村に火をつけ、白痴になれ
じつは先日より、久しぶりに日本にいる。出張での帰国というか、いつもどおり仕事の予定が多いので、会いたいひとたちにもろくに連絡をしていない滞在なのだが(みんなごめん)、仕事には都内の実家から電車に乗ってあらゆる場所へ行くため、移動時間が長くなり、結果的に読書がはかどって喜んでいる。それでも、電車内で本を読んでいるひとは、フランスから帰ってきて日本に拠点を置いていた五、六年前に比べても、ずいぶん減った印象だ。もったいないなあ、と思う。たしかに大多数の出版社はつまらない本を量産しつづけてはいるが、少数ではあれ、おもしろい本だって確実に刊行されているのだ。海外に住んでいると、本の購入も注文ばかりになり、つまりはすでに自分がおもしろさを確信している本ばかりに手を伸ばすことになるため、まだ関心を抱いていない領域のおもしろい本とは、出会う機会を逸してしまっているように思えるもの。とくに都内では、せっかく身近にすばらしい本屋がたくさんあるのだから、宝探しに行かないのは心底もったいない。これはそんな宝探しの収穫、わたしにとってはもともとの関心の外側にあった本である。巷で話題の伊藤野枝伝。信頼の置ける友人の棚から、抜き出してきた一冊。
栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』岩波書店、2016年。
はじめに書いておくが、これは一冊では完結させるべきでない類の本である。どういうことかというと、伊藤野枝に対する著者の態度がとても偏っているため、研究書としては使い道がなく、入門書としては野枝のイメージが間違った方向に固定化されてしまう危険性が伴うのだ。おまけに、というかこれがいちばん批判されるであろう点なのだが、著者の文体が独特で、あまりのわかりやすさのため、読みが先導されてしまう。つまり、この本を読んでいる最中には、書かれていることの正否を自分の頭で判断する必要がないのだ。それはとても危険なことで、まだ本を読み慣れていないひとや、影響を受けやすいひとには薦めたくない類の本である。すでに自分の頭で考える習慣が身についているひとが、伊藤野枝という人物について気軽に学ぶ、というのならもってこいの一冊だが、この一冊だけを読んでなにかを語れるようになるわけではない。知るきっかけ以上のものを期待するのはまちがいだ。伊藤野枝というひとの強さ・凄まじさの、ごく表面的な部分を知るための本である。
「かの女は、素で約束そのものを破棄しようとしていた。ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないというきまりごとなんて存在しない。それはどんなに良心的にかわされたものであったとしても、ひとの生きかたを固定し、生きづらさを増すことにしかならないからだ」(xiiiページ)
「私は自分がわがままだといわれるくらいに自分の思うことをずんずんやる代りに人のわがままの邪魔はしません。私のわがままと他人のわがままが衝突した時は別として、でなければ他の人のわがままを軽蔑したり邪魔したりはしません。自分のわがままを尊敬するように他人のわがままも認めます。けれども世間にはそういうことを考えている人はそんなにありません。皆誰も彼も自分はしたい放題なことをして他人にはなるべく思うとおりなことはさせまいとします」(伊藤野枝「従妹に」からの抜粋、39ページ)
「忘れないでください。他人に讃められるということは何にもならないのです」(伊藤野枝「遺書の一部より」からの抜粋、44ページ)
伊藤野枝に惚れる男たちの気持ちは、非常によくわかる。ぶれない、というのは、とても魅力的なことだ。これほどまでに知性に溢れた、ぶれない女の子が身近にいたら、きっと自分も狂ってしまうと思う。なかでも辻潤が彼女に送った手紙がすばらしい。あまりの恰好良さに震えた。
「俺は少くとも男だ。汝一人くらいをどうにもすることができないような意気地なしではないと思っている。そうしてもし汝の父なり警官なりもしくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。俺は物を秘かにすることを好まない。九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。姦通などいう馬鹿馬鹿しい誤解をまねくのが嫌だからだ。イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。俺はあくまで汝の身方になって習俗打破の仕事を続けようと思う」(辻潤の手紙、27~28ページ)
