Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

きことわ

 確実な選書眼を持つ友人が激賞しているのを知って、興味を持った本。「芥川賞」という単語を耳にするたびに、生田耕作の書いた「芥川賞などを追いかけるくらいなら、古典でも読み返しているほうが余程良い」という言葉を思い起こすほど、賞自体にはまるで興味がないのだが、そんなふうに世間に騒がれる対象となってしまった本がその友人までをも興奮させていることに驚き、逆に関心をそそられたのだ。

きことわ

きことわ

 

朝吹真理子『きことわ』新潮社、2011年。


 ここで何度も繰り返しているとおり、私は日本文学のことをまるで知らない。それを誇るつもりなど毛頭なく、むしろ本当にどうにかしなくちゃならないと常々思っているのだが、それでもこの人の書く文章の美しさに気がつけないほど、日本語を知らないというわけではない。

 たまには帯に書かれた言葉を引用しよう。

「永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。
 葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。
 ある夏、突然断ち切られたふたりの親密な時間が、
 25年後、別荘の解体を前にして、ふたたび流れはじめる――」

 一読してみて驚いたことに、これ以上ストーリーらしいストーリーとして紹介できるものがなにもないのだ。また別の友人が「小説には縦軸と横軸がある」と言っていた記憶がある。きっとなにかの本で得た知識なのだろう。どちらが縦でどちらが横なのかは思い出せないが、片方は筋書き、もう片方は表現だったように思える。西洋は筋書きを重視し、日本は表現を重視する、と彼は言っていた。完全に賛同できるわけではないのだが、言わんとすることはわかるし、一概に言えることなどなにもないという前提に立ってみれば、面白い考えかただと思う。その考え方に則れば、南米のいわゆる「マジック・リアリズム」なんかは超筋書き重視ということになるのかもしれない。

 どうしてそんな話をするのかというと、この本を読んだとき、他言語には翻訳できないな、と思ったのだ。たとえば天才的な言語感覚を持った翻訳者がこの本をフランス語に見事に写してみせたら、それは小説としてではなく長篇の散文詩、もしくはなにか前衛的な類の文学として扱われることになる気がする。これを小説として発表して、読者がすんなりとそれを受け入れられるというのは、考えようによってはすごいことなのではないか、と思ったのだ。

「夢がくりかえされている。あの夏の一日がいまとして流れている。永遠子は眠りの目のうちでさらに瞼をつむる。足先が冷えている。夢をみている永遠子の肉体そのものが冷えているはずなのに、車内の空調がききすぎているせいだと思えていた」(16~17ページ)

 磯崎憲一郎芥川賞を獲ったとき、その受賞作『終の住処』は十年という歳月をひょいと跳びこえることで話題になった。ジャック・ルーボーが知れば「アレクサンドル・デュマ的」とでも言いそうな時間の使いかただ。この小説の時間は、それとはまったく違う。ここでは、時間という概念そのものが流れていないのだ。夢と時間という概念が、想像の産物にすぎないかのように描かれている。

「永遠子は自らのことばにはっとして起きあがった。雨が降っている。現実の音であったのかと、永遠子はいそいで洗濯物をとりこむ。さいわい雨は降りはじめで衣類はどれも濡れてはいなかった。とりこんだ洗濯物をソファにのせて窓をしめようと振り返ると、また同じように外に洗濯物がかかっている。置いたはずのソファの上の洗濯物は消えていた。永遠子はふたたびとりこむ。ソファの上にのせる。窓をしめようと振り返れば、また外にかかっている。とりこむ。今度はさきに足で窓をしめる。洗濯物をソファの上にはのせず、手でつかんだまま、確認のため、そろりと振り返る。つかんでいた洗濯物がこつぜんと失せる。これもまたべつの夢だと気づいてからも、目のひらくのを待つより夢の身体が反射的にうごいてしまっていた。手や足がきりなくうごき、起きようと念じても、なかなか覚めないようだった。永遠子はまだソファの上で眠っている。雨音がしている。夢のなかでとりこみつづけた洗濯物をまた起きてとりこまなければならないのか。目をひらくと、母親の淑子が洗濯物をとりこんでいた」(21~22ページ)

 先日ロシア人の友人が、最新の物理学の情報だと言って、時間に関する新奇な学説を教えてくれた。それによると、時間というのは流れるのではなくそこに留まりつづけており、それを我々が追い越していっているのだ、とのことだった。ほとんど哲学だ。それがどう物理学と関わってくるのかも説明してくれた気がするのだが、小難しくてすっかり忘れてしまった。追い越すことができるのなら、遡ることができるのも道理だろう。この本を読んでいて、そんなことを考えた。

「ひとしく流れつづけているはずの時間が、この家には流れそびれていたのか、いまになってすこし多めに時を流して、外との帳尻を合わせようとしているのかもしれなかった」(45ページ)

「一口に三分といっても、カップラーメンを待つ、風が吹きすさぶ早朝に電車を待つといった三分間はながく感じられる。公衆電話の三分十円は会話する相手によりけりだけれど、ウルトラマンは三分もあればじゅうぶんすぎる。時間というのは、疾く過ぎてゆくようであり、また遅延しつづけるようでもあり、いつも同じ尺で流れてゆかない。二階で整理していた本に、宇宙のおおまかなところは三分でできたというタイトルの本があったことを貴子は永遠子に言った」(88ページ)

 夢と時間というキーワードからまず思い出されるのは、個人的にはアラン・ライトマンという人が書いた短篇集、『アインシュタインの夢』だ。これは『特殊相対性理論』の論文を発表する直前にアインシュタインが見たかもしれない夢、あらゆるかたちをした時間という概念を、ひとつひとつの短篇として描いた奇妙な本である。小説らしいところなどほとんどないのだが、どういうわけか面白かったのを覚えている。朝吹真理子は、この本のことを知っているのだろうか。

