Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

盗まれた細菌/初めての飛行機

 ブルガーコフ『悪魔物語・運命の卵』を読んでいたときに、「生物の巨大化」という観点からウェルズの『The Food of the Gods(神々の糧)』が紹介されていて、そういえば久しくこの作家に触れていないな、と思い、手にとった一冊。買ったのはずいぶん前のことである。この本をわたしが買わないなどということはありえない。わたしには購入に踏み切る直接的動機となる「弱点」がいくつもあるが、この本はそのうちの二つをも含んでいたのだ。すなわち「南條竹則」と、「ユーモア文学」である。

盗まれた細菌/初めての飛行機 (光文社古典新訳文庫)

盗まれた細菌/初めての飛行機 (光文社古典新訳文庫)

 

ハーバート・ジョージ・ウェルズ南條竹則訳)『盗まれた細菌/初めての飛行機』光文社古典新訳文庫、2010年。


 イギリスのユーモア文学とはいっても、ウッドハウスのような哄笑(げらげら)だけではなく、それこそブルガーコフゴーゴリのような皮肉った笑い(にやり)も散見される、広い意味でのユーモアに満ちた短篇集だった。短篇集というのは続けざまに読むのには向いていないので、ほかの作家の長篇の合間に読んだりと、ずいぶん長いこと携帯していた気がするが、後述のとおり途中から読むのをやめられなくなり、気づけばあっという間に読み終えてしまった。以下、収録作品。作品ごとに評価を付けるのはもうやめにしたいと思ったので、代わりに気に入ったものに★を付けた。

「盗まれた細菌」
「奇妙な蘭の花が咲く」
「ハリンゲイの誘惑」★
「ハマーポンド邸の夜盗」★
「紫の茸」
「パイクラフトに関する真実」
「劇評家悲話」★
「失った遺産」★
「林檎」★
「初めての飛行機――“アラウダ・マグナ”――」
「小さな母、メルダーベルクに登る」
〈付録I〉マックス・ビアボウム「パーキンズと人類」
〈付録II〉マックス・ビアボウム画「H・G・ウェルズ氏」

 日本オリジナル、というか南條竹則オリジナルの編纂で、SFに分類されそうなものも怪奇小説に分類されそうなものも混ざっている。岩波文庫版の『タイム・マシン』もそうだったが、この作家はある意味では、SFの父のひとりとして比較されることの多いヴェルヌよりもずっと多才である。いや、多才、というより、多彩と言うべきだろう。そもそもSFひとつとってみても、ヴェルヌが描いたことの多くが比較的早い時期に実現可能だった論理に基づく科学だった(大砲での月旅行は入念に除外)のに対して、ウェルズは反重力物質などといった超自然的なものを持ち込むことをすこしもためらわない。この二人を比較するのはそもそもおかしなことなのである。不思議な現象をいくらでも取り入れるので、ウェルズの短篇はものによっては、それこそポーのようにも読め、怪奇小説としか呼びようのないものもたくさんあるのだ。

「私としては、全宇宙のコレラ菌を一つ残らず殺して、染色したいものだと思いますよ」(「盗まれた細菌」より、11ページ)

「「わたしには何も起こらないな」彼はやがてひとりごとを言いはじめた。「どうしてなのかな? 他の人間には随分いろんなことが起こるのに。たとえば、ハーヴィーだ。つい先週――月曜日、あいつは六ペンス拾った。水曜日には、あいつのひよこが全部暈倒病にかかった。金曜日は、あいつの従姉妹がオーストラリアから帰って来て、土曜日は踝を捻挫(くじ)いた。何ていう刺激の連続だろう――このわたしに較べたら」」(「奇妙な蘭の花が咲く」より、28~29ページ)

 この短篇集の編纂の基準はきっと、南條竹則が原著で読みながら、どれくらい笑ったかである。先に書いたように笑いの質が根本的に異なることもあるのだが、すばらしい編纂ではないか。稀代の翻訳家は稀代のアンソロジストでもあった。最初に唸ったのが、「ハリンゲイの誘惑」。オスカー・ワイルドを思い出さずにはいられない話だ。

「創造の筆致! それが、画布(カンヴァス)と絵の具で人間をつくるんだ――アダムが赤土からつくられたように! しかし、この絵は! こいつがもし、通りを歩いていても、アトリエで描いたものだとわかってしまうだろう。小さい子供は『あっちへ行け。額に入れてもらえ』って、こいつに言うだろう。ちょっとした筆使いの問題なんだが……ううむ――やっぱり、うまくないな」(「ハリンゲイの誘惑」より、45ページ)