もちろん、大杉栄も野枝に首ったけである。厚顔無恥、厚顔無恥。ここはげらげら笑いながら読んだ。
「大杉は、足しげく野枝を訪問するようになった。もちろん、辻の目もあるし、なかなかうまくはクドけない。どうしたらいいかわからないが、気持ちがおさえられない。まいった。このときの大杉の様子は、あきらかにおかしかったらしい。いっしょに住んでいた保子によれば、大杉があまりに挙動不審なのであやしいとおもい、毎日、大杉を尾行している刑事に、あいつなにをやっているんだときいてみた。すると刑事は、大杉が野枝のもとにかよっているとおしえてくれた。大杉さん、野枝にぞっこんですよと。いつの世でも、刑事はブタだ。それをきいて保子はキレてしまい、泣きながら大杉を問いつめた。おまえはなにをやっているんだ、相手には旦那も子どももいるんだぞ、そんなにその小娘が好きなのかと。そういわれて、大杉もテンぱってしまう。ううっといって、あたまをかかえながら、こうさけんだという。「急転直下、自分で自分の心がわからぬ!」。そういうとひとり紙と筆をとり、なにかを書きなぐっていた。保子がなんだろうとおもい、おそるおそるのぞいてみると、紙には「厚顔無恥、厚顔無恥、厚顔無恥、厚顔無恥」と、ひたすらおなじ文字が書かれていたという。どんまい」(78~79ページ)
ああ、こういうのはいいな、と思ったのは、大杉栄や伊藤野枝の、お金に対する態度。わたしも貯蓄という観念のない人間で、おいしいものを食べたり欲しいものを買ったりと、あればあるだけお金を使ってしまうのだが、そういうのを我慢するのは、お金が手もとにないときだけで十分だと信じているのだ。お金を持つ豊かさよりも、おいしいものを知る豊かさのほうが大切だと思っている。消費社会の申し子みたいだ。
「一〇月三〇日、大杉はひとり官邸をおとずれた。当時、内務大臣であった後藤新平に面談をもうしこむ。おどろくことにうけてくれた。応接間にとおされて、後藤がやってくる。「なんの用ですか」ときいてくるので、率直に「あんたら内務省のせいで、オレの本が発禁になっている、カネがない、だからあんたにカネをもらいにきたんだ」といってみた。あまりのことに、後藤がポカンとしている。筋がとおっているのかいないのか、それすらもよくわからない。でも、そこはさすが後藤である。懐がふかい。こういうことをいってくる輩がきらいじゃないというか、端的におもしろいとおもったのだろう。「いくらほしい」ときいてくる。あれ、いいのか? 大杉が「三、四〇〇円」というと、ほんとうにくれた。いまでいうと、一〇〇万円くらいの金額である。わーい、やったぜ。はぶりがよくなると、大杉はカネをじゃんじゃんつかう。とりあえず、保子に五〇円あげて、野枝には三〇円かけて着物と羽織を質からうけださせてあげた。なせばなる。大正時代からの教訓だ。カネがなければもらえばいい、あきらめるな!」(87~88ページ)
「ある日のこと、亡くなった社会主義者の同志、野沢重吉の奥さんが、生活にこまって家をたずねてきたことがあるらしい。このとき、大杉は奥さんに笑顔で応対しながら、村木にことづけをたのんだ。野枝の羽織を質にいれてきてくれと。いってみると、五円になった。やったぜ。村木は、多少、自分たちのためにとっておいて、米でも買うのだろうとおもっていたようだ。よっしゃ、白米だ、ひさびさの白米だ。そうおもって、ワクワクしながら大杉にカネをわたしたら、大杉は金額を確認せずに、そっくりそのまま奥さんにあげてしまった。マジかよ、村木はびっくりしてしまった。野枝も小言ひとついいやしない。似たもの夫婦というか、カネについてはふたりとも、あるときはあるでうんとつかい、ないときはないでなんとかする、目のまえにないひとがいれば、あるだけあげればいい、そうするのがあたりまえだとおもっていたのだろう。いい人たちだ」(101~102ページ)
