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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

嘔吐

 パリのジュンク堂で定価の二倍以上の金額を出してまで手に入れた一冊。たいして厚い本でもないのに、ようやく読み終えたのは日本に帰国してからのことだった。

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

ジャン=ポール・サルトル(鈴木道彦訳)『嘔吐』人文書院、2010年。
Jean-Paul Sartre, La nausée, Édition Gallimard, Folio n°805, 1972.


 アントワーヌ・ロカンタンの名前を初めて目にしたのがいつのことだったのか、まるで思い出すことができない。雑誌かなにかだったのだろうか、どこかで、『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュと並べられていたような気がする。となると、生田耕作による評論かもしれない。なんであれ、この本はいずれ読まなければならないと常々思ってきた。パリでこの新訳を発見したときに、金額に躊躇しつつも結局購入してしまったのにはそういう理由がある。

「私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取らないし、何も与えることはない」(15ページ)

 いったいだれがロカンタンとバルダミュを並置したのかは思い出すことができないものの、その理由は冒頭に現れる一文が十分に説明してくれている。彼らは孤独なのだ。不用意に「孤独」と書いてしまうとそこに寂寥感が混ざってしまうが、彼らのそれにはもっと本質的な、厭世と呼んでもよいものが含まれている。とはいえもちろん、ロカンタンはバルダミュではなく、彼ら二人が抱える孤独も同じものではない。バルダミュがほとばしらせていた怒濤の感情(呪詛、と言い換えてもいい)を、ロカンタンのうちに見出すことはできないだろう。

「この若者たちには驚嘆する。彼らはコーヒーを飲みながら、はっきりとした、いかにも本当らしい話を物語っている。もし昨日何をしたかと訊ねられたら、彼らは戸惑うことなく、たちどころに相手にそれを知らせるだろう。私だったら口ごもってしまうところだ。たしかにずっと前から、もう誰も私の日々の暮らしを気にする者はない。独りきりの生活をしていると、物語るということさえ、どういうことなのか分からなくなる」(17ページ)

 この本は刊行者によって発見されたロカンタンの日記、という形式を採っている。日記を模した文学作品は数多いが、物語を期待して手を出すと痛い目に会うに違いない。これは哲学小説であり、描かれているのはロカンタンの思想の変遷なのだ。

「奇妙なことだ。十ページほど埋めたのに、私は真実を言わなかった――少なくとも、真実のすべてを言わなかった。日付の次に「新しいことは何もない」と書いたとき、私は後ろめたさを感じていたのだ。実は、ある小さな話、恥ずかしくもなければ異常でもない話が、現れるのを拒んでいたのである。「新しいことは何もない」。どんなに人は勝手な理屈をつけて嘘をつけるものかと思うと、私は感心してしまう。もちろん、新しいことは何も起こらなかった、と言ってもいい。つまり今朝、八時十五分に、プランタニア・ホテルを出て図書館に行こうとしたとき、私は地面に落ちている一枚の紙を拾おうとして拾えなかったのだ。それだけのことで、これは出来事とすら言えない。そう、しかし真実をすべて言ってしまえば、私はそのことに心底から動揺したのである。自分がもう自由でない、と考えたからだ」(20ページ)

「物、それが人にさわる、ということはないはずだろう。なぜなら物は生きていないから。人は物を使用し、それをまたもとに戻す。人は物にかこまれて生きている。物は役に立つ。それ以上ではない。ところが私には、物の方からさわりにくるのだ。それは耐え難い。私は物と接触するのを怖がっているのだ。まるで物が生きた動物であるかのように」(22ページ)

 ロカンタンは自らを取り巻いている沢山の物が、なんの理由もないままに存在していることに気がつく。物だけではなく自分の存在に関しても、そこに必然と呼べるような理由などなにもないことを見つけてしまうのだ。

「私の顔が映っているのだ。こんなふうに無駄に過ごした一日のあとで、しばしば私は、いつまでもこれを眺めていることがある。この顔が、私にはさっぱり理解できない。他人の顔は意味を持っているが、自分の顔はそうでない。私には、それが美しいのか醜いのかさえ決められない。たぶん醜いのだろう。人にそう言われたことがあるから。しかしそれも私にはあまり響かない。結局のところ、そんな種類の性質をこれに与えられることに、ショックを覚えるくらいだ。まるで土くれか岩の塊を美しいとか醜いとか言うように」(31ページ)