「「真の芸術家は」と絵は言った。「つねに無知な人間だ。自分の仕事について理屈をこねまわす芸術家は、もはや芸術家じゃなくて批評家だ。ワーグナーは……おい――その赤い絵の具をどうする気だ?」」(「ハリンゲイの誘惑」より、51~52ページ)

 書き出しが特徴的なものが多く、ウェルズの短篇の物語への吸引力は特筆に値する。しかもポーのようにパターン化されているわけでもないので(江戸川乱歩「赤い部屋」などで意識的に模倣していたあれ)、読んでいて飽きることがぜんぜんない。新しい短篇のはじまりを見るたびに、読み終えるまで立ち上がれなくなる。

「夜間強盗がスポーツなのか、商売なのか、はたまた芸術と考えるべきかということは、議論の余地のある問題だ。商売として見ると、技術が十分確立されていないし、芸術と見なされるには、それが成功した場合の金銭的要素が邪魔をする。全体として、これはスポーツの部類に入れるのが、一番理にかなっているように思われる。このスポーツには、今のところ規則が定められておらず、賞金はごく手軽なやり方で配付されるのだ。残念なことにハマーポンド邸に於いて、二人の前途有望な初心者が身を滅ぼしたのは、夜間強盗のこの形式張らぬやり方のせいであった」(「ハマーポンド邸の夜盗」より、58ページ)

 ウッドハウスのように、文脈から切り離してしまっても笑える、という描写もあった。「パイクラフトに関する真実」には、こんな「余分な」一文がある。余分なものほど美しいものはないと、やはり思わずにはいられない。

「僕はねじ回しを持たせれば役に立つ、お節介な人間である。パイクラフトのために、ありとあらゆる気の利いた改造をほどこしてやった」(「パイクラフトに関する真実」より、121ページ)

 ちなみにこの作品のなかに、以下の一節を見つけた。

「あいつはただの鬱陶しい消化力を持つ物質のかたまりであって、服を着たただの雲、空無、虚無、およそつまらない人間にすぎない」(「パイクラフトに関する真実」より、123ページ)

 まさかのマヤコフスキーである。ず、『ズボンをはいた雲』だ! もちろん、この短篇を読んでみればわかるが、言葉の組み合わせが近いというだけで、全然関係ない。賭けてもいいが、マヤコフスキーはこの短篇を読んでいないだろう。

 この本のなかでいちばん気に入ったのが、以下の「劇評家悲話」。もともと影響を受けやすい質の主人公がひょんなことから劇評家の仕事をこなすようになり、毎日見ている演劇のせいで、挙動がどんどん芝居がかっていくという話である。内容を書くのは好きじゃないのだが、この短篇についてはわかっていても絶対に笑うという確信があるので、書いてしまった。

「「この芝居を批評しろというんですか?」
 「何かしら書くんだ……素晴らしいと思ったかどうか」
 「書けませんよ」
 「おれを阿呆だというのか?」
 「だって、生まれてから一度も劇場へ行ったことがないんです」
 「処女地だな」
 「ですが、芝居のことなんて、これっぽっちも知らないんですよ」
 「そこが良いんだ。新しい視点。旧慣にとらわれないし、紋切り型でお茶を濁すこともなしだ。うちは活きの良い新聞で、小細工の袋じゃないんだ。玄人ずれした機械的なジャーナリズムはこの会社じゃあ必要ない。それに、おれは君の優秀さを信頼してるからな――」
 「でも、僕にだって良心の呵責が――」
 彼はいきなり私をつかまえ、ドアの外に放り出した」(「劇評家悲話」より、130ページ)

「いつのまにか私は何とも言うにいいがたいやり方でお辞儀をし、古風な、うやうやしい姿勢で、彼女の手の上に身をかがめていた。気がつくと、ハッと身を起こしたが、じつにきまりが悪かった。ディーリアは不思議そうにじっと見ていた。それから仕事場で、バーナビーに質問をされてうまく答えられなかった時、私は歯に指をあてて、「神経質な仕草」を演っていることに気づいた。それから、ディーリアと些細なことで意見がちがった時、額に手を押しあてた。それから、時々社交的なつとめを、役者のように妙にもったいぶってやった。私はそんなことをしたくなかった――芝居がかった挙動がひどく馬鹿げていることを、私ほど痛感している人間はいなかった。しかし、やってしまったのだ!」(「劇評家悲話」より、134~135ページ)

