Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

初夜

友人の強い薦めに従い手に取った、先月末に発売されたばかりのイアン・マキューアンの最新刊。

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

 

イアン・マキューアン(村松潔訳)『初夜』新潮クレストブックス、2009年。


存命している作家を好きになれるのは幸せなことだと思う。薦めてくれた友人は日本語に訳されたマキューアンの作品を全て読んでおり、今回の新刊も原書が発売された途端に購入し、翻訳が出ることを誰よりも待ち望んでいた。マキューアンとは、そういった熱狂の対象になることできる作家なのである。

マキューアンの文章は独特で、翻訳でも十分に読みとれる文体的特徴を含んでいる。『アムステルダム』しか読んでいなかったのに、ページを開いてすぐに「あ、マキューアンだ」と呟かずにはいられなかった。わが親愛なる友人の言葉を借りると「鬱陶しいほどの比喩と、細かすぎる心理描写」があるのだ。ファンとは思えない言い草である。

「彼らは若く、教育もあったが、ふたりともこれについては、つまり新婚初夜についてはなんの心得もなく、彼らが生きたこの時代には、セックスの悩みについて話し合うことなど不可能だった。いつの時代でも、それは簡単なことではないけれど。彼らはジョージアン様式のホテルの二階の小さな居間で、夕食のテーブルに着いたところだった。隣の部屋には、ひらいたドア越しに四柱式のベッドが見える。幅はやや狭めだが、ベッドカバーは純白で、しわひとつなくピンと張り、人の手で整えたとは思えないくらいだった」(5ページ)

以上がこの小説の書き出しの部分に当たる。まず「いつの時代でも、それは簡単なことではないけれど」というのがマキューアンでなければ付け足さない一文で、さらに「人の手で整えたとは思えない」というベッドカバーの描写も極めてマキューアン的な装飾である。こんなことを書くのはマキューアンしかいないのだ。翻訳でも十分に再現される筆致とは、驚異的である。

「彼らの交際はパヴァーヌみたいなもので、一度も同意したわけでも言葉にしたわけでもない取り決めにそれとなく従って、おごそかに進められた。なにひとつ議論されたことはなかったし、親密な話し合いが不足していると感じたこともなかった」(24ページ)

文体の奇抜さも勿論のこと、音楽のモチーフが大量に投入されているのもマキューアンの特徴の一つだ。『アムステルダム』とこの『初夜』しか読んでいないのに断言できる特徴が二つもあるということが、マキューアンへの関心が高い理由なのかもしれない。

さて、この『初夜』は1962年のイギリスを舞台とした、童貞と処女のまま結婚してしまったあるカップルの話である。ロンゴスの『ダフニスとクロエー』を想像させる設定も扱い方によっては陳腐なものになってしまうのだが、マキューアンに関してそんなことは絶対にない。結婚を前提としないセックスが考えられない時代に、エドワードとフローレンスという二人が新婚初夜に立ち向かう話なのである。男女の関係が孕む問題は、時代を経ても変わることがない。

「グループの女の子のひとりがほかの学生と付き合いはじめると、エドワードの友人のサッカー選手みたいに、その子は仲間のあいだから姿を消した。まるで修道院にでも入ったかのようだった。男の子と付き合いながら、いまの友人たちとも付き合いつづけるのは不可能らしかったので、フローレンスは寮の仲間たちといっしょにいることを選んだ」(45ページ)

年若い時分に恋人ができると、友人たちと疎遠になってしまうのはよくあることである。彼らは「修道院に入ったかのよう」に姿を見せなくなり、その実、修道院とは正反対のことをしているのだ。このあたりの比喩の使い方も素晴らしくマキューアンらしい。

現代においては「付き合う」ということがまるでセックスへの許可証のように扱われてしまう。付き合っていない男女の間にすら、常にセックスが頭をもたげているのだ。1962年のイギリスにおいては「結婚」がその許可証だった。今日よりも貞潔が守られていた時代にすら何らかの許可証が介在しているというのは象徴的ではないか。

「このとき初めて、彼女のエドワードへの愛は、めまいと同じくらい反駁の余地がない、はっきりとした生理的感覚と結びつけられた。それまでは、ほっとするスープみたいな温かい感情、分厚い冬用毛布のようなやさしさと信頼しか知らなかった。それだけでも充分だったし、たいしたものだと思っていた」(88ページ)

どうして男女が親交を深めることが、否応なくセックスに繋がってしまうのだろうか。その短絡的な伝統に、逆らうことだってできるはずなのだ。未知の感覚への恐怖心から、それを拒むことだって不自然ではないというのに。

「彼らが動いたとき、ベッドが悲しげな音を立ててきしみ、自分たちの前にここを通過していったほかの新婚カップルたち――みんな彼らより手馴れていたにちがいない――が目に浮かんだ。廊下から階下の受付までその厳粛な行列が伸びているところを想像すると、ふいにこみ上げた笑いを抑えつけなければならなかった。そんなことを考えていてはいけない。コメディはエロティシズムには毒でしかないのだから」(97ページ)

恐怖心や性的なもろもろへの嫌悪感からセックスを拒まれただけで、関係が終わってしまう必要がどこにあるというのか。男女間に常にセックスが介在する時、それがもたらす関係の変化は避けられない。セックスをすることで終わる関係もあれば、そこから始まる新しいロマンティシズムもあるのだ。後者をテーマにしたのが、バタイユ『空の青み』だったことを思い出した。マキューアンの『初夜』はバタイユとは全く異なる論理で同じ問題を解き明かそうとした小説ではないか。

「なにもしないことによって、人生の流れがすっかり変わってしまうことがある」(165ページ)

出来ることなら、高校生の時に読みたかった。早い時分に開眼し、自分の愛情の方向性を決められていたなら、こんなことを一生考え続けることもなかっただろうに、と思う。でも、誰もがそう思わざるを得ない問題だからこそ、マキューアンは小説のテーマにしたのだろう。『初夜』はそんな、感傷的な気持ちを掻き立ててくれる小説である。

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

 


<読みたくなった本>
ロンゴス『ダフニスとクロエー』

ダフニスとクロエー (岩波文庫 赤 112-1)

ダフニスとクロエー (岩波文庫 赤 112-1)

 

バタイユ『空の青み』

空の青み (河出文庫)

空の青み (河出文庫)