やがて秋茄子へと到る
まだ一冊あった。以前一読しておいて、そのまま感想を書いていなかった歌集。これの感想を書けずにいたのは、ひとに薦められた本だったからだ。わたしは性格が悪いので、ひとに薦められても、おいそれとすぐにその本を買ったりはしない。このときもそうで、友人が絶賛しているのを聞いてから、こっそりひとり書店の棚に戻って、そして初めて開いてみたのだ。そのときたまたま開いたページに書かれていた歌をいまでも忘れていない。その歌を目にした瞬間、手のなかの一冊を自分の所有物とすべく、レジへと直行したのだった。それはこんな歌だった。
ロシアなら夢の焚き付けにするような小さな椅子を君が壊した(201ページ)
歌集を編むということには十年単位の年月を要するのが当たり前であるのに対して、それを読むということには、ちょっと不敬とさえ思えてくるほどに、時間がかからない。読みはじめて、ああ、すばらしい歌集だった、と本棚にしまうまで、一週間かかることなんてほとんどない。でも、この歌集に関しては、いつまでも本棚に定位置を得ることがないまま、一年以上も経ってしまっていた。いつも部屋のなかの変なところに転がっているので、たまに見つけて開いては、また変なところに置き忘れておく。それを繰り返したい衝動に駆られるたぐいの歌集なのだ。友人が絶賛していたので、ならば絶賛したくはない、という天邪鬼精神も働き(わたしはとことん性格が悪い)、感想を書けずにいた。でもいま、ようやくこの本を絶賛する準備ができたように思う。
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年。
穂村弘が『短歌ください』のなかで採りあげていたような多くの歌とは徹底的に異なり、一首の情報量が多く、読むのに時間がかかる。一ページにつき一首のみ、という贅沢な構成も、読者が一首と向き合う時間を効果的に長くしてくれているように思う。読むのに時間がかかる歌集というのは、うれしいものだ。一首読むごとにページから顔をあげ、読んだばかりのことが作り出すイメージに身を委ねる時間。発見だけを詠った短歌には、その時間がない。散文で言うなら、上下巻編成の緻密な長編小説と、通勤電車で読むのにうってつけの気軽なエッセイくらいにちがう。
砂浜を歩き海から目に届く光のためにおじぎを交わす(19ページ)
生きながらささやきながら栗を剝く僕らは最大限にかしこく(33ページ)
きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く(41ページ)
光から雨がこぼれる昼過ぎの風鈴市へ急ぐ主婦たち(46ページ)
終わらせるべきであるのに冬夜の膝の冷たいことを話して(55ページ)
冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさを分けていく細い滝(96ページ)
上にあげた歌の「生きながらささやきながら」という表現がすでにすべてを語っているが、このひとの歌は徹底的に静かである。例えるなら、須賀敦子のような静けさ。感嘆符のない世界。口語短歌であるとはいえ、鉤括弧や会話は一切登場してこない。たった三十一文字の定型詩に文体を感じられるというのは驚くべきことだ。以下の歌なんて、もはや静物画に近い。
前籠に午後の淡雪いっぱいに詰め込んだまま朽ちる自転車(51ページ)
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち(63ページ)
僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る(137ページ)
見上げると少し悲しい顔をして心の中で壊れたらくだ(187ページ)
誰か何かを言い出す前の沈黙の広場の深い深い微笑み(195ページ)
百万枚のクリアファイルに満たされた冬の泉へ僕は近づく(196ページ)
あれは遠くで壊れてしまった日曜日、陽にさらされた春画のさくら(221ページ)
巻末には1983年生まれ、とあるので、1986年生まれのわたしと、たった三歳しか変わらない。それなのに、このひとは実年齢以上に歳を重ねているような感覚を与えてくる。もう晩年の境地、というか。以下は、それをとくに強く感じさせる歌たち。
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは(25ページ)
居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる(31ページ)
生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める(126ページ)
死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く(146ページ)
寒ければいつでもこころ豊かにと壊れた柿の木に手を触れる(206ページ)
僕の心の音は静かに鳴り止んでそれを豊かな蟬が引き継ぐ(215ページ)
シロツメクサの花輪を解いた指先でいつかあなたの瞼を閉ざす(224ページ)
われながら説得力ゼロではあるが、歌集から歌を引きすぎるのは良い趣味とはいえない。でも、じつはここに引いたのは、「これだけは引かずにはいられない」という選抜を三回もくぐり抜けた歌たちなのだ。多いよね。でも、もう減らせない。この歌を引かないのだったら、この歌集についてなにかを言ったことにはならない。そんなふうに思わせるような歌ばかりなのだ。恋の歌もすばらしい。「すばらしい」なんて言葉じゃ、なにも言い表せないくらいすばらしい。
泣き顔に意思や涙を光らせてあなたが指で砕く岩塩(91ページ)
町中のあらゆるドアが色づきを深めて君を待っているのだ(99ページ)
文字は花。あなたの淡い感情を散らした紙も枯野を祝う(129ページ)
