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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

愛する源氏物語

 ずいぶん唐突に短歌にはまってしまったことを隠そうともしない本ブログではあるが、じつは現代短歌への関心が高まるにつれて、「現代」と断言するには数十年古い、戦後と呼ばれる時代に生きた歌人たちの短歌、そしてもっと前、明治時代に詠まれた近代短歌、さらにもっともっと遡り、平安朝などの和歌にまで、関心が広がっていっている。今回手に取ったのは和歌に関する本である。それも『源氏物語』の作中に登場する和歌の魅力を、『サラダ記念日』によって現代を代表する歌人となった俵万智が伝える、というもの。

愛する源氏物語 (文春文庫)

愛する源氏物語 (文春文庫)

 

俵万智『愛する源氏物語』文春文庫、2007年。


 紫式部の『源氏物語』には、ぜんぶで795首もの和歌が登場するという。よく数える気になったな、と思わずにはいられない量で、あの小説の長大さを鑑みても、やはり多いと思う。だが、『源氏物語』というのは「歌物語」である(厳密にはちがうらしいが、わたしが言うのは歌がたくさん登場している物語、という程度の意味)。ここに登場する和歌は、『古今集』や百人一首に登場する和歌とは異なり、虚構としての登場人物たちが詠み合った、実用品としての和歌なのだ。

紫式部。『源氏物語』の作者である彼女は、百人一首にも採られているし、勅撰集にも58首入集しているし、『紫式部集』という家集さえ持っている。だが、たとえば彼女がそれほど褒めてはいない和泉式部の場合、勅撰集には239首もの和歌が採られている。
 残されたものを読むかぎりでは、私自身は圧倒的に和泉式部の歌が好きだ。が、和泉式部の恋の歌は、当然のことながら、常に本人が主人公である。そこが、紫式部とは、大きく違う。
 795首の和歌を、それぞれの人物の状況と才能に応じて歌いわけるという技量。その「成り代わり」の技においては、紫式部は、恐ろしいほどの力を持っていた。795首は、795種でもあるのだ」(10ページ)

 当時の社会における和歌というのは、単なる教養である以上に、コミュニケーションの道具であった。まさしく実用品。女を口説くのにも、男に色目を使うのにも、同性の友人とのなにげない会話にも、夫婦喧嘩にも、きまって和歌が登場してくる。ここには「秀歌」として勅撰集などに採られることのない、詠む側も贈られた相手も目の前の相手以外のことは考えてもいないような、じつに生き生きとした和歌の姿がある。

「当時は、和歌のやりとりをのぞけば、いきなり寝るというのが恋愛だった。それゆえ、和歌はきわめて重要でもあったのだ」(109ページ)

  思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きかなやまむ  明石の君
  会いもせぬ私に恋をする人の心は一体どうなってるの  (万智訳)
  (113〜114ページ)

 この本で原文の和歌が引かれるときは、隣にきまって、「万智訳」と書かれた現代の口語体短歌が付されている。『サラダ記念日』のときにも思ったけれど、このひとの定型遵守の姿勢にはすさまじいものがある。句またがりなんてぜんぜんなくって、自然に声に出して読みたくなる翻訳ばかりだ。

  なく声もきこえぬ虫の思ひだに人の消つにはきゆるものかは  蛍兵部卿宮
  鳴く声も聞こえぬ虫の思いさえ消しても消えぬ、ましてこの恋  (万智訳)

  声はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ  玉鬘
  ひたすらに身をのみ焦がす蛍こそ声にはならぬ思いの深さ  (万智訳)
  (77ページ)

「恋の歌として贈られたものを、蛍の歌として返す。そこにはもちろん、気持ちの上での「NO」が含まれているのだが、最初から恋の歌だと気づかなかったことにすれば、角が立たない。そういう知恵である」(77〜78ページ)

「言葉というのは、常に心を正確に伝えてくれるとは限らない。いや、まったく心そのものの姿をしている言葉など、ないかもしれない。特に和歌の場合は、限られた文字数のなかで、凝縮した表現となる。その凝縮されたものを、どう読みとって、どう詠み返すか。そこに恋愛の分かれ道もある」(80ページ)

