私人
国内にいるあいだに入手した、ブロツキーによるノーベル文学賞受賞講演。荻窪にある馴染みの古本屋さん、ささま書店で購入し、帰りのバスのなか、酔うかもしれないという不安を抱えながら読みはじめ、最後のほうはバスではなく、ブロツキーに酔っていた。こんなに薄い単行本、なかなか目にすることもなさそうなもの(ぜんぶで60ページくらいしかない。しかもその半分は「訳注」と「解説」)。だが、その内容は浅薄とは徹底的に無縁、独立した一冊としてこれを刊行したのは、まちがいなく出版社の英断だった。
ヨシフ・ブロツキイ(沼野充義訳)『私人 ノーベル文学賞受賞講演』群像社、1996年。
かつて『ヴェネツィア』を読んでからというもの、まとまったものはあの一冊しか読んだことがないくせして、わたしはいたるところで、ブロツキーのことを薦めまくっている。このひとはなんというか、比類ないのだ。以前はペソアやエステルハージ・ペーテルと並べて、「野心を持たない作家」なんて呼ぶのがお気に入りだったのだが、この詩人の明晰さは、わたしのなかではすでにヴァレリーやボルヘスと同じ高みにいる。ヴァレリー、ボルヘス、ブロツキー。ほら、口にするだけで楽しくなってくるほどだ。三人とも明晰すぎて、ちょっと恐ろしいが。
この講演で語られていることも、語彙がややこしい部分もあるものの、論旨は一貫していて、明晰そのものだ。これほど薄い本のなかに、忘れたくない言葉がどれほど多く刻まれていることか。手にするたびに驚いてしまう。
「多くのものは、他人と分かち合うことができます。パンも、寝床も、恋人でさえも。しかし、例えば、ライナー・マリア・リルケの詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます」(9ページ)
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは――繰り返しますが――他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば「相互厭人的」な会話なのです」(19ページ)
ブロツキーは、小説や詩というのは、「書き手と読み手の相互の孤独の産物である」、とも言っている(20ページ)。読書というのは徹底して孤独な営みなのであり、だから、わたしはときおり自室を見回してみて、これほど多くの本に囲まれていることを侘しく感じることがある。読書の愉しみを知らずにいたのなら、もっと幸せな人生だったのではないか、と。田村隆一の「帰途」ではないが、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と、言いたくもなってくる。
「個人の美的体験が豊かであればあるほど、趣味はしっかりしたものになり、道徳的な選択も明確になり、そして個人はより自由になります。もっとも、同時により不幸になるということもあり得ますが」(16ページ)
でも、ヴァレリー・ラルボーが『罰せられざる悪徳・読書』で語っていた、「豊かな愛好家(Riche Amateur)」の豊かさとは、こういうことなのだ。そして、そこで勝ちとられた自由は、生きることの意味を大きく変容させる。
「「皆と違う表情」を獲得することにこそ、個人として生きることの意味があるのではないでしょうか」(10ページ)
「書き手であるか、読み手であるかにかかわらず、ともかく人間に課された仕事は何よりもまず、自分自身の人生を生き抜くこと。外から押しつけられた人生、指示された人生は、それがどんなに上品に見えるものでも駄目なのです。人生は誰にとっても一度限りのものであり、それがどんな風に終わるか、われわれはよく知っています。この唯一のチャンスを他人の外見、他人の経験の模倣のために、つまり同語反復のために浪費してしまったら、さぞくやしいことでしょう」(11ページ)
同語反復なんていらない。ただ、逸脱だけがすばらしい。詩の言葉を読むというのは、「皆と違う表情」を獲得するために必要不可欠なことなのだ。
「芸術全般、特に文学が素晴らしいものとなり、また実生活と区別されるのは、それが常に反復を避けようとするからです」(13ページ)
「芸術は後戻りすることのない無反動砲のようなもので、その発展を決定するのは芸術家の個性ではなく、素材そのものの力学と論理であり、また毎回質的に新しい美的解決を見つけるよう要求する(あるいはそれとなく教えてくれる)表現手段が辿ってきた運命なのです」(13ページ)
ブロツキーがこの本で語っていることを、短く要約しようとするのなら、「文学をなめるな」、「詩を蔑ろにするな」、ということになるにちがいない。でも、誓って、それだけではない。
「書物とは、人間が元来どんなものだったのか教えるためというよりは、むしろこのホモ・サピエンスに何ができるかを教えるために出現したものであり、これはページをめくる速度によって空間の中で経験を移動させる方法なのです」(20ページ)
「文学に対する様々な犯罪の中で、作家の迫害、検閲による規制、焚書といったことが、一番重い犯罪だというわけではありません。もっと重い犯罪があるのです。それは本を軽視すること、本を読まないことです。この犯罪を人間は、自分の一生によって償うことになります」(22ページ)
この言葉は、すべての読書家にとっての、救いである。先に、「生きることの意味を大きく変容させる」と書いたが、じっさいのところ、「変容」なんていう生易しいものではないのだ。この豊かさの獲得は、生の目的そのもの。そう告げるブロツキーは、ひたすらに輝いている。
「人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。それゆえ芸術、特に文学は、種の発展の副産物どころか、その正反対なのです。もしも人間を動物界の他の代表者と区別するものが言葉だとすれば、文学、特に詩は、言語芸術の最高の形態なのですから、ちょっと大雑把な言い方をすれば、種としての人類の目的だということになるでしょう」(17ページ)