「人が生きているときには、何も起こらない。舞台装置が変わり、人びとが出たり入ったりする。それだけだ。絶対に発端のあった試しはない。日々は何の理由もなく日々につけ加えられる。これは終わることのない単調な足し算だ。ときどき、部分的な合計をして、こうつぶやく、旅を始めてから三年になる、ブーヴィルに来て三年だ、と。結末というものもない。一人の女、一人の友人、一つの町との訣別が、たった一度ですむことは絶対にない。それに、すべてが互いに似ているのだ。上海、モスクワ、アルジェは、二週間もいるとどれもこれも同じになる。ときおり――それもごく稀にだが――現在の位置を確認して、自分は一人の女と同棲しているとか、厄介な話に巻きこまれた、などと気づくことがある。それもほんの一瞬のことだ。そのあとには行列が再会し、何時間、何日、という足し算を人はふたたびやり始める。月曜、火曜、水曜。四月、五月、六月。1924年、1925年、1926年」(69ページ)

 ロカンタンの日常はロルボン侯爵という歴史上の人物の生涯を調べることに費やされている。だが、過去が存在しないという確信によってそれが頓挫すると、自らの存在意義をも同時に失ってしまうのだ。

「いったいどこに私は過去をとっておくことができようか? 過去はポケットに入らない。過去を仕舞っておくためには一軒の家を持つ必要がある。私が所有しているのは自分の肉体だけだ。まったく独りぼっちの男、ただその肉体しか持っていない男は、思い出を固定することができない。思い出は彼を通り過ぎてしまう。それを嘆くべきではないだろう。私はただ自由であることのみを欲したのだから」(111ページ)

「ロルボン氏は私の協力者だった。彼は在るために私を必要としたし、私は自分が在ることを感じないために彼を必要としていた。私は原料を提供していた。私がありあまるほど持っている原料、自分では使い道の分からない原料、つまり存在、私の存在を提供していたのだ。一方、彼の役割は演じることだった。彼は正面から私と向かい合い、彼の生涯を演じるために、私の生を捉えた。私はもう自分が存在していることに気がつかなかった。私はもはや自分のなかでは存在せず、彼のなかで存在していた。私が食べるのは彼のため、息をするのも彼のためだった。一つひとつの私の動作は、外部で、すなわちそこで、私の正面で、彼のなかで意味を持っていた。私はもう、紙の上に字を書く自分の手も、書いた文章さえも見ていなかった――ただ背後に、紙の向こうにいる侯爵を見ていた。侯爵がこの動作を要求したのであり、動作は彼の存在を延長し、それを堅固なものにしていた。私は彼を生かす手段にすぎず、彼は私の存在理由だった。彼は私を、私自身から解放してくれたのだ。では、これから私は何をするのか?」(164ページ)

 生の必然性などどこにもない。人びとがそれを知らずにいるのは、自らの果たすべきと思われる役割に囲まれているからなのだ。それらを持たないロカンタンにとって、理由はどこにもない。彼はただただ存在していたのだ。

「私は祖父でもなく、父でもなく、夫でさえなかった。投票にも行かなかった。払う税金だって申し訳程度のものだ。納税者の権利を鼻にかけることもできず、選挙民の権利も、二十年間の服従が会社員に与える信望へのささやかな権利さえも、誇ることができなかった。私には自分の存在がひどく異様になり始めていた。私は実体のない単なる仮象ではなかったろうか?」(145~146ページ)

「私は在る、私は存在する、我れ思う故に我れ在り。私は在る、なぜなら私は考えるからだ、なぜまた私は考えるのか? 私はもう考えたくない、私は在る、なぜなら私はもう在りたくないと考えているからだ」(168ページ)
「Je suis, j'existe, je pense donc je suis ; je suis parce que je pense, pourquoi est-ce que je pense ? je ne veux plus penser, je suis parce que je pense que je ne veux pas être」(原書:p.146)