 恋愛における歌の贈答もそうだが、もっと日常的なやりとりでも和歌は大いに活躍している。以下は、宇治十帖において、妻である中の君が薫と関係を持っているのでは、と疑う夫、匂宮が中の君に宛てた歌。

  また人に馴れける袖の移り香をわが身にしめてうらみつるかな  匂宮
  俺じゃない奴の匂いがする君の匂いが俺に移る悔しさ  (万智訳)

  みなれぬる中の衣とたのみしをかばかりにてやかけはなれけん  中の君
  目の前のわたくしよりも目に見えぬ香りのほうを信じる君よ  (万智訳)
  (292〜293ページ)

 どう見ても夫婦喧嘩なのがおもしろい。当時は夫婦別居が当たり前で、しかも一夫多妻制だった。この返歌で中の君は、夫であるのにぜんぜん会いに来てくれない匂宮に、恨み言を言ってもいるのである。また、歌を贈るというときには、木々の枝や花に紙を結んで贈るものだった。つまり、どんな植物に結ぶのか、またどんな紙にどんな調子で書くか、という部分が、相手に近づくためには非常に重要になってくる。たいてい、歌の内容に即した植物が選ばれるのだが、匂宮が関係を疑っていた薫と中の君とのやりとりでは、この装置が大いに機能している。以下の歌は、まだ露の乗ったままの朝顔とともに運ばれたのだ。じつは薫が好きだったのは中の君の姉、亡くなった大君のほうで、薫は亡き人の面影を見て、妹である中の君に言い寄っているのである。

  よそへてぞ見るべかりける白露のちぎりかおきし朝顔の花  薫
  白露の姉のかわりと約束を交わしたはずの朝顔の花  (万智訳)

  消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露はなほぞまされる  中の君
  露よりもはかなく枯れた花の姉よりもはかなき私と思う  (万智訳)
  (288ページ)

「こういう生きた小道具が、うまく機能したやりとりとして、とても印象深い場面だ。朝顔が完全にしおれてしまわないぐらいの、短い時間のなかで、歌の贈答は行われていたのだ、ということもあらためて思う。活字で残る短歌とは違う、どちらかというと演劇に近いような、一回性の歌のやりとり。まさに一日だけ咲く花のような美しさが、ここにはある」(289ページ)

 これらの小道具は、まさしく演劇における舞台装置なのである。歌集に載せるための歌ではなく、詠まれたそばから消えていってしまう、「いま」「ここで」の想いを伝えるための歌。俵万智は「あとがき」でこんなことを言っている。

「実用品として、生き生きと活躍する和歌。なんというか、これこそが本来の姿だったんだよなあ、と思う。相手に思いを伝えたくて、みんな必死である。
 「作品」という意識で、現代短歌を作っている自分が、忘れがちな大切な何かが、そこにはあるように思われた」(「あとがき」より、321ページ)

 また、この本の「解説」を書いているのは、同じく歌人東直子である。最近どの本を読んでも彼女が解説を書いているのは、いったいどういう巡り合わせなのだろう。

「私は、毎日のように短歌をつくってはいるが、それは、誰に向けるともなく、ばくぜんとしたシロモノである。今、このとき、この人の心を捉えるために、という必死の思いを、架空の光源氏に向けてつくってみようかな、などと考えてみたりもするが、考えてみれば『源氏物語』に出てくる和歌は、引用歌以外は、紫式部が登場人物になりかわって詠んだものなので、方法としては同じことになるのだろう。けれども、それぞれの性格を踏まえて「技」を効かせていることに成功している和歌の数々には、圧倒されるしかない」(東直子「解説」より、328〜329ページ)

 和歌の本来の性格としての一回性、というのには、ただならぬ興味がわく。ただの手紙ではなく、和歌という定型詩に想いを託す、というのは、なんと美しい伝統であることか。散文で書くと重すぎるようなことでも、和歌でなら率直に伝えられる。その奥ゆかしさ。こんなすばらしい伝統が失われてしまっただなんて。