 ただ、ここまで繰り返しておいて、と言われるかもしれないけれど、この本を読むのには夢も時間もたいして重要ではない。小難しく考えようと思えばそうさせてくれるだけの深みを持った作品である、というだけで、上に書いたようなことはどれも、読み終えてから数日経った今思いついたことだ。読んでいる最中は、彼女の書く日本語に、ひたすら陶酔していた。

「貴子は生まれる前から永遠子に会っている。貴子が春子に妊娠されていたとき、脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた」(40ページ)

「そしてひとつまたひとつと面影がたつ。身のうちのどこにおさめていたのか、置きどころも知れずにいたというのに、凝っていた記憶が、視線をなげるごとに、なにかしら浮かんでは消えた。追想というのが甘美さから逃れがたい性質を持つものであるとしても、さして甘やかにも感じられず、むしろ逆巻くようで騒々しかった」(43ページ)

 この「凝っていた」の「凝」には「こご」と振り仮名が振られていた。他の部分にも振り仮名が振られていることが多く、私の場合にはそれに助けられた部分も多々あったのだが、この著者は一つの漢字に編集者が振り仮名を付けようとするのを、内心嫌がっていたのではないかという気がしてならない。気取りとかではなくて、自分の使う言葉が一般的でないことにさえ気がついていなさそうなほど、すらすらととんでもない言葉を発してくるのだ。

 先ほど「長篇の散文詩」などと書いたとおり、表現はすばらしく詩的で、まるで泉鏡花でも読んでいるような感覚だ。これを書いたのがひとつしか年齢の違わない人だと思うと、ちょうどラディゲに絶望させられるのと同じように、自分は今までなにをやっていたのだ、という気にさえなってくる。国語辞典を引いても載っていない単語すらあった。歳時記でも引かないかぎり見つけられないのかもしれない。とはいえ見たことのない単語でも、その字面や文脈から、意味はどっしりと伝わってくる。「この言葉は私が考えたんです」と言われたら、「ああ、なるほど」と相づちを打ってしまう気がする。

「焼きあがるのを待って買ったために、たいやきは袋のなかですこし蒸れて包み紙もしんなりとしていた」(53ページ)

「「雨降ってるみたいね」
 食堂に入ってきた女の持つ百貨店の包装紙に雨除けのビニールがかかっていた」(68ページ)

 ただ言葉が美しいだけではなく、細やかな風景描写などの表現も絶妙だ。ディテールが積み重なって、読んでいる最中の風景が眼前に迫ってくる。びっくりした。この近さはなんだ、と思った。

「貴子が永遠子をみかけたのは海岸沿いの盆踊りに出かけた同日だった。当日、永遠子は自分が行ったはずのない場所で貴子が自分のすがたをみていたことが、人違いであるとは永遠子自身にも思えなかった。いま自分がどこにいるのかがわからなくともその場所にいることができるように、自分は葉山の海岸沿いにいながら、また東京の渋谷にもいたのかもしれないと夢のようなことを思った。ほんとうに夢では会っていたのかもしれなかった。もしかしたら現実に起こった過去のように、夢が記憶にまぎれこんだのではないかと永遠子は言った」(91ページ)

 説明しようとすればするほど、初めの感覚が遠ざかっていってしまうような気がしてならない。ただ、この人がいるというだけで、日本語はその美しさをひっそりと保ちつづけることができるだろう。芥川賞やるじゃん。と言うより、これが獲らなかったらきっと一騒動起こっていただろう。

 最後に余計なことを書く。冒頭から間もないところに、こんな会話があったのだ。

「「これ、かけていい?」
 和雄がカセットテープをかえる。聞き覚えのない音に春子が曲名をたずねる。
 「E2-E4」
 「チェス?」
 「そう。棋譜が音楽になってる。E4からはじまってステイルメイトで終わる」
 和雄はこの曲がどのような棋譜になっているのかを想像するのが愉しいと言った。しばらく曲を聴いていた春子は、「じゃあC5」とブラインドチェスのまねごとをはじめる。「またその手ですか」と和雄がすぐに応え、ふたりは数手やりとりをすすめたが、「もうわからない」と春子がハンドルから手を離し、あっけなく降参した」(17~18ページ)

 この遊びを「ブラインドチェス」と呼ぶことすら知らなかったのだが、大学の学食で行列に並んでいるとき、先述のロシア人の友人と、毎日のようにこれをやっていた。盤を挟んでいるときとは違って、お互い冒険をしようとはしないので、相手のセオリーがわかってとても面白いのだ。本当に毎日やっていたので、友人がどう駒を進めてくるか、八手目までは完璧に予想できる。とはいえ十五手目くらいから、「そんなところにナイトがいるはずがない」など一悶着起こって、チェックメイトまでは辿り着けないのが常なのだが。こんな曲、本当にあるのなら聴いてみたい。

 何度も読み返したくなる一冊だった。ちょうど詩集のように。

きことわ

きことわ

 

追記(2014年11月12日):文庫化されました。

きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

 


<読みたくなった本>
朝吹真理子『流跡』

流跡 (新潮文庫)

流跡 (新潮文庫)

 

中谷宇吉郎『雪』
「夏涼冬暖の葉山にも、雪像をつくれるほどの雪が降った日があった。一度だけおとずれた葉山の冬の記憶だった。永遠子のうまれた日付が、雪博士と称された中谷宇吉郎がはじめて人工の雪結晶づくりに成功した日といっしょであったことを、天文学や気象学にくわしい和雄が教えたことがきっかけで、その冬、永遠子は熱心に雪結晶の本を読み、外をじっとみすえて降雪を待った」(36ページ)

雪 (岩波文庫)

雪 (岩波文庫)