 ジョルジョ・アガンベンメルヴィルの短篇「バートルビー」について書いた論文「バートルビー 偶然性について」を思い出した。彼は『ハムレット』における「To be, or not to be」を意識しながら、「デンマークの王子の警句は、存在することと存在しないことのあいだの二者択一においてあらゆる問題を解決するものだが、筆生の定式は、この警句に対して、その二項を超越する第三項を立てる」と書いていたではないか。さらには、「存在することができるとともに存在しないことができる存在は、第一哲学においては、偶然的なもの、と呼ばれる。バートルビーが冒す実験は、絶対的偶然性の実験である」とも。今ではこの文章のことが理解できる。バートルビーは存在しないことのできない必然的なものに背を向け、存在しないことができるという偶然性を復権させようとしていたのだ。ロカンタンを取り巻く存在には、必然的な要素などどこにもない。「バートルビー」(というよりアガンベン)の論旨と『嘔吐』のそれはとても似ているように思える。

「私は存在する権利を持つ、故に私は考えない権利を持っている」(169ページ)

「火曜日
 書くことは何もない。存在した」(171ページ)

 この小説の登場人物は決して多くないが、だれもが強烈な個性を放っている。なかでも図書館の閲覧室でロカンタンと時間を共にする男、独学者のことを無視するわけにはいかない。彼はAではじまる著者から順番に、図書館の蔵書を端から読みすすめているのだ。

「私は一種の感嘆の念を覚えながら、彼を見つめた。かくも広大な規模の計画をゆっくりと執拗に実現するためには、どれほどの意志が必要であろうか? 七年前のある日(彼は七年前から勉強していると私に語っていた)、彼は意気揚々とこの読書室に入って来たのだ。壁を飾る無数の本に視線を走らせて、ほぼラスティニャックのようにつぶやいたに違いない、「さあ、お前と一騎打ちだ、人類の学問よ」と。それから一番右側の最初の書棚にある最初の本を取りに行った。不動の決意に、尊敬と畏怖の感情を交えながら、彼はその本の第一ページを開いた。現在の彼はLまで来ている。JのあとがK、KのあとがLだ。彼は甲虫目の研究から一足飛びに量子論の研究に移り、ティムールにかんする著書から、ダーウィニズムを攻撃するカトリックのパンフレットに移行した。一瞬たりともまごつかなかった。彼はすべてを読んだ。単為生殖について知られていることの半分を頭に蓄積し、生体解剖を非難する論拠の半分をためこんだ。彼の背後に、彼の前方に、ひとつの宇宙がある。そして彼が、一番左の最後の本棚にある最後の本を閉じながら、「さて、それで?」とつぶやく日は近づいているのである」(53~54ページ)

「二人なら、ことによるとこの一日を乗りきるのも容易かもしれない。もっとも独学者とでは、ただ二人に見えるだけの話である」(128ページ)

 さらに、ロカンタンの昔の恋人アニーも強烈である。彼女は「完璧な瞬間」を作るという観念にとらわれた女だったが、その不可能性を知った今となっては、ひたすら余生を送っている。余生を送ることに生を捧げる、というのはいかにも奇妙な響きだが、アニーに対してはぴったりと当てはまるように思える。

「あなたはあたしにとって、なくてはならないの。あたしは変わる。あなたは決して変わらないことになっているの。あたしは自分がどれだけ変わったかを、あなたとの関係で測定するのよ」(239ページ)

「私は単に彼女と別れるので打ちひしがれているのではない。ふたたび孤独に戻るのが、ぞっとするほど怖いのだ」(257ページ)

 ロカンタンが感じる「吐き気」は、なにも自らの存在の偶然性のみに根ざしているわけではない。それに気づかぬ「下種ども」や、短絡的なヒューマニストたちへの諦めも推進力となっているのだ。安易な命名やなんとか主義への矮小化に対する批判、サルトル自身が「実存主義」の旗手として知られる人物だけに、読んでいて意外に思える部分も少なくなかった。

