Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

エペペ

アゴタ・クリストフ『文盲』を読んでから言語をテーマにした文学を読みたいと思い、手に取った一冊。現代社会のディスコミュニケーションを題材にしたハンガリー文学、『エペペ』。

エペペ

エペペ

 

カリンティ・フィレンツ(池田雅之訳)『エペペ』恒文社、1978年。


長かった。1978年の出版ということから当然予想される字の小ささや読み辛さを差し引いても随分と時間がかかったと思う。ディスコミュニケーションがテーマとなっていると書いた通り、この小説にはほとんど会話が無いのだ。状況描写と主人公の独白が延々と続くタイプの小説なのである。時間がかかって当然である。

『エペペ』はある言語学者の物語である。世界中のあらゆる言語に精通した言語学者のブダイがヘルシンキで開催される言語学会へ向かおうとすると、飛行機を乗り違えたのか気が付いたときには見知らぬ国にいる。そしてそこでは、彼が習得している様々な言語のどれもが通用しないのだ。

「彼は電話を試しはじめた。彼の部屋には電話帳がなかったので、彼はでたらめに何度も何度もダイヤルを回してみた。するとついに、誰かがどこかからか応答してきた。彼ははじめに男の声が、次に女の声が聴き取れたが、さまざまな言語を試してみても、あるいはいく度も「案内係をお願いします」ということばを繰り返し叫んでみても、応答はいつも同じような訳のわからないことばで、しかもほとんど音節に分かれていないアヒルの鳴くような《エベベ、エペペ、エテテテテ》といったような声の響きしか返ってこなかった」(14ページ)

かろうじて宿を確保したものの、ここから抜け出す糸口が見つけられない。言葉が通じないだけでなく、ジェスチャーによる意思表示も全く功を奏さないのである。飛行場を捜していることも伝えられないし、故郷へ手紙を出したいという希望も叶えられない。そしてどこへ行っても夥しい数の人々が、行列を作っているのだ。ホテルのフロントで自分の窮状を訴えることもできないし、食料を確保するのさえ一苦労である。

「彼はロビーを見回し、公衆電話を捜した。そこには置いてないようだったが、充分捜すこともできなかった。だが朝の散策の折に、彼は電話ボックスかそれらしきものの前を通ったことを、突如思い出した。彼は通りへ出たものの、以前同様混雑していて、相変わらずの押し合いへし合いを繰り返しながら進んでいったが、ついに彼は記憶にあった場所よりもさらに先の街角に電話ボックスを発見した。言うまでもなく、それは使用中でそのまわりを順番を待つ人々の群れがとり囲んでいた」(43ページ)

この状況を打開するためにブダイが見つけ出そうとする糸口の一つに、ホテルのエレベーターガールの存在がある。彼は彼女の好意的な態度に心を惹かれ、この見知らぬ国で関わりを持てる唯一の人間を見出す。ところがそこにも言葉の壁が立ちはだかる。世界各国の言語に精通している彼でさえ、この国の特異な発音を聴き分けることは難しいのだ。

「空想の中だけだとしても、彼は彼女を抱きしめずにはいられなかった。だが、彼には彼女と夜の夢を分かちあうことが無理なばかりか、彼女の名をなんと呼んだらいいのかさえわからなかった。《ベェベェベェ》《テェテェテェ》それとも《エペペ》?」(125ページ)

彼はこの地獄から抜け出すためのあらゆる方法を試みるが、どれも上手くいかない。言語の壁と無尽蔵な人々の数が常に彼の行く手を阻むのである。そしてさながらシーシュポスの神話のように、試みては始めからやり直すという堂々巡りが延々と続けられる。

「しばらくして、落ち着きを取り戻した時、結局いつもそういうことになるのだったが、彼は部屋に掛っているあの油絵のことを考えはじめていた。彼は雪の降りつもった松林、鹿の飛び跳ねるすばらしい「夢の国」の冬景色をむさぼるように視つめていた。彼はうんざりするほどその絵を眺めてきたから、今ではどんな些細な点も熟知していた。しかも、この絵は彼を幽閉しているこの忌まわしい都市の彼方にある世界へと彼を誘っているただ一つの眺めであった。だが、おそらく、この彼方にはどんな世界も展けていないのではないか、ここに描かれた「夢の国」はまったく自分の想像の世界にだけ存在しているものではないのか、と彼は思いはじめていた」(213ページ)

はっきり言って退屈な小説である。物語の冒頭では主人公の置かれた状況の特異性に興味を掻き立てられてどんどん進むが、中盤以降に差し掛かってブダイの運命がある程度見えてくると、予期される彼の悲惨な運命に読者の方が怖じ気づくことになる。だが、これはただの退屈な小説ではない。人々との意思疎通が出来なくなったときに人がどれほど危うい状況に置かれるかを『エペペ』は端的に示してくれ、ハックスリーやオーウェルの作品に代表されるようなユートピア文学の様相も間違いなく呈しているのだ。そして彼の置かれる状況の不条理性を考えると、カフカカミュが嫌でも浮かんでくる。そういう意味では、間違いなく文学史に残るべき作品なのである。

訳者解説にもある通り、最初から最後まで精読しても報われることはないので、ある程度は読み飛ばしても良いのかもしれない。しかし『エペペ』や『文盲』からハンガリーという国が置かれた文化的な立場を考えてみるのも面白いし、何よりこの有り得ない設定を押し通すだけの作家の力量を是非味わって頂きたい、と思う。その結果うんざりする羽目に陥ることは、約束できる。

全く言葉の通じない環境に投げ出されたらどうなるか、考えてみたことのある人は、是非。

エペペ

エペペ

 


<読みたくなった本>
ヴェルヌ『地底旅行』
→「ヴェルヌの書物の中では、解読法は、ごく当たり前の反復作業の結果、発見された、とあった。『地球の中心への旅』では、文字の列がある方法で再編成されるや、謎は氷解したのだった」(157ページ)。

地底旅行 (岩波文庫)

地底旅行 (岩波文庫)

 

カミュ『シーシュポスの神話』
→ブダイの毎度の撃沈がシーシュポスを想起させる。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

サルトル『嘔吐』
→青年ロカンタンはブダイと同様に「現代の新しいヒロイズムと、さらに時代に強いられたアンチ・ヒロイズムとを同時に振り子のように併せ持っている人物の典型」(解説より、326ページ)だそうだ。

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

コリン・ウィルソン丸谷才一訳)『敗北の時代』
→「C・ウィルソンの指摘するように「ハムレットファウスト、エイハブ、ツァラトゥストラドストエフスキーの<地下生活者>はこういう象徴的な位置にまで達している」時代のヒーローたちなのだ」(解説より、328ページ)

敗北の時代 (1959年)

敗北の時代 (1959年)

 

カリンティ・フィレンツ『ブダペストに春がきた』
→あえてもう一冊読んでみようかな、とすら思う。

ブダペストに春がきた他 (東欧の文学)

ブダペストに春がきた他 (東欧の文学)