 この短篇の完成度の高さは圧倒的で、読み終えてすぐに最初の一行に戻ってしまったほどだ(とはいえ、『鳥』に収められたデュ・モーリアの短篇のように、冒頭と結末に仕掛けがあるという意味ではない。あなたが慌てて冒頭に立ち返るのは、もちろん笑うためなのである)。ブルース・リーの映画を見た直後に、いつもよりちょっとだけ武闘派になっている自分の滑稽さに気づいたことのあるひとには、こんなに笑える短篇はないだろう。

「このせつは洋服屋まで、私の変調にかぶれて来ている。彼は何が似合うかということに、とくに敏感だ。この春、私は地味な灰色の背広をつくってもらおうとしたが、洋服屋はあざやかな紺の背広を私に押しつけた。おまけに、今度新調する礼服のズボンのわきに、組紐を入れたのだ。理髪師は、私の髪に「ウェーブ」をかけると言ってきかない」(「劇評家悲話」より、141ページ)

「言葉遣いとか仕草とかが伝染性のものであることを、人間は忘れてしまう」(「劇評家悲話」より、142ページ)

 直後の「失った遺産」も傑作である。「解説」に「読めば読むほど、晩年のウェルズの自画像のような気がしてきますが、これは初期の作品です」とあり、大笑いした(「解説」より、271ページ)。小金持ちになったときの伯父さんの行動は、どこまでも英雄的である。

「あの人は三十七歳になって突然、黄金の山を手に入れたんだが――その金で、たったの一日だって浮かれ騒いだりはしなかった。そんな身分になったら、誰でも、ちっとは良い服装(みなり)をしようと思うだろう――たとえばさ、ウエスト・エンドの仕立屋へ行って、ズボンを三十着もつくってもらうとかさ。ところが、伯父はそうしなかった。信じられないだろうが、あの人は死んだ時、金時計一つ持っちゃいなかったんだ。ああいう人間に金を持たせるのは間違いだと思うよ。伯父のやったことといえば、ただ家を一軒借りて、五トン近くの本とインクと紙を注文して、根のつづくかぎり夢中で啓蒙文学を書きはじめただけだった」(「失った遺産」より、147~148ページ)

 語っているのは甥なのだが、「ああいう人間に金を持たせるのは間違いだと思うよ」の一言が、すべてを表していると言えるだろう。晩年のウェルズが文明批評ばかり書きまくっていたことを思い出し、また笑ってしまう。そういえばアナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』を書いたときにも、自身の老後をほとんど意識せずに予見していたのだった。

「伯父は自分の書く物がどこか拙(まず)いことを知っていたが、自分のお頭脳(ツム)に拙いところがあるのに、ついぞ気づかなかった。悪いのはいつだって空気か、水か、標高か、なんたらかんたらなんだ。『環境によるところが大きいんだ』伯父はいつもそう言って、おれをじっと見るんだ。まるでこちらが、顔の下に薄笑いを隠していやしないかと疑ってるみたいだった。『わしのように敏感な人間は、環境に左右されるところが大きいんだ』」(「失った遺産」より、150ページ)

「あの人はいつもこんな調子で語りつづけた。諸国民とか、正義とかについて、とりとめのないことを熱に浮かされたようにしゃべりつづけるんだ。あれは一種の、聖書とヨタ話を混ぜたミンスミートみたいなものだったな」(「失った遺産」より、152ページ)

 それから、「林檎」である。これは長篇にしても良かったのでは、と思える作品で、ヘッセだったら『デミアン』のように悪魔的な作品に仕上げただろうと思う。ちょっと結末がもったいない気もするのだが、この潔い投げっぷりが心地好くもあり、なんとも言えない。

「「これは」不思議な見知らぬ男は、ごくゆっくりとしゃべった。「知恵の木の林檎だ。見てごらん――小さくて、光っていて、素晴らしい――知識だ――これを、あんたにくれてやるというんだ」
 ヒンチクリフ氏は一瞬考え込んだが、やがて、「狂人だ!」という十分な説明が脳裡に閃き、状況を明らかにした。機嫌の良い狂人だ」(「林檎」より、164ページ)

