Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

原子力都市

『無産大衆神髄』『愛と暴力の現代思想』で知られる在野の思想家、矢部史郎の最新刊。

原子力都市

原子力都市

 

矢部史郎原子力都市』以文社、2010年。


在野の思想家とは、換言すれば権威を持たない知識人である。先日読んだばかりのサイードの『知識人とは何か』で語られた知識人像にここまで合致する人物もなかなかいないだろう。矢部史郎は亡命こそしていないが紛れもないアウトサイダーであり、この本においては郊外に生まれた「原子力都市」の数々を巡っているのである。

「この街には「なにもない」。すべてが揃っているにもかかわらず、何もないのだ。人々の関心を惹きつけるような過剰や欠落、あるいは都市が表現する位置とベクトル、それらを示すなにか特徴的な差異を、この街は失っている。あらゆるものがありながら、そのdifference(=差異)が蒸発してしまっている。そして、ぞっとするようなindifference(=無関心)が、街を覆っているのである」(10ページ)

僕が語る政治的な意見は全て矢部史郎と白石嘉治の影響下に生まれたものだ。大学生の頃、この二人が揃って登場する『ネオリベ現代生活批判序説』を読んで初めて、哲学を政治に援用することの可能性を学んだ。権威を否定して発言するということは、自身の尺度でものを語るということである。つまりアカデミズムの陥る倒錯を徹底的に避け、公然たる批判を権威に対して唱えることができるということだ。それは大学教授には絶対に書けない、直接的な攻撃である。大学教授たちは自分たちの敵が権威を持っている場合彼らを皮肉ることしかできず、直接的な攻撃を加える際には徹底的な専門用語の海の中にその意見を隠蔽し、誰にも気付かれないように入念に準備しなければならない。だが、それではただの自己満足にしかならず、何も変えることはできないのだ。

「かつて工業都市における情報管理は、嘘や秘密を局所的・一時的に利用するだけで充分だった。しかし、原子力都市における情報管理は、嘘と秘密を全域的・恒常的に利用する。嘘と秘密の大規模な利用は、人間と世界との関係そのものに作用し、感受性の衰弱=無関心を蔓延させる。原子力都市においては、世界に対する関心は抑制され、無関心が美徳となる。能動的な態度は忌避され、受動的な態度が道徳となる。巨大なindifference(非差異=無関心)が都市の新しい規則となるのだ」(15ページ)

矢部史郎は変化を生み出す力を持った思想家である。読者を変える力は、明確な論理に裏付けられている。聞き覚えのない専門用語が出てくることはなく、普段人々が語っている言葉で体制を批判する。『無産大衆神髄』や『愛と暴力の現代思想』の頃には、ここまで簡明な文章を書いてはいなかった。同僚はこの本を「三十分で読める」と言っていたが、『原子力都市』は三十分で読めて三十年考えさせる力を持った一冊である。矢部史郎のこの変化には、読者へ伝えようとする意思を感じる。

「呉のキャバクラで飲んでいたところ、若い男性客の二人連れが、カラオケで「どんぐりころころ」を歌いだした。「どんぐりころころどんぐりこ」である。冒頭からキャバのネタで申し訳ないのだが、あまりにも衝撃的な経験だったので、ここに書きとめておく。いったいなんだろうこいつらは。と思っていたら、彼らは「大きな栗の木の下で」を歌い出し、つづいて畳み掛けるように「アンパンマン」の主題歌を歌いだした。「何が君のしあわせ、何をしてよろこぶ、わからないままおわる、そんなのはいーやだ」である。あまりの幼稚さに、キャバ嬢たちの表情が凍る。店内の温度が急速に下がっていくのがわかる。なるほどこれが自衛隊か」(31~32ページ)

この悪ふざけのごとき「なるほどこれが自衛隊か」という文章こそが、矢部史郎の良心である。「高円寺ネグリ系、ニーチェを語るはずがついついバタイユ」や「プーさんとドキュン」といった論文が思い出される。卑近なものと思想があっという間に結びつくのは、矢部史郎がどんなことを考えて生活を送っているかを端的に示しているだろう。彼は常に思考しているのだ。