  夕露に紐とく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけれ  光源氏
  あの日あの時あの道で君に会ったからすべて見せあう今があるのさ  (万智訳)

  光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時のそらめなりけり  夕顔
  あの日あの道たそがれどきの横顔は今よりずっとハンサムだった  (万智訳)
  (34〜35ページ)

「常夏の女すなわち夕顔は、日常の様子がはかなげなぶん、和歌における変貌ぶりが、際立って感じられる。が、その温度差というものは、どんな人にも必ずあるものだ。散文では言えないことを、思いきって言葉にする勇気を、和歌は与えてくれる」(35ページ)

 和歌がコミュニケーションの道具として十全に機能した例としては、光源氏の息子、夕霧が、身分について悩む箇所が象徴的だ。意外にも教育パパである光源氏は、本来であれば元服からいきなり四位でもよいような出自の息子を、まずは六位に任じた。甘やかされていきなり出世するよりは苦労して勉学に励め、という親心なのではあるが、予想もしなかった六位という位階に夕霧は落ち込んでいる。そこに初恋の相手、雲居雁の乳母が、「縁談の相手が六位ふぜいとは……」と、ひそひそ話で追い打ちをかける。そのとき夕霧は、雲居雁にこんな歌を贈った。

  くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき  夕霧
  恋ゆえに血の涙色に染まる袖 位の低き浅葱ではない  (万智訳)

  いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ  雲居雁
  いろいろに悲しいさだめどのように二人の仲は染まるでしょうか  (万智訳)

  霜氷うたてむすべる明けぐれの空かきくらし降る涙かな  夕霧
  むなしくも霜の凍てつく明け方の空かきくらし涙が降るよ  (万智訳)
  (136〜137ページ)

 着ているものの色が身分を象徴しているのだ。浅葱色は六位の色で、最後の一首は夕霧の独詠歌である。夕霧のへこみっぷりが容易に見てとれる。乳母ひどい。だが、ここで終わる夕霧ではなく、やがて紆余曲折を経て、彼は中納言にまで昇進する。そして、中納言の紫の上着をまといつつ、かつて自分を馬鹿にしたようなことを言った乳母に、以下の歌を贈るのだ。

  あさみどりわか葉の菊をつゆにてもこき紫の色とかけきや  夕霧
  あさみどり若葉の菊が紫の花になるとは信じられない?  (万智訳)

  二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき  乳母
  名門の園に生まれた菊ならば色で分けたりいたしませんわ  (万智訳)
  (138〜139ページ)

「こういうやりとりは、和歌だからこそ、上品にできるのだろうなあと思う。これが直接「あのときは、ずいぶんひどいことを言ってくれたね」と、言葉でぶつけてしまったら、微笑みさえも、なにやら恐ろしげなものに見えてしまうだろう」(139ページ)

「菊の花に添えて、その花にたくした間接的な表現だから、乳母も受け取ることができるのだ。そして和歌という形があるから、屁理屈でもなんでも、雅びな言葉にくるんで返すことができる。美しい知恵である。恋愛だけでなく、こんなコミュニケーションにも、和歌は役立っていた」(139〜140ページ)

 また、同じ夕霧は、友人である柏木と以下の歌を贈り合っている。これは光源氏の妻となった女三の宮に想いを寄せる柏木が、光源氏の息子である夕霧に、「おまえの親父、あんな美人が奥さんなのに相変わらず節操ねえな」と言っている場面だ。

  いかなれば花に木づたふ鶯の桜をわきてねぐらとはせぬ  柏木
  あの男は浮気な鶯 なにゆえに桜をねぐらと定めないのか  (万智訳)

  みやま木にねぐらさだむるはこ鳥もいかでか花の色にあくべき  夕霧
  みやま木にねぐら定めるその鳥も桜の色に飽きはしません  (万智訳)
  (181〜182ページ)

「こんな男同士の、日常的なやりとりのなかでさえ、和歌が詠まれていることが興味深い。何か意見を交わしあったら、とりあえず五七五七七にまとめるというぐらい、和歌が身近なものだったということだろう」(182ページ)

