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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

3冊で広げる世界:大人が読む児童文学

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 児童文学というのは、文学史的にはかなり近代的な分野である。フィリップ・アリエスなんかの研究に詳しいとおり、そもそもの《子ども》という概念は、歴史学の観点から溯ってようやく17世紀ごろに誕生したものであり、それまで彼らは、江國香織の表現を借りれば、単なる「小さいひと」だった(江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』新潮文庫、1997年)。児童文学の書き手として最初に揺るぎない地位を獲得したのは、19世紀のアンデルセンがはじめてなのではないか、と思うほどである。文学史の最初の地点のひとつであるホメロスの作品が紀元前800年ごろに書かれていることを思えば、19世紀なんてほんの一昔前、という気までしてくる。


 もちろん、アンデルセンより以前にイソップ童話やグリム童話なども存在するが、これは巌谷國士が言うところの「メルヘン(おとぎばなし)」であって、近代的な意味での《子ども》を読者に想定して書かれたものではない(巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』ちくま学芸文庫、2002年)。「ほんとうは怖いグリム童話」などという本が巷には出回っているが、そもそも子どものために書かれたわけではないのだから、ちょっとばかり怖い部分があるのは当然である。ペローの一部の童話なんて、澁澤龍彦が訳しているせいもあって、とても子どもには与えられない代物だったりする(シャルル・ペロー(澁澤龍彦訳)『長靴を履いた猫』河出文庫、1988年)。

 とはいえ、児童文学だのSFだのミステリーだの、そもそも文学をジャンル分けしようという考え方自体が限界のあるものなので、ここでは深く考えず、一足飛びに本題に移ろう。20世紀において、この児童文学という分野は、その言葉の意味を大きく減少させた。子どもだけに読ませておくにはあまりにももったいない、すばらしい作品がたくさん、たっくさん書かれたのである。

 その開花の舞台のひとつとなったのが、ドイツである。現代に生きるドイツの子どもたちは幸福だ。彼らは生まれたときから、史上最高峰の文学作品に取り囲まれているのだから。ドイツの大人たちはもっと幸福だ。子どもたちに読ませるというきっかけとともに、これらの作品に触れることができるのだから。でも、日本のわれわれだって負けてはいない。世界屈指の翻訳大国に生まれついたことを喜ぼう。われわれはこれら史上最高の児童文学を、駅前でふらりと立ち寄った本屋さんで買える立場にいる。わたしが特に好きなのは、以下の3冊である。

エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』
ミヒャエル・エンデ『モモ』
ジェイムス・クリュス『笑いを売った少年』

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

 
モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

  
笑いを売った少年

笑いを売った少年

 

 ケストナー、エンデ、クリュスのことを「ドイツ三大児童文学作家」と呼んだのは、もちろんわたしではない。クリュスの本を読んだときに覚えたにちがいない。このなかではクリュスだけが日本ではあまり知られていないので、この言葉によって彼の重要さを知らしめることができるからだ。いちばん有名なのはエンデだろう。映画『ネバー・エンディング・ストーリー』の原作者、と言えば、普段まったく本を読まないひとだって頷いてくれると思う。

 彼らの作品に共通しているのは、大人になってから読みたい、ということ。

 さきほどフィリップ・アリエスの名前を出してまで《子ども》という概念が真新しいものであることを書いたけれど、ならばその対義語としての《大人》だって、真新しいものであるはずなのだ。じゃあ、《大人》ってなによ? という話になる。ケストナーの答えはいたってシンプルだ。つまり、そんなものは存在しない。われわれは「いつまでも子ども」なのである。

 物心ついて分別の備わったふりをしているわれわれが「もう大人なんだから」といって忘れかけているもののことを、これらの作家たちは、容赦なく暴き立てる。友だち、時間、笑顔。お金を稼いで、すこしでも良い暮らしを送るために走りまわるよりも、もっと楽しく、もっと豊かに過ごす方法を、かつてわれわれが知っていたことを、思い出させてくれるのだ。

「金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら相手にしない」(『飛ぶ教室』160ページ)

