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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

無知

ミラン・クンデラが祖国チェコを舞台に描いた、郷愁の叙事詩

無知

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ミラン・クンデラ(西永良成訳)『無知』集英社、2001年。


オデュッセウスはカリュプソーのもとで真のドルチェ・ヴィタ(甘い生活)、安楽な生活、歓びの生活を経験した。それでも彼は、異郷でのドルチェ・ヴィタと故郷への危険な帰還とのあいだで、帰還のほうを選んだのだ」(13ページ)

ラファティ『宇宙舟歌』とはテンションがまるで違うが、こちらもホメロス『オデュッセイア』を下敷きにした物語だ。大いなる帰還を実現したオデュッセウスは、果たして彼の地で幸福だったのか。フランスとデンマークに渡った二人の亡命者が二十年ぶりにチェコに帰還し、我々読者は彼らを通じてオデュッセウスの帰国後の心境を推測する。

「カリュプソー、ああ、カリュプソー! 私はしばしば彼女のことを考える。彼女はオデュッセウスを愛した。ふたりは七年ものあいだ一緒に暮らした。オデュッセウスがどれだけのあいだペーネロペーと同衾していたのかは知られていないが、きっとそう長いあいだのことであるまい。それなのに、ひとはペーネロペーの苦しみを称揚し、カリュプソーの悲しみを無視するのだ」(14~15ページ)

「あらゆる予見は間違う。それが人間にあたえられている稀な確信のひとつだ。しかし、たとえ予見が未来について間違うのだとしても、予見はそれを述べる者たちについての真実を語る。予見は彼らがみずからの現在時をいかに生きているのかを理解する最良の鍵になるのだ。私が最初の二十年と呼ぶあいだ(1918年と1938年のあいだ)、チェコ人は自分たちの共和国のまえには無限が開けていると思っていた。彼らは間違っていた。だが、まさしく間違っていたからこそ、それらの年月を歓喜のうちに生き、その歓喜がかつてなく彼らの芸術を花開かせたのだ」(18ページ)

彼らが祖国を失ったことは、その彼らの二十年ぶりの帰還によって立証されてしまう。舞い戻った祖国で目にするものは、求婚者たちの横暴なのだ。

「昼には、故国の風景の断片を幸福のイメージのように送ってくれるのと同じ潜在意識の映画作家が、夜になると、その同じ国へのぞっとするような帰還を組織した。昼は捨てた国の美に照らされ、夜はそこにもどる恐怖に照らされた。昼は彼女が失った楽園を、夜は彼女が逃げ出した地獄を見せてくれたのだ」(22ページ)

「イレナやオデュッセウスのように、あまり頻繁に同国人たちと付き合わない者たちは、不可避的に健忘症に襲われる。彼らの郷愁が強ければ強いほど、その郷愁からますます想い出がなくなるのだ。オデュッセウスは憔悴すればするほど、ますます忘却する。なぜなら、郷愁は記憶の活動を強めず、想い出を呼び覚まさず、ひたすらその苦しみだけに吸収され、それだけで、みずからの感動だけで、充足するから」(40ページ)

「二十年のあいだ、彼は自分の帰還のことしか考えていなかった。しかし、いったん帰国してみると、自分の人生、自分の人生の真髄、中枢、秘宝がイタケーのそと、二十年の彷徨のなかにあることを理解して驚いた。そしてその秘宝、彼はそれを失い、それを見出そうとすれば、ただ話すことによってでしかなかったのだ」(41ページ)

祖国の誰も、亡命先の生活については尋ねてこない。旧友たちは彼らの不在の折、祖国がどのような窮状にあったかを語るだけだ。オデュッセウスは旅先で何度も尋ねられた。お前はどこから来て、どこへ行くのか。帰国したオデュッセウスに、誰が彼の遍歴を尋ねるというのか。そこにあるのは圧倒的な無関心だけだ。

「死ぬこと。死のうと決心すること。それは成人よりも未成年者のほうが、はるかにやさしい。何だって? 死は成人よりもはるかに大きな未来の部分を未成年者から奪うのではないか? たしかにそうだ。しかし、若い人にとって未来とは、はるか遠くの、抽象的な、非現実的なものであり、若い人は未来など本気では信じていないのだ」(114ページ)

「人間の平均寿命は八十歳である。各人はこの長さを考慮しながらみずからの人生を想像し、組織する。いま私が言ったことは、誰でも知っているけれども、私たちにあたえられた年数が(鼻の長さや眼の色といったような)たんなる量的な所与、外的な性質ではなく、人間の定義そのものの一部になっていることに、ひとはめったに気づかない。あらゆる力を保ったまま、ひとより二倍も長く、ということは、まあ百六十年も生きられる者は、私たちと同じ種族には属さない。彼の人生にあっては、もはや何ひとつ同じではなくなることだろう、愛も、野心も、感情も、郷愁も、何ひとつ。もしある亡命者が外国で生活した二十年後、まだ百年の余命をもって故国にもどったとすれば、彼は大いなる帰還の感動などちっとも覚えないことだろう。彼にとってはきっと、それが帰還などでは全然なく、長い人生航路の数多くの迂回のひとつにすぎなくなるだろう」(131ページ)

イレナとグスターヴ、ヨゼフとミラダ。決して多くはない登場人物たちの応酬が、亡命という事象の孕む暴力性を明らかにしていく。

相変わらず、詰め込み過ぎだ。だからクンデラはやめられない。あらゆることを考えさせられる。ちなみに若き日のイレナの愛読書の一つにボフミル・フラバルの名があって、過去の作家として取り上げられていることに妙な違和感を感じた。

「移民の文学」と呼ばれるものは今や一つの文学ジャンルとして確立された赴きがあるが、クンデラの『無知』こそ、亡命ということを扱った最高の作品ではないだろうか。郷愁とはどういうことか。この話題に興味のある方は、是非。 

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