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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

来たるべき蜂起

おそらく今年最もショッキングな出版物の一つに数えられるであろう、彩流社の先月の新刊。『不純なる教養』に紹介されていたことから手に取った。

来たるべき蜂起

来たるべき蜂起

 

不可視委員会(『来たるべき蜂起』翻訳委員会訳)『来たるべき蜂起』彩流社、2010年。


まず、これはフランスにおいてcomité invisible(不可視委員会)なるグループが著した“L'insurrection qui vient”という書籍の翻訳である。訳者も「『来たるべき蜂起』翻訳委員会」に依るものとなっていて、表紙には個人名が一切ない。手掛かりとなるのはジュリアン・クーパーがこの本を評した言葉、「取り返しがつかないほど正しい」のみ。そこには一体何が書かれているのか。

「この本には架空の集団名が付されている。編纂者たちは作者ではない。ただこの時代のありふれた考え、バーのテーブルや閉ざされた寝室での囁きを多少整理したにすぎない。つまりは必然的な真理を書き留めただけである。だが、こうした真理の全面的抑圧が、精神病院を患者であふれさせ、人びとの眼差しを苦しみで満たしているのだ。編纂者たちは状況を書き記す代筆者となった。根源的な状況にあることの特権とは、その状況を正確に把握すれば、必然的な成り行きとして革命に行き着くということである。それゆえ、われわれの眼前に何があるかを述べ、結論を回避しなければそれで十分だ」(「序」より、12ページ)

日本で生活している人びとは、自分たちがどれほど危機的な状況に立たされているかに気がついていない。それを知っているごく少数の人びとは、これを打破することを根底から諦めてしまっている。諦めるということは、社会の理不尽を受け入れて耐え忍ぶということだ。その姿勢は、例えば革命の困難を考えたときには利口だとさえ思える。実際、僕自身も含めて、社会に不満を持っている人びとは大勢いるが、立ち上がろうとする者はどこにもいないように見える。だが、立ち上がることを思いとどまらせる思考様式そのものが統制の賜物であったとしたら? 立ち上がっている人びとが実際には沢山いるのに、権力者がそれをひた隠しにしていただけだとしたら? 『来たるべき蜂起』は、蜂起という可能性を提案する。

「現行の社会には、血の一週間ののちにパリに残されたモニュメントの残骸ほどの価値さえないし、社会自体がそのことを知っている。そうした社会のなかで、ひとは道に迷った子供のように、目前にあるがらくたを手当たり次第に燃やしたのである」(「序」より、9ページ)

ギリシャで起こっていることが日本でまるで報道されていないのは何故なのか。まれにメディアが伝えることといえば、警官や無力な一般市民が蜂起に巻き込まれ犠牲になったということばかり。だが、「無力な一般市民」以外の誰に、デモやストライキができるというのだろうか。「テロ対策」用の特殊部隊が惜しげもなく「無力な一般市民」に銃口を突きつけているというのに、何故ニュースは人びとの蜂起を特定の少数派による「テロ行為」と規定し、矮小化してしまうのだろうか。

「うわべを取り繕うだけの生活に対して、犯罪手段に訴えたほうが屈辱的でもないし実入りも多いということに気づいた者は、手に入れた武器を手放さないだろうし、投獄されたところで社会への愛が植えつけられることもないだろう」(「序」より、10ページ)

蜂起において、法に触れるなどということは問題にならない。デモは無届けで行われるべきだし、警察権力は積極的に解体すべき敵と見なされるだろう。そもそも「テロリスト」とはどこにいるのか。「テロ対策」用に組織された特殊部隊以上に、人びとを恐怖に陥れる存在がどこにいるというのだろうか。『来たるべき蜂起』の巻末に収められたエリック・アザンとアラン・バディウの文章「テロリストはどこにいるか」は象徴的である。そこに挙げられているフランスの刑法におけるテロリズムの定義は「脅迫ないし恐怖により、公共秩序をいちじるしく乱すことを目的とした個人的ないし集団的な侵害行為」だそうだ(161ページ)。公共秩序を乱すほどのストライキを招いた権力者がそれを鎮静させるために特殊部隊を派遣する。ファシズムの時代は終わったはずだったのではなかったか。