さて、ここまでの引用でも十分、この著者の書きかたについては理解できたと思う。話題が野枝であるときはいいのだが、この著者が野枝の言葉を援用して現代の状況を語っているときには、ちょっと身構えたほうがいい。いや、それほどまちがったことを言っているわけではない。だが、野枝がほんとうに賛同するかどうかは疑わしいようなことも、平気で書いている。
「いちど都会でくらしはじめると、仕事がなければ生きていけない、そうおもいこまされる。そして、そういう恐怖をすりこまれたら、もう資本家のおもうがままだ」(103ページ)
「目のまえで、資本家があわてふためいている。こいつら、ほんとうはたいしたことないぞ。もういうことなんてきく必要はない。あいつらより、オレのほうがすごいんだ。しかも、ひとりじゃやれないとおもっていたことが、同僚のひとり、ふたりと手をくんでみたら、あんがいやれる。あんなこともできた、こんなこともできた。気づいたら、これまで自分がおもってもいなかったような力を手にしている。オレはすごい、もっとすごいんだ、もっとやれる、もっとやれると。そして、いちどこの感覚をあじわった自分は、いままでの自分ではない。おなじ身体でも、あきらかにその力が成長している。もちろん、そんなストライキをうったら、たいていはクビになってしまうだろう。でもそれでもいい。資本家にたよったり、カネをかせいだりしなければ、生きていけないという感覚をふっとばす。自分のことは自分でやる、やれる。それを行動にしめすことがだいじなのである」(105ページ)
この「いちど都会でくらしはじめると、仕事がなければ生きていけない、そうおもいこまされる」というのは、ほんとうのことだろう。日本という国は、ほんとうに多様性というものをぜんぜん認めようとしない。たとえば30代の男が仕事をせず、平日の昼日中にふらふらしていたら、まあ通報はされないまでも、恐怖の対象くらいにはすぐになってしまう。これは主体にとってみても同様で、多様性を認められないので、日本的な「普通」から逸脱していくことも、なにか恐ろしいことのように思えてくるものなのだ。それが野枝の時代から続く伝統的なものであったというのは、とくに驚くようなことではない。
問題は、この国ではストライキですらすでに逸脱である、ということで、それを逸脱から普通に変えていくための方策が話題になるべきところで、この著者が奨励しているのが逸脱そのもののように思えることなのだ。彼が目指している社会は、多様性が認められるようなものだとは思えない。批判対象はまちがっていないのに、その批判の内容が徹底的にまちがっているように思えるのだ。このアジテーションめいた文章のなかでも、クビになっても「それでもいい」と言うが、彼ではクビになってしまったひとたち全員に手を差し伸べることはできない。「自分のことは自分でやる、やれる」。これじゃあ、この著者が目の敵にしているであろう新自由主義の、「自己責任」という言葉で振るわれる暴力と同じ論理である。
「男女のカップルは、夫婦の契りをかわすことによって、愛の契約をむすぶことによって、ひとつになれるんだ、いやそうするのが自然なんだとおもいこもうとする。そして、あたかもセックスの快感がその一体感をあらわしているかのようにおもいこむ。だいたいこれで、みんな家庭というひとつの集団に同化されてしまうのだ。じゃあじゃあということで、おなじ集団の構成員として、よりよい家庭をきずくために、たがいに契約をかわした役割をこなしましょう、夫としての、妻としての、ということになる。性別役割分業。それは奴隷根性でがんじがらめになるということだ」(125ページ)
「しあわせな家庭を築くということは、マイホームをもつということとおなじことだ。ひとも土地もしあわせも、すべてはカネでとりかえがきく。所有できるのだ、なんだって。三五年ローンをくんで、それを返済しつづけるのが、一家の主、あるいはそれをささえる妻の役割だといわれている。借りたカネを返せなければ、ひとでなし。それにくわえて、マイホームを手放すということは家庭を放棄することだといわれている。不倫みたいなものなのだ、それは。そういわれないためにも、自分のやりたいことなんてうっちゃって、とにかくカネになることだけをやろうとする。共働きをするのでも、家計のやりくりをするのでも、子どもを就職させるのでも、そういうことだ。借金人間。それは文字どおり、奴隷の生をいきるということだ」(169ページ)
