隊長ブーリバ
『鼻』や『外套』、『死せる魂』で知られるロシア(ウクライナ)の文豪、ゴーゴリの作品。
ニコライ・ゴーゴリ(原久一郎訳)『隊長ブーリバ』潮文学ライブラリー、2000年。
ゴーゴリの作品の中でも、マイナーなものに当たるのだろう。『鼻』と『外套』を読んでいた分、非常に驚かされた。腹を抱えるユーモアとは違うけれど、どこか滑稽な悲喜劇を想像していたのだ。元々知っているゴーゴリのイメージのまま取り組み、大いに裏切られた。
一言で言って、これは歴史ロマンである。日本ならば司馬遼太郎に代表されるような、歴史小説だ。ただし、主人公は侍ではなく、コサックである。帝政ロシアのコサック兵ではなく、正真正銘の自治集団としてのコサック。独立した武装組織としてのコサック、その中で隊長を務めるブーリバとその息子たちの、一大ロマンである。
「たとえ息が通わぬようになっても、あんたの体を持って行く! ポーランドのやつらにあんたのコサックの血を汚させてなるものか! あんたの体をずたずたにして、河の中へ放りこむなんて、そんなまねはさせやしない! かりに鷹があんたの顔から目玉をほじくり出すようなことがあるとしても、わしらの曠野の鷹にやらせるんだ。ポーランドの空から飛んでくるポーランドの鷹になどほじくらせてなるものか。たとえ息の根は止まっても、わしはあんたの体をウクライナまでは持って行くぞ」(177ページ)
光文社古典新訳文庫の『鼻/外套/査察官』を読んだ時に、やけに女性を蔑視する作家だな、と思っていたが、『隊長ブーリバ』においては、それは感じられなかった。そもそも女性がほとんど出てこないのである。しかし一人の女性の美しさを語る描写があり、その時にようやく他の作品との違いに気付いた。ああ、良かった、ゴーゴリも女性を美しく見ることができるんだ、と安心した。
歴史ロマンのつもりで読み始めれば、かなり面白いのではないだろうか。特に自治集団としてのコサックに興味がある人は、是非とも読むべき文献だろう。戦争の描写には物凄い勢いがある。敵味方どちらも、かなりグロテスクなことを平然と行う。
一つだけ、文句がある。原久一郎の名を見るだけで気付けるほどの教養があれば良かったのだが、訳文が非常に古い。読みながら、刊行年を確かめ、そして気付いた。何ということはない。過去に出された邦訳を、潮出版社が新装版として2000年に発行したのだ。調べてみたところ、原久一郎とは、ロシア文学を読んでいると何度も目にする翻訳家、原卓也の実父である。親子揃ってロシア文学を訳していたのだ。息子の原卓也は2004年に亡くなっており、父は19世紀末の生まれ。そりゃ古いわけだ。
新訳だけが良いわけではない。昔の文章には昔の文章の読み方がある。文句があると書いたのは、原久一郎の仕事を旧仮名遣いから新仮名遣いに改めるのなら、少しくらい字句を現代の言葉に置き換えても良さそうなものだ。どこにも元の訳書の発行年が記されておらず、一見すると最近訳された本のようだ。半端に手を入れるくらいなら、旧仮名遣いのまま出してくれ、と思った。その方がきっと、ずっと違和感無く読めるだろう。
<読みたくなった本>
ゴーゴリ『狂人日記』
ゴーゴリ『肖像画』
→『鼻』や『外套』のような世界に、今度こそ浸るために。