「「でも、結局のところ、それは僕が欲しがっている知識――その種類の知識じゃないかもしれない。つまり、アダムとイヴはそれをすでに食べているということです」
 「われわれはかれらの罪を受け継いでいるんだ――知識ではなく」と見知らぬ男は言った」(「林檎」より、171ページ)

 この「機嫌の良い狂人だ」という言葉は、ちょっと忘れられそうにない。

 表題作のひとつでもある「初めての飛行機」は、性格の腐った語り手がひとの迷惑を顧みずにやりたい放題する話である。これなんかは、ウッドハウスが得意とするやり口にも通じていると思う。

「わたしは操縦を習ったことはなかった――資格のある教師はみんな、とんでもない教授料を取るうえ、何カ月も先まで予約が埋まっていたのだ。しかし、わたしはそんなことでためらうような気性ではなかった! もう三日と待てなかった。わたしは母を安心させるために、教習を受けたと言った――親に心配をかけないために嘘の一つもつかなくては、孝行息子とはいえない」(「初めての飛行機」より、184ページ)

「それから、豚も殺さねばならなかった。豚どもの間に落下して飛行機の勢いをそぐか、さもなければ、全速力で進んで、その先のなまこ板を張った豚小屋に突っ込むか、二つに一つだったからだ。ああしなかったら、わたしは五体をズタズタに切り裂かれていたかもしれない。それに、豚というのはどうせ死ぬために生まれて来るのだ」(「初めての飛行機」より、194ページ)

 このクソったれめ。ちなみにこの作品には、こんな一節がある。

「あれは単葉機で、大まかにいうとブレリオ機であり、およそ考え得るかぎりもっとも高価(たか)く、小粋な七気筒四十馬力のG・K・C発動機に、G・B・Sはずみ車が付いていた」(「初めての飛行機」より、185ページ)

 もちろんギルバート・キース・チェスタトンと、ジョージ・バーナード・ショーである。「解説」では「おふざけ」と呼ばれているが、ウェルズが彼らとこんな「おふざけ」をするほど仲が良かったのかと思うと、ちょっと興味深い。それにしてもなんて柄の悪い三人組だろう。揃っている場にはぜったいに近づきたくないが、遠くから見ていたら大層おもしろそうだ。

「「僕の考えは正しい」わたしは平然とそう言って、薬草煙草の煙をフーッと吹いた。
 「少し経験を積めば、君にもわかってくるよ」ともう一人が言った。小さな灰色の顎鬚を生やした少し年嵩の男だ。
 「経験は僕に何ひとつ教えたことはない」とわたしは言った。
 「君のようすからすると、そうらしいな」誰かがそう言って、わたしからアウトを一つ奪った。わたしは顔色ひとつ変えなかった」(「小さな母、メルダーベルクに登る」より、207ページ)

「いっぺんは一列になってフンピー氷河へ向かって行く人々の上から、ピッケルを落としてしまった。ピッケルは誰からも三十インチ以上離れたところに落ちたのだが、連中の騒ぎようといったら、まるで隊全員の脳味噌をたたき出したかと思われるほどだった」(「小さな母、メルダーベルクに登る」より、210ページ)

 つづく「小さな母、メルダーベルクに登る」は、なんと「初めての飛行機」と同じ語り手が登場する話である。また出やがった! まあ、たしかに短篇一作に出したきりにしておくには惜しいキャラクターなので、気持ちはわからなくもないのだが。まさか今回南條竹則が含めなかっただけで、ほかにもあるのか……? と疑ってしまう。

「「おまえのせいで死ぬところだったと言っているよ」と母さんが教えてくれた。
 「よく言うじゃありませんか」とわたしはこたえた。「言いたいことは言わしておけ、って」」(「小さな母、メルダーベルクに登る」より、214~215ページ)

「疲れたでしょう、母さん。温かい、おいしいスープを飲んで、ベッドにもぐり込む時間ですよ。三十六時間は起こさないから、ぐっすり寝ていらっしゃい」(「小さな母、メルダーベルクに登る」より、226~227ページ)

 これは当時オックスフォード大学で流行していたらしい登山ブームを散々に皮肉った話だそうだが、こんな描写があり、はっとした。

「雪崩は見えないうちの方が、ずっと印象が深かった。頭の上でゴロゴロ鳴り、眼下の青い氷の中で途方もない響きを立てるのだが、実際に通過する時は、つまらない見世物のようだった――おおむね、わたしより小さい石ばっかりだ」(「小さな母、メルダーベルクに登る」より、215ページ)

