伝奇集
文学通を気取るのならば、ラテンアメリカは避けられない。だが僕がこれまでに読んだラテンアメリカの本はガルシア・マルケスの『戒厳令下チリ潜入記』だけだった。「ラテンアメリカ文学」ではなく「ラテンアメリカの本」と書いたのは、ガルシア・マルケスのそれが岩波新書から出たルポルタージュで、僕が手に取ったのもネオリベラリズムを熱心に批判する論拠を得るためだった。ラテンアメリカ文学を意図的に避けていたのだ。ヨーロッパ文学で読んでいないものがあまりに多いことから、自分にはまだ早いと思い続けていた。その予感は正しかったように思う。文学として初めて手に取ったボルヘスの世界は、僕が期待していた以上に僕を混乱させてくれた。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(鼓直訳)『伝奇集』岩波文庫、1993年。
ボルヘスの凄さは、ほとんど理解できないのに何故か面白いところだ。彼の意図を十全に汲み取ったとはおよそ言い難いのに、読んでいると楽しい。文章自体が楽しいのではなくて、文章を読みながら膨らませていく自分の空想が楽しいのだと気が付く。それは「魔術」の定義として、完璧なものではないだろうか。以下、収録作品。
「八岐の園」
「プロローグ」
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
「アル・ムターシムを求めて」
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」
「円環の廃墟」
「バビロニアのくじ」
「ハーバード・クエインの作品の検討」
「バベルの図書館」
「八岐の園」
「工匠集」
「プロローグ」
「記憶の人、フネス」
「刀の形」
「裏切り者と英雄のテーマ」
「死とコンパス」
「隠れた奇跡」
「ユダについての三つの講釈」
「結末」
「フェニックス宗」
「南部」
どこから始めたらいいのかわからない。読んだ端から抜け落ちていってしまう箇所が多々あって、膨大な訳注を繰る必要性すら感じられなくなってしまう。抜け落ちた箇所を読み返すと、何とも驚くべきことに、面白い。そして読み進めると、抜け落ちる。迷宮である。
先にラテンアメリカ文学の初体験だと書いたのを思い返してもらいたい。読んだ人にはわかると思うが、一番初めに「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を読んだときには、この本を最後まで読み通すことができるかどうか、甚だ不安になった。国書刊行会からスタニスワフ・レムの「実在しない本の書評集」が出ていたと思うが、『伝奇集』もそれと並ぶべきものなのかもしれないと思った。「アル・ムターシムを求めて」を読むと、尚更不安になった。「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を読む頃には、必ずしも理解する必要がないことに気が付いた。すると、急に読みやすくなった。
「彼はべつの『ドン・キホーテ』を書くこと――これは容易である――を願わず、『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした。いうまでもないが、彼は原本の機械的な転写を意図したのではなかった。それを引き写そうとは思わなかった。彼の素晴らしい野心は、ミゲル・デ=セルバンテスのそれと――単語と単語が、行と行が――一致するようなページを産みだすことだった」(「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」より、58~59ページ)
ボルヘスの短編は着想だけで書かれているようなものだ。圧倒的な知識が、単なる着想を短編に、それも長大な大作に見紛うような短編に仕立て上げている。そしてその知識は同時に、誰にも生み出せない着想を可能にしているのだ。他の誰に「バベルの図書館」が書けるだろうか。ボルヘスという存在自体が芸術なのだ。それは稀有ですらない。芸術という分野における、奇跡なのだ。
「やがて彼は、現実はおおむね予想とは一致しないことに気づいた。妙な論理だが、ある情況の細部の予見によってそれが起こるのを防げると結論した。彼はこの心許ない魔術的論理に忠実に、まさに起こらしめないために恐ろしい細部を練りあげていき、当然のことながら最後には、それらの細部が予言となることを恐れた」(「隠れた奇跡」より、203~204ページ)
「工匠集」に入ると、ミステリーの要素が増え(「刀の形」「死とコンパス」など)、いくらかとっつきやすくなる。平易になったボルヘスの文章ほど恐ろしいものはない。すんなりと入ってくる分、彼の着想の凄まじさが一層強く伝わってくるのだ。
何と評価したらいいかわからない。「天才」という言葉が、自分に理解できないほどの圧倒的な才覚を示しているのなら、ボルヘスは天才だ。何度も読み返して、彼を天才と呼ばずに済むようになりたいと思った。
<読みたくなった本>
チェスタトン『詩人と狂人たち』
スタニスワフ・レム『完全な真空』