「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ」(『モモ』236ページ)

 もしもあなたが、これら3冊のうちの1冊も読んだことのない幸福なひとであるのなら、まずは『飛ぶ教室』を読んでみることをおすすめする。幸福な、と書いたのは、これから初めてこれらの本を読むことができるなんて、幸福以外のなにものでもないからだ。わたしは『飛ぶ教室』を、2006年に初めて手にとって以来、少なくとももう3回は読み返していて、そのたびに信じがたいほどの満足を得てきたのだが、それでもなお、もう二度と『飛ぶ教室』を初めて手に取ることができない、という事実に悲しみを覚える。

「禁煙さん――みんなはそう呼んでいたけれど、本当の名前はまったく知らなかった。タバコを吸わないから、禁煙さんと呼ぶことにしたわけじゃない。それどころか、ヘビー・スモーカーだった。みんなはその人のところへよく遊びにいった。こっそり遊びにいくのだが、その人のことが好きだった。舎監のヨハン・ベーク先生とおなじくらい好きだった。ということは、大好きだった。
 禁煙さんと呼ぶことにしたのは、お払い箱になった客車が市民菜園に置かれていて、その客車に夏も冬も住んでいたからだ。二等の禁煙席車両だった。その人は一年前、この市民菜園に越してきたとき、ドイツ帝国鉄道から180マルクで買い取り、ちょっと改造して、住むようになった。「禁煙車」と書いた小さな白いプレートは外さずくっついたままだ」(『飛ぶ教室』45~46ページ)

「「こんなことを運命が許すとはな。お金がないと、どんなにひどい思いをするのか、まだあんなに小さいのに思い知ることになるんだから。親がこんなに無能で、こんなに貧乏なのを、どうか責めないでほしい」
 「馬鹿なこと言わないで」と、妻が言った。「なんでまたそんなふうに考えるの? マルティンはまだ小さいけど、有能であることとお金持ちであることがおなじじゃないことくらい、ちゃんとわかってるわよ」」(『飛ぶ教室』201ページ)

 ケストナーのすばらしい特徴のひとつとして、彼は魔法や悪魔といった超現実的なものを一切持ち込まないのだ。反面、エンデにもクリュスにも、こういった非日常的なものや連中は頻出する。それが物語を損なうわけではもちろんないし、むしろエンデほど効果的にこういったものを利用する作家もなかなかいないのだが、ケストナーを読んでいても、児童文学を読んでいると意識することはほとんどないと思うのだ。今回紹介している丘沢静也の訳書は、そもそも子どもを読者に想定していないので、なおのこと。最初の1冊として強く薦める理由のひとつである。

 エンデについては、有名な作家・作品だし、多くを語るつもりはない。子どものころに読んだ、というひとが、再読するきっかけになればいいな、と思っている。また、彼にはあまり知られていないたくさんの「大人向けの作品」があるので、『モモ』再読をきっかけにそういった本にまで手を伸ばしてもらえたら、ちょっと嬉しい。

 クリュスについては単行本だし、正直なところ多くのひとの手に渡るとは考えていない。でも、ケストナーとエンデをあなたがすでに読んでいるのなら、迷わず手にとってみてほしい。昔、これを刊行した未知谷という出版社の方と、ちょっとお話をする幸運に恵まれたのだが、この本の刊行についてその方は、憤りをあらわに語ってくれた。じつは、かつてもこの本には翻訳があったのである。でも、それを刊行していた大手出版社の都合で絶版となり、結果として日本ではクリュスという作家自体が忘れ去られてしまい、子どもたちが手に取るということもなくなってしまった。この復刊は、そんな大人の都合に対する異議申し立てなのだ。すでにケストナーやエンデを読んでいるあなたにこそ、クリュスのことを広めていってほしい。

 ケストナーは自作について、こんなふうに語っている。「8歳から80歳までの子どもたちへ」。この3冊を評するのに、これほどうってつけの言葉もないと思う。

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

 
モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

  
笑いを売った少年

笑いを売った少年