「都市は、人間の意識にのぼらないやりかたで、人間に力を与えたり、力を奪ったりしている。この無意識のうちに与えられたり奪われたりする力について考えることが、都市論の基礎である。強調しておきたいのは、都市空間とはまず物質であるということ、人間は物質に結合する機械であること、都市という物質は人間の力に深く関わっているということだ」(46~47ページ)

巻末の「総論」によると、この『原子力都市』はロベルト・ユンクの『原子力帝国』に構想を得たもののようだ。ユンクからの引用によると、原子力を管理しなければならない人間はストライキをすることができない。「なぜなら、そこでは、一時間以上停止すれば重大な災害を招かずにはいない化学・物理反応がおこなわれているからである」(169ページ)。システムを管理する「人材」に成り下がった労働者は、管理の目から逃れる手段を剥奪されてしまっているのだ。

原子力の時代は、この「労働の時代」に幕を下ろす。工業化社会は大量の労働者を従え、また労働者の力に依存していたが、原子力の社会は労働者に依存しない。原子力産業は人間の労働に依存するのではなく、管理の技術に依存する。ここでは労働は力の源泉ではなく、二義的なものに格下げされる。労働にかわって新たな中心を占めるのは、管理の技術である」(65ページ)

話は原子力産業に限ったことではなく、人々は常に監視下に置かれている。「人材」は経営者が作り出したシステムの補完的な役割しか与えられず、いくらでも交換可能な文字通りの材料に貶められている。このことを語る上でも、矢部史郎ドゥボールを挙げずにそれを説明する。「スペクタクル社会」という専門用語を出すことなく、読者の視座から物事を明確にしていこうとするのだ。

パルチザンは、どんな軍隊よりも強い。なぜなら、軍隊の兵士とパルチザンの兵士とは、まったく違った次元で戦争を遂行するからである。軍隊の兵士は戦争のための武器を与えられているが、戦争の目的を理解することができない。軍隊の兵士は、戦争の主体にはなれない。対してパルチザンは、戦闘のための手段こそ貧弱であるが、戦争の目的については揺るぎない。いや、手段とか目的とかいう言い方は正確でない。パルチザンは、なにか別の目的を実現する手段として戦争を遂行するのではなく、戦争の遂行そのものを目的としている。それは、国家の軍事行動によって客体化され排除された人々が、戦争を自分たちの手に取り戻し、戦争の旧い定義を書き換えていく戦争である。戦争のデモクラシーと言ってもいい」(101ページ)

ご覧の通り、話題は多岐にわたる。この本は日本各地の「原子力都市」を巡った紀行文のように構成されていて、それぞれの地で目にした象徴的な意味での「被曝」が紹介されているのだ。当然ながら場所の取捨選択に偏りはあるが、話題は広く豊富である。それは管理がそれほどまでに多岐にわたって蔓延していることの、動かぬ証拠なのだ。

原子力産業の専制は、労働の特権的な地位を具体的につきつけるストライキを、決して実行できない抽象的な理念に変えてしまう。そして労働者は、ハードウェアやソフトウェアと併置されるライブウェア=人材へと、地位を下落させられてしまう。それは、ハードウェアやソフトウェアの欠陥を補い、システムとシステム設計全体の不充分さの帳尻をあわせるために消費される人材である」(170ページ)

用語としては「ネオリベラリズム」も「スペクタクル社会」も出てこないのに、日本という国がひた隠しにしている窮状が端的に表れているではないか。この本が言い当てようとしている問題が、ここまで読みやすく書かれたことはなかっただろう。矢部史郎は読者に訴えている。「原子力都市」の中で、僕らはどのように生きることができるのか。敵は数限りないが、この『原子力都市』はそれを打ち倒す方法を模索するための出発点となるべき一冊だろう。是非とも読者に恵まれて欲しい。

原子力都市

原子力都市

 


<読みたくなった本>
ロベルト・ユンク『原子力帝国』

原子力帝国 (現代教養文庫)

原子力帝国 (現代教養文庫)

 

ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代