マイホーム購入のシステムなど、やっぱり、批判対象はまちがっていないのだ。でも、こういう「家庭」ですでにしあわせな人たちは、「奴隷」と呼ばれて喜びはしないだろう。主体が男性であれ女性であれ、惚れた相手との生活のためにお金を稼ぐというのは、そんなに不幸なことではない。なにをやってもいい、というのは、普通に共感できるのだが、そのなかには、いましあわせな人たちだって含まれているべきなのだ。認められるべき多様性のなかには、すでにあるものも含まれているべきでしょう、と思う。ちなみにこの箇所の直前には以下の文章があり、度肝を抜かれた。
「わたしの友人の白石嘉治さんも、これからは地方のみならず、都心や郊外でも、築三〇年以上のタダ同然の家がふえてくる。それをあえて〇円ハウスとよんでみよう、あとはそのうばいかたを、山賊的な生活のしかたを考えていけばいいだけだといっていた」(166ページ)
白石嘉治氏はわたしの大学時代の恩師、喫煙所や喫茶店でこのひとが語ってくれたことの影響で、じつにたくさんの本を読んだ。というか、かつて『不純なる教養』や『原子力都市』を紹介したときに書いたとおり、わたしがいま持っている政治的な知識は、ほとんどすべて白石氏と、彼と親しい人びとの著作を通じて得たものである。白石氏も一枚噛んでいるにちがいない『来たるべき蜂起』に倣って言うと、彼らの批判の矛先はいつだって「取り返しがつかないほど正しい」し、『ネオリベ現代生活批判序説』がもっと広く読まれるべき本であることには変わりはないのだが、その方策には疑問を抱かざるを得ないのだ。この『村に火をつけ、白痴になれ』で著者が語っていることについても同様である。そういえば上述のストライキについては、白石氏はこんなことを書いていた。
「ストライキはたんなる交渉の手段ではない。それはむしろ交渉を絶つことによって、みずからの力を取り戻すことである。あるいはコミュニケーションの切断による生そのものの表現の獲得である」(白石嘉治『不純なる教養』、70ページ)
栗原康が上掲の一節を書いたときには、白石氏のこの言葉が念頭にあったにちがいない。
「アナキズムの理想は、どこかとおい未来にあるんじゃない。ありふれた生の無償性。ひとがひとを支配したりせずに、たすけあって生きていくこと。それはいまここで、どこでもやっていることだ。でも、資本主義というか、カネにまみれた都会の生活になれてしまうと、すべてが有償の論理で、対価―見返りの関係で、うごいているかのようにおもってしまう。ひとがなにかしてくれるのは、あくまでカネがでているからだ。ひとは利己的な存在であり、カネさえあればいうことをきくと。カネのあるものはなんでもできるとおもいこみ、カネのないものを支配する。逆に、カネのないものはそれで自分に限界をかんじ、やりたいことがあってもやっちゃいけないとおもわされる。たとえば、子どもがたくさんほしくても、ちょっとムリだよねとおもったり、家族を医者にみせたくても、カネがなければあきらめてしまったりする。あれしかできない、これしかできない」(151ページ)
初めに書いたとおり、これはすでに自分の頭で考える習慣が身についているひとが、伊藤野枝という人物について気軽に学ぶための本である。ただ伊藤野枝のことを知るためだったら、きっともっと良い入門書があるにちがいないし、ここで語られている思想を知ろうとするのなら、もっと学術的な書きかたをされた別の著作、それこそ白石嘉治氏の『不純なる教養』などを読むべきだと思う。でも、伊藤野枝や周辺の人びとのことを知るきっかけにはなった。一冊ではなにも完結しない本なので、ここから関心を広げていきたい。そのつもりがないひとは、いっそ手に取らないほうがいいと思う。
〈読みたくなった本〉
辻潤『絶望の書・ですぺら』
ロンブローゾ『天才論』
マックス・シュティルナー『唯一者とその所有』
エマ・ゴールドマン他『婦人解放の悲劇』
チェルヌイシェフスキー『なにをなすべきか』
『ラッセル自叙伝』
「ラッセルはこうしるす。「わたしたちがほんとうに好ましいとおもった日本人は、たった一人しかいなかった。それは伊藤野枝という女性であった。かの女はわかく、そして美しかった。ある有名なアナキストと同棲していた」と」(146ページ)