 ちなみに柏木は、禁忌を犯してついに女三の宮と関係を結ぶことになる。しかもそれが光源氏にばれて、心底びびった彼はついに病に臥せってしまう。自分の死を悟った柏木は、女三の宮と以下のやりとりをした。この女三の宮の返歌については、丸谷才一が「『源氏物語』のなかで最高の和歌」と評しているそうだ。

  いまはとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ  柏木
  我が死後の煙はなおもくすぶって絶えぬ思いをこの世に残す  (万智訳)

  立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙くらべに  女三の宮
  誰が一番つらい思いをしているか煙となってくらべましょうか  (万智訳)
  (200ページ)

「作者の紫式部の側から言えば、人はほんとうに悩み苦しんだときには、実力以上の歌を作るもの、という思いがあったのではないだろうか。だとしたら、この場面で、彼女に特上の和歌を与えたとしても、不思議ではない」(203ページ)

 和歌というのは、単なる教養ではなく、これまで自分が考えていたよりも、もっとずっと実用性の高いものだった。とはいえ、もちろん教養という面でも、判断材料には和歌がうってつけである。『源氏物語』に登場するなかで、もっとも歌が下手な人物のひとり、末摘花のエピソードはおもしろい。彼女の歌には、「からころも」という枕詞、それに関連した掛詞ばかりが出てくる。

  からころも君が心のつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ  末摘花
  からころも君がつれない人なので私の袖は涙びっしょり  (万智訳)
  (50〜51ページ)

  きてみればうらみられけり唐衣かへしやりてん袖をぬらして  末摘花
  着てみると君うらめしや唐衣いっそ返そか袖を濡らして  (万智訳)
  (56ページ)

  わが身こそうらみられけれ唐衣君がたもとになれずと思へば  末摘花
  わが身こそ恨めしきもの唐衣あなたのそばに置いてもらえず  (万智訳)
  (58ページ)

「縁語というのは、さりげない隠し味のように使うほうが、かっこいい。歌の本筋の意味にからまりつつ、小さなアクセサリーのように輝いてこそ、「あら!」という喜びをもたらしてくれるのだ。逆にそれを前面に押し出して「どうだ」と言われたら、げんなりしてしまう」(57ページ)

「一つの新しい発見や表現がある場合は、そこにいたるまでの手続きは、多少陳腐でもかまわない。いや、助走の部分というのは、むしろ見慣れた言い回しのほうが、いい。そして、ここぞという見せ場のところでジャンプするのだ」(61〜62ページ)

 そこに、光源氏の「やけくそとも思える返歌」。これには笑ってしまった。

  唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる  光源氏
  唐衣またからころもからころもいつまでたってもああからころも  (万智訳)
  (58ページ)

「和歌には、その人の教養やセンス、そして性格までもが如実にあらわれる。「下手」ということで末摘花と近江の君をあげたが、その「下手」の内容は、それぞれに違う。
 最後に、これは想像だが、支離滅裂な和歌を詠んだり、下品な会話を書いたりするとき、作者紫式部は、案外楽しかったのではないだろうか。近江の君の饒舌ぶりには、そんな作者のノリのよさが、感じられる」(160ページ)

 ところで、光源氏というのは、世紀のプレイボーイとして有名ではあるけれど、思えばずいぶん人間的な描かれ方をしているひとである。恋愛においては軽い印象ばかりが先行するが、教養があり、上述のとおりじつは教育パパだったりして、とても魅力的だ。以下、和歌のうまい六条御息所との応酬。

  袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき  六条御息所
  泥沼の恋と知りつつ自分から踏み込んでゆくことの悲しさ  (万智訳)

  浅みにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深きこひぢを  光源氏
  踏み込めるほどの浅さよわたくしは全身泥につかっています  (万智訳)
  (72~73ページ)

「あなたは袖が濡れる程度ですか、私は全身ずぶぬれですよ――こういった機知による切り返しは、和歌の贈答の場面では、珍しくない。光源氏のこの発想も、『古今集』巻十三恋歌三の、次の二首とよく似ている。

  つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし  藤原敏行

  浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ  在原業平

 返歌のほうは、業平が女性に代わって詠んだもので、『伊勢物語』の百七段にも、このやりとりは登場する」(74ページ)

 当然ながら、本歌取りというのは本歌を知らなければ成り立たない。勅撰集に採られるような和歌をどれだけ知っているかということがすなわち教養なのであり、日常的な和歌のやりとりには、その知識が総動員されるのだ。当時の水準からすれば、このくらいは当然、ということなのかもしれないけれど、光源氏はすばらしい教養人に見える。恋愛においては軽薄な印象が拭えないが、それにしたって、光源氏の場合は目の前の相手には常に全力投球なのだ。

  深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ  光源氏
  美しい朧月夜よあなたとのおぼろげならぬ出会いと思う  (万智訳)
  (91ページ)

「いきなり会って、おぼろけならぬ契りとは、さすが光源氏だ。彼は実に簡単に「前から好きだった」というようなセリフを吐くが、「前って一分前?」と突っ込みを入れたくなる。この歌も、まことに調子のいいことを言っているわけだが、それを品よく見せているのが和歌という体裁だ。彼女が口ずさんでいた「朧月夜に……」という言葉をとらえ、おぼろけならぬ、と掛詞に仕立てている」(91ページ)

 俵万智のつっこみがおもしろい。この本の中で俵万智は声を大にしてつっこみを入れまくっているので、それを読んでいるだけでも大変楽しい本である。以下は匂宮を中の君に紹介する、という口実を得て、大君に近づこうとする大変回りくどい薫の言動をばっさり切った箇所。

  つららとぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづやわたらむ  薫
  氷上を馬が踏みゆく山川を案内がてらまずは渡ろう  (万智訳)
  (246ページ)

「この歌を読むたびに、「がてら」ってなによ、「がてら」って! と私は思う。匂宮を中の君に仲介しますので、まずは、残ったあなたと私も契りましょう……「がてら」とは、そういうことだろう。もののついで? 失礼な言いぐさにも、ほどがある」(247ページ)

「至近距離に近づいた薫は、必死で大君にこんなことを言う(カッコ内は、私の感想です)。「どうか、怖がらないでください(怖がるって)。あなたの心に添わないようなことはしないと始めから思っておりますので(だったら、なんで入ってくるの)。世の中の人は、まさか私たちがこのように清らかな仲だとは思わないでしょうが(だから、それが困るんだってば)、私は人並みはずれた愚か者として今日にいたっているのです……」」(254ページ)

 薫に対する俵万智の鬱憤は、万智訳のほうの短歌にも反映されている。笑ってしまう。

  かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば  大君
  あれこれと悩む私を気づかって! あなたの恋はあなたのせいよ  (万智訳)
  (266ページ)

 ところで、『源氏物語』の読者で紫の上を好きにならないひとなんていない、とわたしは思っているのだが、歌においても紫の上はどこまでも魅力的だ。以下は光源氏が、スキャンダルの連続が災いして、須磨に退去することを決意した場面で詠まれた歌。

  生ける世の別れを知らで契りつつ命を人にかぎりけるかな  光源氏
  死のほかに別れがあると知らないで「命の限り」と誓った日々よ  (万智訳)

  惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしかな  紫の上
  目の前の別れを先に延ばせれば死んでもいいと思うこのまま  (万智訳)
  (104ページ)

「五七五七七という枠がなかったら、散文かと思うほど、ストレートな言葉である。が、だから和歌としてダメだということにはならない。ここにある言葉たちは、五七五七七という型があってはじめて、なんとか形を得た言葉なのだと思う。そういう意味では、すぐれて和歌的だ、とも言えるだろう」(105〜106ページ)

「あまりに大きな悲しみにあって、言葉を失いそうになるとき、その思いを形にするための支えとして、和歌の型が働くことがある。流れゆく感情を注ぎこむ器、崩れゆく言葉をとどめるつっかえ棒。紫の上のこの一首は、まさにそのようにして生まれたものの典型に見える」(106ページ)