「彼らは新しいことを昔のことで説明する――そして昔のことは、それよりさらに昔の出来事で説明する。ちょうど、レーニンをロシアのロベスピエールに、ロベスピエールをフランスのクロムウェルにする歴史家のようなものだ。結局のところ、彼らは何一つまったく理解したことがなかった……。勿体ぶった彼らの態度の裏に、もの悲しい怠惰さが見てとれる。彼らは次々と実態のない仮象が過ぎていくのを見ている。そして欠伸をしながら考える、この世に新しいものは何一つない、と。「気がふれた爺さんだよ」――あのときロジェ医師はぼんやりと、気がふれたほかの爺さんのことを考えていたのだが、そのなかの誰一人として個別に思い出せるわけではない。今になれば、アシル氏が何をやっても、私たちは驚かないだろう。何しろ、彼は気がふれた爺さんなのだから」(117~118ページ)

「物はそこにある、グロテスクな、頑固な、巨大な物が。それを座席と呼んだり、それについて何かを言ったりするのは、愚かなことに見える。私は名づけようのない<物>に囲まれているのだ」(209ページ)

 そして独学者が自らをヒューマニストであると告白したときの回想は、「主義(-isme)」という語が根本的に抱える矛盾を極めて明確にしている。とはいえこれをもとに、あらゆる「主義」を批判している、と言うことが許されるのかはわからない。「実存主義(existentialisme)」に関してはその限りではないのかもしれないし、単に「ヒューマニズム(humanisme)」を叩いていると読んだほうが素直なのだろう。だがヒューマニズムを攻撃する口調がどんな「主義」にも援用されうることを、サルトルが気づいていないとも思いにくい。

カトリックヒューマニストは遅れてやって来た末っ子で、素晴らしい態度で人間のことを語る。彼は言う、何と美しいお伽噺でしょう、この上もなく貧しい生活、ロンドンの港湾労働者や、半長靴を縫う女子工員たちの生活は! と。彼は天使たちのヒューマニズムを選んだのだ。彼は天使たちの教育のために、悲しくも美しい小説を書き、それはしばしばフェミナ賞を獲得する」(195ページ)

「私は自分が「アンチヒューマニスト」であるなどと言う愚は犯さないだろう。私はヒューマニストではない、それだけの話だ」(198ページ)

 ロカンタンの視座から見る世界は、なにもかもグロテスクだ。世界がこうとしか映らないのならば、「吐き気」が起こるのも仕方のないこととさえ思える。

「カフェは人でいっぱいである。タバコの煙と、湿気を含んだ衣類から発散される水蒸気のために、室内の空気は青く見える。レジ係の女がカウンターにいる。私は彼女をよく知っている。私と同じ赤毛だ。内蔵に病気を持っている。腐乱する肉体からときおり発散する菫のような匂いにも似た憂鬱な微笑を浮かべながら、彼女は静かにスカートのなかで腐っていくのだ」(95ページ)

「「鉄道員の溜まり場」で夕食をした。マダムがいたので、彼女と寝なければならなかったが、それはまったく儀礼的なことだった。彼女には少し嫌悪感を覚える。肌が白すぎるし、それに赤ん坊のような匂いがするのだ。彼女は興奮のあまり、私の顔を自分の胸に抱き締めた。これが作法だと思っているのだ。私の方は毛布の下で、何となく彼女のセックスをいつまでももてあそんでいた。それから、腕が痺れてしまった」(101ページ)

 訳者が「あとがき」でも書いているとおり、この本の原題(La nausée)の訳語には「嘔吐」よりも「吐き気」のほうが相応しい。「嘔吐」となると吐くことそのものとなってしまい、それをフランス語で表したいのなら「vomissement」というまた別の単語があるのだ。とはいえ「吐き気」という言葉をタイトルにしたくないのも理解できるし、「nausée」に秘められる嫌悪感や気持ちの悪さは「嘔吐」という日本語からも十分に伝わる。肝心なのは、この気持ちの悪さだ。

「違う、彼女のこれほどまで苦しむ力は、彼女のなかから汲み出されたのではない。それは外部から来たのだ……この大通りからだ。彼女の両肩をとらえて、光の方へ、穏やかな薔薇色の街に住む人びとのあいだへと、連れて行く必要があるだろう。あそこでは、誰もこれほど激しく苦しむことはできない。彼女も柔らかくなり、前向きの態度と、彼女の普通のレベルの苦しみをふたたび見出すだろう」(49ページ)