 流行を皮肉った体ではあるけれど、これ、絶対にウェルズも登ってるでしょ、と思わずにはいられない。じっさいに登ったことがないのにこんな描写を書いたのだとしたら、たいしたものだ。実体験なしには書けない類のすばらしい描写だと思う。

 この本はもともと変なことばかりだが、マックス・ビアボウムという作家のウェルズを戯画化した作品の〈付録〉にいたって、そのおかしさは最高潮に達する。南條竹則、やりたい放題! 光文社とすばらしい関係を築いているようで、頼もしいかぎりだ。

「過去の社会学者たちは、自分の脳味噌という灰色の物質が万能だと思っていた。肉はピンクで血は赤いということを、かれらは忘れていたのだ。だから、人々を転向させることができなかったのである……」(マックス・ビアボウム「パーキンズと人類」より、242ページ)

「思うに、ウェルズのこのユーモア感覚は、彼自身の資質によるところもありましょうが、ひとつには時代の流行という側面があるでしょう。1890年代がジェローム・K・ジェロームやJ・M・バリー、バーナード・ショーの活躍した時代であることを思い出してください。それに、いわゆる“デカダン派”の作家たちの多くも、ユーモア作家の一面を濃厚に持っていました。ウェルズの論文「単一性の再発見」を絶賛したオスカー・ワイルドをはじめ、ワイルドの女友達だった“スフィンクス”ことエイダ・レヴァーソン、「ある少年の自伝」の著者G・S・ストリート、リチャード・ルガリエン、そしてマックス・ビアボウムといった人々がそれであります」(「解説」より、267~268ページ)

 マックス・ビアボウムというひと、ぜんぜん知らなかったのだが、俄然興味が湧いた。「もっともっと注目されても良い作家だと思います」という言葉を受けて(「解説」より、275ページ)、ちょっと原著で探してみたのだが、新刊では英語でもいまや数点しか手に入りそうもない。ここはぜひとも、光文社との良好な関係を駆使して、無理矢理にでも一冊翻訳してもらいたい、と思った。

 短篇集ということで、最初はリズミカルに読んでいたわけではなかったのだが、なにも考えずに読める気安さに気づいたときから、ついつい「もう一篇だけ」と、読み耽ってしまった。信頼できる翻訳者がいるというのはすばらしいものである。超楽しかった。

盗まれた細菌/初めての飛行機 (光文社古典新訳文庫)

盗まれた細菌/初めての飛行機 (光文社古典新訳文庫)

 


〈読みたくなった本〉
チャールズ・ラム『エリア随筆』
「彼女はかなり新しい考えを持った女性で――煙草はどうだね――私が人間的で個性があるといって、好いてくれた。私がラムに似ていると思っていた――きっと、どもる癖のせいだと思う」(「劇評家悲話」より、127ページ)

完訳・エリア随筆 I

完訳・エリア随筆 I

 

ジョージ・エジャートン『Keynotes』など
「ディーリアとは大英博物館でたくさん読書をした(あの大英博物館というのは、文学好きな人々にとっては申し分のないデートの場所だ――ジョージ・エジャートンやジャスティン・ハントリー・マカーシーやギッシングを読むといい)」(「劇評家悲話」より、128ページ)

Keynotes and Discords: Late Victorian and Early Modernist Women Writers

Keynotes and Discords: Late Victorian and Early Modernist Women Writers

 

ホルブルック・ジャクソン『世紀末イギリスの芸術と思想』

世紀末イギリスの芸術と思想

世紀末イギリスの芸術と思想

 

J・M・バリー『男が独身のときは』
「ある時、肺病の保養に行った先でJ・M・バリーの『男が独身のときは』という本を読み、その中の一節にハッと閃きを受けます。
 駆け出しの物書きはえてして高邁なことばかり書きたがるが、読者はそんなものを求めていない。一般大衆が面白がるのはもっと身近な題材なのだ、ということをその一節は語っていました。なるほど、もっともだと思って、その伝で書いた文章を、当時人員を一新したばかりの「ペルメル・ガゼット」誌に送ってみたところ、編集者ハリー・カストの気に入られ、書評だの短文だのの依頼が次々と来るようになりました」(「解説」より、263ページ)

When a Man's Single

When a Man's Single