 だが、上にも出てきた高貴な身分の女三の宮が、その身分から光源氏の正妻として迎えられたときには、常々嫉妬心をコントロールしてきた紫の上も大きく揺らぐ。しかし光源氏のほうは反対に、様々な女を知るなかで、ついに紫の上の圧倒的な魅力に気づいていくのだった。

  目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな  紫の上
  変わりゆく男女の仲とは知りながら行く末長くと信じていたよ  (万智訳)

  命こそ絶ゆとも絶えめさだめなき世のつねならぬなかのちぎりを  光源氏
  命なら絶える日もくる定めなき世の常ならぬ我々の愛  (万智訳)
  (172〜173ページ)

「女三の宮に失望した源氏は、その反動のような形で、ますます紫の上を見直し、深く愛するようになる。が、同じできごとでも、男と女では受け止めかたは異なるもの。他の女と比べられて、あらためて君のよさがわかったよなんて言われても、ちっとも嬉しくない。比べるまえに、わかってよ、と言いたくなる」(177ページ)

 その紫の上が死んでしまってからの巻が、「幻」である。この巻を読むとき、俵万智はいつも、与謝野鉄幹を亡くしたあとの与謝野晶子の歌を思い出すという。

  青空のもとに楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな  与謝野晶子(224ページ)

  物語御法の巻ののちなるはただ一とせのまぼろしの巻  与謝野晶子(225ページ)

 この「幻」の巻における光源氏の独詠歌の数々は、女の気を惹こうと努力をつづけてきた、これまでの光源氏の和歌とはまるでちがったものとなっている。なんというか、これらの歌は一回性を感じさせないのだ。実用性を遥かに超えていて、勅撰集に採られたっておかしくないような出来の、すばらしい歌ばかりだと思う。紫の上を失ったということの圧倒的な悲しみが、この三十一文字には凝縮されている。

  わが宿は花もてはやす人もなしなににか春のたづね来つらん  光源氏
  もう花を楽しむ人もいないのにどうして春はやってくるのか  (万智訳)

  うき世にはゆき消えなんと思ひつつ思ひの外になほぞほどふる  光源氏
  つらき世に別れゆきたく思えども思いがけなく積もる歳月  (万智訳)

  植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐる鶯  光源氏
  この梅を植えたあなたもいないのに知らん顔して来る鶯よ  (万智訳)

  今はとてあらしやはてん亡き人の心とどめし春の垣根を  光源氏
  あきらめて荒れさせるのか亡き人が心をこめた春の垣根を  (万智訳)

  なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほととぎす  光源氏
  亡き人をしのんで流す涙雨 来てくれたのか山ほととぎす  (万智訳)

  つれづれとわが泣きくらす夏の日をかごとがましき虫の声かな  光源氏
  泣いて泣いて我が泣き暮らす夏の日に真似をするかのような虫たち  (万智訳)

  人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり  光源氏
  君を恋う命は残り少なくて涙はまだまだ残り多くて  (万智訳)

  もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな  光源氏
  二人して長寿を祈った菊なのに一人の袂に秋の朝露  (万智訳)

  大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方たづねよ  光源氏
  夢にさえ見えぬあなたの魂のゆくえを教えておくれまぼろし  (万智訳)

  かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ  光源氏
  集めても見るかいもなき手紙たちあの人と同じ煙となれよ  (万智訳)

  もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる  光源氏
  もの思いに月日の過ぎるのも知らず今年も我も今日で終わりか  (万智訳)
  (226〜232ページ)

 さて、「幻」の次に来る巻は「雲隠」だが、この巻は巻名しか伝えられていない。消失してしまった、という説もあるが、俵万智の考えはちがう。なにせ、光源氏はこの巻で死んだことになっているのだ。

「すべてを描ききらず、読者を信頼してゆだねる――というのは、短歌や俳句などの短詩型が得意とするところ。それを、この大長編小説のクライマックスでやってのけるというのは、なかなか心憎い。真相はわからないが、紫式部なら、それぐらいのことは、してくれそうな気がする」(235ページ)