「この男には、一つの観念のような単純さがあった。彼のなかに残っているのは、もはや骨と死んだ肉と<純粋権利>のみだった。これこそ正真正銘の取り憑かれたケースだ、と私は考えた。<権利>がいったん人間を捉えると、どんな悪魔祓いもそれを追放することができない」(149ページ)

 存在が必然ではないことを知ったロカンタンは「吐き気」とともに生きる。その原因となるのは、人を含めたおびただしい量の「物」だ。

「私はもうしゃべることができない。私は頷く。独学者の顔は、私の顔のすぐそばだ。得々として、顔すれすれのところで薄笑いを浮かべている。まるで悪夢のようだ。私はやっとの思いでひと切れのパンを噛んでいるが、それを呑みこむ決心がつかない。人間。人間を愛さなければならない。人間は素晴らしい。私は吐きたい――そして一気にあれがやって来た、<吐き気>が」(204ページ)

「彼らは、私も自分たちと同じ人間だと思っていた。そしてまんまと欺かれた。私はとつぜん人間の外観を失った。そして彼らは一匹の蟹が、人間味にあふれるこの室内から後ずさりで逃げていくのを見た」(207ページ)

 存在するということそれ自体の気持ちの悪さが、ロカンタンに「吐き気」を催させていたのだった。なにも自分の存在だけではなく、他の存在も同様である。視界に飛びこんでくるすべてのものが、使命もなにも持たずにただ存在していたのだった。

「私は非存在とこの痺れるほどの豊富さとのあいだに、中間などあり得ないことを理解した。もしも存在するのだったら、そこまで存在する必要があった、黴が生えるまで、膨れ上がるまで、猥褻と言えるまで存在するのだ」(213ページ)

「私たちの誰にも、そこにいる理由などこれっぱかりもなかった。存在者の一人ひとりが恐縮して、漠とした不安を抱えながら、他のものに対して自分を余計なものと感じていた。余計だということ。これこそ私が、木々や鉄柵や砂利のあいだに確立することのできた唯一の関係だった」(214ページ)

 レーモン・ラディゲが『肉体の悪魔』のなかでこんなことを書いていたのを思い出す。「生きることができないのと同じく死ぬこともできず、慈悲深い殺人者が来てくれればいいと思っていた」。ラディゲの言葉は恋愛に対する絶望から発せられたものだが、ロカンタンの発見は生に対する絶望から来ている。それを絶望と呼ぶことができるのかどうかも疑わしい。絶望が希望に先立つというのも奇妙な話だからだ。

「木は、存在したいとは思っていなかった。ただ、存在をやめるわけにいかなかったのだ。それだけの話である。そこで木はそっと、大して気乗りもせずに、さまざまな小細工を弄した。樹液は心ならずもゆっくりと道管を通って上って行ったし、根はゆっくりと大地に食いこんで行った。しかし木は絶えず、何もかもすぐにほったらかして、消滅しそうに見えた。疲れて老いた木は、不承不承に存在を続けていたが、それは単に死ぬには弱すぎたからであり、死は外部からしか来られないためだ」(222ページ)

 この本を書いた当時のサルトルプルーストから受けていた影響は、巻末の一文からも見てとれる。というよりも、訳者が鈴木道彦なので、個人的にはプルースト的なものをまったく感じないままに読むことなどできなかった。ロカンタンがカフェで耳を傾けるジャズが、スワンとオデットの関係におけるヴァントゥイユのソナタに重なるかどうかはともかく、音楽の刺激から小説へ、という図式はたしかにプルーストを思い出させる。

「私も試みることができないだろうか……もちろんそれは音楽の調べではないだろう……そうではなく、別のジャンルで試みることはできないだろうか?……それは一冊の書物でなければなるまい。私にはほかに何もできないからだ。しかし、歴史の書物ではない。歴史、これは存在したものについて語る――しかし存在者は絶対に、他の存在者の存在を正当化できない。私の誤りはロルボン氏を蘇らせようとしたことだ。ほかの種類の本。どんな種類かは判然としない――しかし印刷された言葉の背後に、ページの背後に、存在しない何か、存在を越える何かを見抜くようなものであるべきだろう。たとえば、起こり得ないような物語、一つの冒険だ。それは鋼鉄のように美しく、また硬く、人びとに存在を恥ずかしく思わせるものでなければなるまい」(296ページ)