「文学が存在するということは、その文学の水準に人間が――道徳的にだけではなく、語彙的にも――存在することを、当然意味します。音楽作品は人間に、聴き手の受動的な役割と、演奏者の能動的な役割の間の選択の余地をまだ残すものですが、それに対して、モンターレの表現によれば「癒しがたく意味に満ちた芸術」である文学の作品が人間に背負わせるのは、演奏者の役割でしかありません」(18ページ)
これは、現代における逸脱の最果て、亡命詩人となったブロツキーだからこそ、断言できたことだろう。亡命については、「解説」にこんな文章が引かれていた。
「亡命者とは、カプセルに入れられ、外宇宙に発射された犬か、人間のようなものである(もちろん、人間よりは犬に近い。後から決して回収してはもらえないのだから)。このカプセルとなるのが、亡命者の言語である。そして、このメタファーにけりをつけるためには、さらにこうつけ加えなければならない。このカプセルに乗り込んだ者は、それが地球のほうに引かれるのではなく、外側に引かれて行くということに、やがて気づくのだ、と」(「われわれが亡命と呼ぶ状態」からの抜粋、「解説」より、59ページ)
ミラン・クンデラの『無知』や、アゴタ・クリストフの『文盲』を思い出さずにはいられない。ブロツキーは英語で、彼らはフランス語で書いたが、それはカプセルの外側との交流に必要なことだったからであって、そのこと自体が、母国からの逸脱を意味しているのだ。まさしく、「外側に引かれて行く」。亡命というじつに現代的な悲劇の元凶、政治についても、ブロツキーはこんなことを言っている。
「もしもわれわれが支配者を選ぶときに、候補者の政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう」(21ページ)
「少なくとも、ディケンズの小説をたくさん読み耽った者にとって、いかなる理想のためであれ自分と同じ人間を撃ち殺すことは、ディケンズを読んだことのない者にとってよりも難しいだろうと、私は――経験からではなく、残念ながら理屈の上だけですが――考えます」(24ページ)
永遠なるものは、いつだって文学のほうである。政治、なにするものぞ。ブロツキーを亡命者にしたロシア(ソ連)は、今日のロシアではない。だが、ブロツキーの言葉は永遠だ。ボルヘスの言葉が、重く響いてくるではないか。「現代的であろうとする必要などありません。すでに現代を生きているのですから」(『The Last Interview』138ページ)。
「言語と、そしておそらく文学は、いかなる社会組織の形態よりも古く、不可避で、また永続的なものではないでしょうか。文学がしばしば国家に対して表現する憤慨や、皮肉、あるいは無関心といったことは、本質的には、一時的で制限されたものに対して、恒久的なもの――と言うか、無限なもの――が示す反応なのです」(11〜12ページ)
「国家の哲学も、国家の倫理も、そして言うまでもなく国家の美学も、常に「昨日」です。それに対して、言語や文学は常に「今日」であり、それどころか、しばしば――特に政治制度が正統的なものである場合には――「明日」にもなります」(12〜13ページ)
そして、ここがいちばんおもしろかったのだが、ブロツキーは、言語のほうが詩人を使役する、と断言している。
「詩人が言語を自分の道具にしているわけではありません。むしろ、言語のほうこそが、自らの存在を継続させるための手段として詩人を使うのです」(31ページ)
「詩を書こうとする行為からただちに生ずる結果は、言語と直に接触しているという感覚です。いや、より正確に言えばそれは、言語に対して、そしてその言語で述べられ、書かれ、実現されたことのすべてに対して、ただちに従属関係に陥っていくという感覚でしょう」(32〜33ページ)
「詩人とは言語が存在していくための手段なのです。あるいは、偉大な詩人オーデンが言ったように、詩人とは言語が生きるために必要な糧なのでしょう」(33ページ)
そして、「明日」が見えてくる。いや、永遠なるものが「明日」を見せてくる。
「詩を書き始めるとき、詩人は普通、それがどう終わるか知りません。そして時には、書き上げられたものを見て非常に驚くことになります。というのも、しばしば自分の予想よりもいい出来ばえになり、しばしば自分の期待よりも遠くに思考が行ってしまうからです。これこそまさに、言語の未来がその現在に介入してくる瞬間に他なりません」(34〜35ページ)
ここまで語ってしまうと、内容をまるきり要約してしまっているように見えるだろうか。もうこの本を手に取る必要なんてない、と。そう考えるひとは、断言してもいいが、文学を、詩を、ブロツキーをなめすぎている。じっさいに読んでみたら、きっとびっくりするだろう。これは、どの家庭の本棚にも一冊置かれているべき本だ。この本に語られていることと無関係なひとなど、世界中のどこにもいない。
〈読みたくなった本〉
ブロツキー『レス・ザン・ワン』
ブロツキーによるこのエッセイ集の邦訳は、この本が刊行された1996年の段階で「みすず書房、近刊予定」と書かれているのだが、二十年が経った現在でも、まだ刊行されてはいない。わたしはすでに英語で読みはじめたのだが、ロシア文学の話題が多いため、丁寧な訳注付きの邦訳を渇望している。沼野充義ほどのひとがすでに翻訳原稿を用意しているというのに、それがいまだに陽の目を見ていないというのは、日本の出版業界全体にとって、恥辱でしかない。いまでも待っているひとは、たくさんいるはずだ。
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詩というものが恥も知らずに
塀の脇の黄色いタンポポのように
アカザや道端の雑草のように
どんなごみくずから育ってくるか
あなたが知っていてくれたら
(「訳注」より、39ページ)
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