 書物としての『源氏物語』は光源氏の死後も続くわけだが、薫や匂宮の登場する宇治十帖については、引きたい部分はすでに上に引いてしまった。生活のツールとしての和歌というのもおもしろいが、一首の美しさを考えたとき、「幻」の巻の光源氏の独詠歌はほんとうに圧倒的である。だが、それら性格の異なる様々な和歌をも包含できるのが、いまや失われてしまった「歌物語」という文学形式なのだろう。

「かつては、「歌物語」というジャンルもあった。散文と韻文のあいだの風通しが、よかったんだなあと思う。今では、すっかり分業態勢になってしまったけれど」(322ページ)

 歌物語、現代の作家はぜんぜん書かないのだろうか。これほど魅力的だというのに。東直子などはすばらしい小説もたくさん書いているのだから、ぜひ短歌のたくさん登場する作品を書いてもらいたいと思う。平安朝の生活、コミュニケーション装置としての和歌の存在がぐっと身近なものになる名著だった。読みたい本がたくさん増えて、とても嬉しい。

愛する源氏物語 (文春文庫)

愛する源氏物語 (文春文庫)

 


〈読みたくなった本〉
大野晋丸谷才一『光る源氏の物語』

光る源氏の物語〈上〉 (中公文庫)

光る源氏の物語〈上〉 (中公文庫)

 

又江啓恵『歌で読む源氏物語』(全四巻)

歌で読む源氏物語〈第1巻〉桐壺―花散里

歌で読む源氏物語〈第1巻〉桐壺―花散里

 

片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典』
「『歌枕 歌ことば辞典』(片桐洋一著)によると、からころもとは、そもそもどのような衣だったかという実体は不 明で、すでに万葉時代から歌語になりきっていたという。つまり、日常生活で使われる言葉ではなく、和歌の世界でのみ生きつづけてきた特殊な言葉ということ だ」(55ページ)

歌枕歌ことば辞典

歌枕歌ことば辞典

 


〈歌が本書に紹介されていて読みたくなった本、和歌篇〉
万葉集
  夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ  柿本人麻呂(208ページ) 

古今和歌集
  大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし  よみ人しらず(66ページ)
  思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを  よみ人しらず(111ページ)
  世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平(163ページ)
  さ筵に衣片敷きこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫  よみ人しらず(308ページ)

後撰和歌集
  ちはやぶる神垣山の榊葉は時雨に色も変らざりけり  よみ人しらず(83ページ)
  かつ消えて空に乱るる淡雪はもの思ふ人の心なりけり  藤原蔭基(174ページ)

拾遺和歌集
  榊葉の香をかぐはしみとめ来れば八十氏人ぞまとゐせりける  よみ人しらず(84ページ)
  少女子が袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひそめてき  柿本人麻呂(84ページ)

『古今和歌六帖』
  夕闇は道たどたどし月待ちて帰れわがせこその間にも見む(191ページ)

『伊勢集』
  空蟬の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな(42ページ)
  人しれずたえなましかば侘つつもなき名ぞとだにいはましものを(164ページ)

『信明集』
  ほととぎす来鳴くを聞けば大荒木の森こそ夏の宿りなるらめ(66ページ)

『義孝集』
  忘るれどかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ(166ページ)

〈歌が本書に紹介されていて読みたくなった本、現代歌人篇〉
三国玲子の歌集
  幾人にも愛を分つと言ひきりし彼の時の君を憎み得ざりき  三国玲子(99ページ)

三国玲子全歌集 (群緑叢書)

三国玲子全歌集 (群緑叢書)

 

与謝野晶子の歌集
  青空のもとに楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな  与謝野晶子(224ページ)
  物語御法の巻ののちなるはただ一とせのまぼろしの巻  与謝野晶子(225ページ)

与謝野晶子歌集 (岩波文庫)

与謝野晶子歌集 (岩波文庫)

 
みだれ髪 (新潮文庫)

みだれ髪 (新潮文庫)

 
みだれ髪―チョコレート語訳 (河出文庫)

みだれ髪―チョコレート語訳 (河出文庫)