 今さらながら、一読しただけで感想を書ける類の本ではなかった。時間をおいてから、もう一度手に取ってみたいと思う。セリーヌアガンベンを読み返したくもなった。カミュとの論争も見てみたい。キルケゴールも読みたくなった。

「私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない」(262ページ)

 文学と呼ぶには哲学の要素が濃すぎ、哲学と呼ぶにはあまりに文学的である。何年か寝かせておきたい。

嘔吐 新訳

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La Nausee

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<読みたくなった本>
サルトル『言葉』

言葉

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サルトル実存主義とは何か』

実存主義とは何か

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サルトル『家の馬鹿息子』

家の馬鹿息子 1―ギュスターヴ・フローベール論(1821ー1857)

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家(うち)の馬鹿息子―ギュスターヴ・フローベール論〈2〉

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家の馬鹿息子〈3〉ギュスターヴ・フローベール論(1821年より1857年まで)

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サルトルカミュ『革命か反抗か』

革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

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キルケゴール死に至る病

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

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デカルト方法序説

方法序説 (ちくま学芸文庫)

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スタンダール『パルムの僧院』
「私は閲覧室に入って、机の上の『パルムの僧院』を取り上げた。読書に没頭して、スタンダールの明るいイタリアに避難所を見出そうと試みたのだ。ときおり思い出したようにそれに成功したが、幻想は長続きせず、やがて私はふたたび脅威をはらんだこの一日のなかに落ちこむのだった」(136ページ)

パルムの僧院〈上〉 (岩波文庫)

パルムの僧院〈上〉 (岩波文庫)

 

ラシーヌ『ブリタニキュス』
「「そうなのよ。『ブリタニキュス』をやったの。そのために、あたしはあの劇場をやめることになったんだけれど。『ブリタニキュス』を上演するアイディアを出したのはあたしなの。でも、あの連中はあたしにジュニーの役をやらせたがったの」
 「それで?」
 「つまり、あたしはもちろんアグリピーヌ役しかできなかったのよ」」(232ページ)

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

 

ジッド、ディドロ、ボードレール
「図書館では、いくつかの書物に赤い十字のマークがついている。禁書のしるしだ。ジッド、ディドロ、ボードレールの著作、医学概論などがそれである」(272ページ)

ジャン・コクトー『ポトマック』
「私は二つの町のあいだにいるのだ。一方はまだ私を知らず、他方はもう私のことを憶えていない町である」(282ページ)

ポトマック―渋澤龍彦コレクション   河出文庫

ポトマック―渋澤龍彦コレクション   河出文庫

 

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
「芸術から慰めを引き出そうとする馬鹿者がいる。ビジョワ叔母のように。「お前の叔父さんが亡くなったとき、ショパンのプレリュードはあたしにとって、とても救いになったのよ」。コンサートのホールは、辱められた者、傷ついた者で溢れている。彼らは目を閉じ、蒼白い顔を受信アンテナに変えようと努めている。とらえた音が、優しく滋養豊かに自分たちの内部に流れこみ、若きウェルテルの苦悩のように、自分たちの苦悩が音楽になるだろうと想像しているのだ。美が彼らに同情すると思っているのだ。間抜けな奴らめ」(289ページ)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

 

アンドレ・マルロー
サルトルとほぼ同時代の作家で、いち早く「冒険」を主題に作品を書いたのは、アンドレ・マルローである。サルトルが、この物語の始まる前のロカンタンの長い放浪生活をマルローに重ね合わせていたことは、容易に推察できる。そこには『王道』や『征服者』といった作品ともに、マルロー自身の行動も意識されていただろう。しかし、この二人の作家にとって「冒険」の捉え方はまったく異なるものだった」(「あとがき」より、328ページ)

王道 (講談社文芸文庫)

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