花群(はなむら)を一人で探す喜びがあなたを名指しする歩道橋(151ページ)
君がかつて歌い忘れた花たちをひとり私が祝うお祭り(153ページ)
青空を見下ろしたくてその昔君が道路に置いた手鏡(159ページ)
いつか詩がすべて消えても冬鳥のあなたに挨拶を残したい(169ページ)
僕らお互い孤独を愛しあふれ出る喉の光は手で隠し合う(200ページ)
君の寝る朝の枕の小ささのその小ささを日差しは愛でる(202ページ)
なかでも以下の二首は、衝撃的だった。どちらもなにかとなにかの「間(あいだ)」というものを詠んでいるのだが、その起点と終点が心底すごい。
手のひらに僕とあなたの涙粒混ぜて乾かす間の四季よ(77ページ)
冬に泣き春に泣き止むその間の彼女の日々は花びらのよう(142ページ)
このひとが「君」とデートするときの静けさ、ささやかさも忘れがたい。
春先の光に膝が影を持つ触って握る君の手のひら(18ページ)
君と一緒に胸の商店街へ降り集めたものは冬の色彩(74ページ)
球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く(102ページ)
坂道を躊躇いながら降りてきてあなたが纏う枯れ葉のひかり(194ページ)
いつかブルーシートが波打つ風の日に君と春待つ将棋がしたい(211ページ)
それから、このひとの歌によく登場する言葉に、「花火」がある。
生きていることが花火に護られて光っているような夜だった(83ページ)
僕たちは海に花火に驚いて手のひらですぐ楽器を作る(150ページ)
なるべくなるべく花火のように息を吐く暗がりで君からも見えるよう(210ページ)
この「花火」に対するイメージとも無縁ではないなにかが、歌人に以下の一首を詠ませたのだろう。これにはびっくりした。
君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車(57ページ)
また、キーワードということを語るなら、「薔薇」も忘れてはいけない。薔薇というのは、花のなかでも特別な意味を持ちすぎている感があり、なかなかさりげなくは登場させられない花だと思うのだが、このひとの歌はそんな存在感を放つ薔薇たちで溢れている。きっと言葉としての薔薇に、なにか特別な意味を託してもいるにちがいない。
薔薇色の食事を言うから君はただその品目を書き留めていて(98ページ)
遠くから見ればあなたの欲望も薔薇のよう抜け出した図書室のよう(122ページ)
手に触れる星屑みんな薔薇にして次々捨てていくんだ秋に(130ページ)
確かめるようにかすかな音楽の間に咲いていた決意、薔薇(179ページ)
夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨(198ページ)
デートや恋が一切関わっていないような状況でも、このひとの世界は徹底して静けさに満ちている。読んでいるあいだ、その静寂に引き込まれていく感覚がとても心地よい。
曇天に光る知恵の輪握り締め素敵な午後はいくらでもある(111ページ)
君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した(121ページ)
幻想の横須賀線に手を振ってありし日の音楽を聞き流す(160ページ)
とても小さなスロットマシンを床に置き小さなチェリー回す海の日(164ページ)
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい(189ページ)
歌について詠んだ歌、というか、言葉や表現、すなわち歌人自身について詠んだ歌にもすばらしいものが多かった。このひとは歌人である以外に選択肢のない生き方をしているような印象を抱く。現代においてもっとも見つけがたく、しかも不足していて、そのくせもっとも淘汰されやすいたぐいのひとなのかもしれない。
静かなる夜更けの駅にあらわれて夕暮れの歌うたうわかもの(48ページ)
太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね、指(61ページ)
舌先に雨は溢れてもう僕は芽吹きの言葉しか話せない(94ページ)
透明な涙が胸に湧き出して目から零れるまで藤が咲く(119ページ)
明け方の雲や烏や自転車が私の価値観を照らすなり(134ページ)
幾度も越えた心の敷石を撫でればそこに桔梗が咲けり(144ページ)
出会いからずっと心に広がってきた夕焼けを言葉に還す(147ページ)
歌はいつでも遅れてやって来ていつもその中に海岸を隠し持つ(208ページ)
生まれた瞬間懐かしくなる歌のように駅の周りで傘は開いた(222ページ)
さて、今回の通読で見つけたいちばん好きな歌であるが、じつは書きはじめる前から決めていた。いちばん最初にあげた「ロシアなら夢の焚き付けにするような小さな椅子を君が壊した」も、運命の一首として捨てがたかったのだが、いまは、これがいちばん響いてくる。
全世界の虚構の音楽室にある木琴をいま鳴らす力を(103ページ)
ひたすらに静かな彼の世界にあって、これはほとんど唯一、立てられることが願われている音なのだ。その選択に、誇張でなく、鳥肌が立った。
「子供たちよ、どうか長生きをしておくれ。長生きをしてたくさんのことを忘れておくれ。せめて私は君たちが忘れてしまったほほえみや苦しみを拾い集めて小さな墓をつくり、その周りに賑やかな草花が咲くのを、長く、長く長く待っていようと思う」(226ページ)
ここまで野心を感じさせない歌人が、いったいどんなふうに騒音ひしめく現代社会で日々を過ごすことができるというのか、不安にさえなってくる。野心を持たない歌人に居場所を。せめて、彼が詠ったような静けさを。もっと多くのひとが手に取り、もっと多くのひとが静けさと向き合うようになればいいな、と思った。