読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

気になる部分

 ルクレティウスや、ほかの大部な本を読みながら、読書に疲れたときに読んでいた本。先日家に遊びにきた友人が本の山から見つけ出してくれたので、読みなおしてみた。

気になる部分 (白水uブックス)

気になる部分 (白水uブックス)

 

岸本佐知子『気になる部分』白水uブックス、2006年。


 まったくもって、彼女がニコルソン・ベイカーの翻訳者であるというのは奇跡のような組み合わせだと思える。このエッセイで追い求められているのはどうしようもないほどの細部で、そういった今まで文字化されたことのなかった対象がわざわざ描かれることで、なにか独特の雰囲気を生み出されているのだ。

「胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのだが、それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。あれがひどく気になる。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、いつももどかしく思う。どうやら風邪薬でも喉の薬でも湿布でも、薬関係のコマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようだ。いったい何を彼らは恐れているのか。全部きれいになくしてしまうと、「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるのだろうか。たぶんいるんだろう、私のようなのが」(「続・私の考え」より、57ページ)

「昔から、どうでもいい「部分」ばかりが気になった。そして部分に気を取られて全体が見えなくなることがしばしばだった。たとえばトラックの車輪の後ろにぶら下がっている、あのビラビラしたもの。あれを描きたさにトラックの絵を好んで描き、ぞんざいに描いた本体に、不釣り合いに大きくて立派なビラビラをつけ、きっちりロゴまで描きこんだような絵を何枚も何枚も描き、親を不安におとしいれた」(「気になる部分」より、91~92ページ)

 先日『短歌の友人』を読んでから、細部に宿るリアリティというものに、ただならぬ関心を寄せている。思えばフランドル派の絵画も、細密描写によってリアリティを獲得していたのだけれど、文学の場合、大きいほうの枠がなくても、細部さえあればその情景を思い浮かべることができるのだ。漠然とした映画のセットめいたありきたりな風景よりも、むしろたったひとつの細部が、全体をくっきりと浮かびあがらせることも多い。この人もまた、細部を追う人だ。

「以前から、塔に住んでみたいという願望が私にはあった。なぜかはわからない。ただ、高い塔のてっぺんで孤独に暮らすことを思うだけで、もうどうしようもなく足がむずむずしてくるのだ。できれば海を見おろす断崖に建つ塔がいい。家具は小さな机とベッドだけ。誰も来ないし、電話もない。そんな場所で朝から晩まで仕事をする。原稿は伝書バトで送る」(「ラプンツェル未遂事件」より、25ページ)
 
 最後の一文がいい。「原稿は伝書バトで送る」。この一文があるのとないのとでは、全体の印象がまったくちがって見えることだろう。その「願望」がどんなに強いものだったかが、この一文で現実味を帯びる。とはいえ、細部を求める姿勢はすばらしいものの、この著者はときどき、笑いを膨らませようとしすぎて、すべる。ちょうど『夜想曲集』カズオ・イシグロのように。

「私も最初から数学がまるでだめだったわけではない。すくなくとも「さんすう」の段階までは、まだ何とか息があった。テストでも、単純な計算問題の部分はむしろ解くのが楽しかった。が、これが設問形式となると、もういけなかった。たとえば「ある人が、くだもの屋さんで20円のリンゴを7こ買おうとしたら、10円たりませんでした。その人はいくら持っていたでしょうか」というような問題があったとすると、私はその“ある人”のことがひどく気の毒になりはじめるのである。この人はもしかして貧乏なのだろうか。家にそれしかお金がなかったのだろうか。リンゴが7個買えないとわかった時に“ある人”が受けたであろう衝撃と悲しみは、いかばかりだったであろうか――。どうかすると、同情が淡い恋心に変わってしまうことさえあり、(“ある人”ったら、うふふ……)などと思いを馳せているうちに、「はい、鉛筆おいてー」という先生の声が響きわたってしまうのだった」(「空即是空」より、9~10ページ)

 それから、細部を求めすぎて、話題が内輪ネタぎりぎりになってしまっているものも多い。「ある、ある」と思わせてこそ笑いがとれる文章で、これはかなり危険な賭けなのではないか、と不安になってしまう。共感できればこんなにおもしろいものはないのだが、それは正直、本という媒体をとる必要を感じさせない。以下は自分が手を叩いて笑い、その直後に、関西の人が読んだらどうなるんだ、と不安になったもの。

「バス停に置いてある椅子も私の恐れるものの一つだ。一人掛けの椅子の骨組みをつ並べて板を打ちつけた、あの廃物利用っぽいやつだ。書かれている文字がなぜか必ず「桐タンス更生」なのが不気味だ。一見素朴で手作り感覚なわりには、関東一円をほぼ手中に収めており、その底知れぬ野望に戦慄を禁じえない。だいいち、世の中に桐タンスの更生を必要としている人がそんなにたくさんいるのだろうか。日本中の桐タンスの総数よりも、あの椅子の数のほうが多いのではあるまいか。もしかして、変わり者の老人がこつこつと一人で作っては、夜中にそっとバス停に置いてまわっているのだろうか。それとも何か秘密の地下組織だろうか。いちど椅子に書いてある電話番号にかけてみようと思っているのだが、今はまだその勇気がない」(「オオカミなんかこわくない」より、29~30ページ)

