない説得力を持っているのだ。

中編「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」にも、幻想は登場する。恐るべきことに、幻想それ自体は既に主だった主題ではなくなっているのだ。ダイヤモンド入りのオレンジが木に実っていても、それは小説のスパイスであって、メインですらないのだ。

先の友人が「エレンディラに登場する祖母は『悪童日記』の祖母に似ている」と言っていた。確かに。先日クリュスを挙げた時もおばあちゃんの話をした気がする。ケストナーとクリュス、アゴタ・クリストフとガルシア=マルケスを合わせて、「おばあちゃんコレクション」でも作ってみたいものだ。

「あんたは満足に人も殺せないのね」(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」より、184ページ)

南米は楽しい。次は何を読もうか。

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

 

<読みたくなった本>
コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

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プイグ『蜘蛛女のキス』

蜘蛛女のキス (集英社文庫)

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ルルフォ『ペドロ・パラモ』

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)