「物心ついたときからつい最近まで、Oという私鉄を利用していた。このO線が、殺人的に混むのである。高校の頃、ユダヤ人がアウシュビッツに輸送されたときの貨物列車の惨状というのを何かで読んだときに、「これはO線よりもひどい」と思ったのを覚えているが、そういう比較がごく自然に成り立ってしまうくらいに混む。メガネは割れ、服は裂け、カバンの把手はちぎれ、握り飯は圧縮されておはぎと化す。そんなゲルニカというか、阿鼻叫喚というか、壮絶な光景を白地に青ストライプのさわやかな車体に包んで走る箱、それがO線である」(「キテレツさん達」より、51ページ)

 細部やユーモアという点から、向田邦子を思い出すことが何度もあったのだけれど、彼女が書いたもののように、文化史の参考文献としても読めるような汎用性が五十年後に付随しているとは思えなかった。どうなのだろう。同時代人を笑わせることだけを目的に書かれているのだとしたら、そもそもこんなことを考えても仕方がないのだけれど、なんらかの著作を書くときは、何十年も残ってほしいと考えるのがふつうなのではないのだろうか。ところどころ、惜しい、と思った。

 言葉に関する記述も多く、これはとてもおもしろかった。ここでもやはり、問題となっているのは細部だ。

「“根掘り葉掘り”の“根掘り”はともかく、“葉掘り”って何なのだ? それを言うなら“夕焼け小焼け”の“小焼け”とは、いったい何が焼けているのか? “首の皮一枚でつながっている”って、それってすでに死んでいるのでは?」(「シュワルツェネッガー問題」より、37ページ)

「ある日、打ち合わせをしていて私がしゃべっている最中、ふいにヨコスカさんが「あっ」と叫んで立ち上がった。どうしたのかと訊ねると、自分は“さりとて”という言葉に異常に感じやすいのだと答えた。「すみませんがもう一度言っていただけませんか」と懇願するので、サービスで続けて五回ほど言ってあげると、床をのたうち回って身悶えした。その後の検査で“すべからく”“いわんや”“けだし”などにも陽性の反応を示すことがわかった」(「ヨコスカさんのこと」より、67ページ)

 後者のこれ、すごくよくわかる。“なかんずく”も、だろうな。

「面白いもので、何千回、何万回と同じ辞書を引いていると、何となくよく目が合うというか、会話は交わしたことはないけれども互いに顔見知り、といった感じの単語がいくつかできてくる」(「『リーダーズ』のお叱り」より、169ページ)

 これも、とてもよくわかる。つい先日まで毎日フランス語の辞書を引いていたし、電子辞書を買ってからも、辞書は紙のほうが好きだ。

 それから、現代を代表する翻訳者の感覚に「わかる!」などと言うのはあまりにもおこがましいと思えるのだが、以下のものも。

「つね日ごろ英語で書かれた文章と向き合って、言語の違いと文化の違いという薄いヴェール越しに、なんとかそこに表現されているものを感覚としてとらえようと四苦八苦しているせいなのだろうか。仕事と関係なく日本語の本を読んでいても、いつの間にか“もし自分が日本語以外の言葉を母国語としている翻訳者で、今読んでいるこの文章を訳すとしたら”という視点で読んでいる自分に気がつくのである。はっきり言って邪道である。私だってこんな読み方はしたくない。せっかく楽しんで読もうと思っていても、頭の中で何人もの邪念の小人たちが「こんな造語、辞書に載っていないだろうなあ」とか「わあ、CMソングのパロディか。こういうのがいちばん困る」とか「こんなでたらめな文法、日本人でもわからないぞ」などと勝手に苦悩しだして、うるさいことこの上ない」(「キノコの名前」より、159~160ページ)

 厳密には方向性が逆なのだが、日本語の文章を読んでいるときに、「原文はどうなっているんだろう?」と考える癖がついてしまったのだ。先日、倉橋由美子『聖少女』を読んでいたときにも、この疑問が浮かんできて、自分のあまりの倒錯ぶりに驚いた。翻訳文学ばかり読んでいて、同じような感覚に悩んだことのあるかたはいませんか?

 でも、これも普段は言葉にされることのない感覚だろう。この本は、かつて言語化されたことのない物や感覚で溢れているのだ。これは、価値である。

「考えてみれば、市井の人々が自分の願望をおおっぴらに表明し、あまつさえそれを他人が自由に閲覧できる機会は、そうめったにあるものではない。年に一度、人々の願い事をたわわに実らせた欲望の木が一日だけ出現する、そんな奇妙な国に生まれてよかった。
 Oさんいわく、神社の絵馬鑑賞も「けっこういける」のだそうである」(「星に願いを」より、44ページ)

 細部が気になって仕方のない人はぜひ。「わかる、わかる」と手を叩いて読める、笑いの絶えない一冊です。

気になる部分 (白水uブックス)

気になる部分 (白水uブックス)