「「治安監視市民委員会」の一員などという得体の知れない教師が夜のニュース番組に出演して、彼らの学校が燃やされたと泣き言を並べているのを見ると思い出すのである、われわれが子供の頃、自分がどれだけ学校を燃やしたいと夢見ていたかを」(「第二の環」より、26ページ)

この本に描かれた現代社会が直面している問題自体は、さして真新しいものではない。真っ当な社会学者たちが何度も繰り返してきた言葉が専門用語抜きで語られているだけであり、そしてそれら様々な警鐘が「多少整理」されているだけなのだ。だが、それを総体として見せつけられることの恐怖は何と凄まじいものだろう。『来たるべき蜂起』の前半部は序章と七つの「環」から成り、そのダンテの『神曲』、中でも「地獄篇」を想起させる「環」は「この世界の諸相である個人、社会、労働、メトロポリス、経済、環境、文明をめぐる地獄のような「出口なしの現在」」を描き出しているのだ(「蜂起のコミュニズム」より、174ページ)。

「われわれが生活しているこのよそ者同士の集合を「社会」と呼ぶことは詐称であり、社会学者さえも自分たちが一世紀来飯の種にしてきたこの概念を放棄しようと考えているくらいである。社会学者はいまではネットワークというメタファーを好んで用い、サイバースペース上で孤立した者同士がいかに接続され、「同僚」「交際」「友だち」「関係」「恋愛」といった名で呼ばれる脆弱な相互関係がどう取り結ばれるのかについて記述する。だが、そうしたものをネットワークと呼んだところで、それらは結局のところひとつの界(ミリュー)として固着してしまう。そこではコード以外何も共有されず、アイデンティティの絶え間ない再構築が行なわれるだけである」(「第二の環」より、28ページ)

例えばドゥボールの有名な言葉「スペクタクル社会」を体現するかのごとく、現在では世界のありとあらゆる場所に監視カメラが設置されている。そして新自由主義的な「小さな政府」が至るところで組織され、ネグリ的な<帝国>がグローバル化の名の下に支配力を強化している。七つの「環」で語られる様々な議論を一つ一つじっくりと読み解いていけば、ここで語られていることをこういった専門用語と結びつけることは容易い。だが不可視委員会の語ることにどれほど学者たちの理論の片鱗が見え隠れしようと、『来たるべき蜂起』はどんな学者の名前も専門用語も挙げていない。問題になっているのは専門用語や固有名詞ではなく、語られている現状の危機そのものなのだ。そこにはどんな権威付けも存在しない。故に、恐ろしいまでに迫ってくる。

「労働の恐ろしさは労働そのものよりも、労働以外のあらゆる物事を何世紀にもわたって徹底的に荒廃させたことにある。労働により、自分の住む界隈や村落、親類関係からは親密さが失われ、職業はよそよそしいものとなり、闘争は縁遠いものとなってしまった。場所や存在や季節に対する愛着は破壊され、人びとはいまや自分の振舞いや話しぶりにすらこだわりを持たない」(「第三の環」より、37ページ)

「生産の根拠を失ったこの社会において、支配的な営為になりつつあるのは、自分自身を生産することである。あたかもアトリエを奪われどうしようもなくなった家具職人が、自分をかんなで削りはじめるようなものだ」(「第三の環」より、41ページ)

個人主義新自由主義グローバリズムエコロジズムも、一つの同じ文脈で語られることで一層危ういものと映る。現代社会がそういった観念の総体として浮かび上がるとき、そこにあるのは確かに、もはや社会ではない。現代の監視カメラが『1984年』の「テレスクリーン」ではないと、一体誰に断言できるのだろうか。サイードが知識人であることを辞めた専門家たちの言葉が「ニュースピーク」に限りなく近いと指摘していたことも思い出す。オーウェルが高らかに鳴らした警鐘は、今こそ耳を傾けられるべきなのだ。

「労働を超えて、労働に抗して自己組織化すること、動員体制から集団的に離脱すること、動員解除そのもののなかに生命力と規律を見出し、それを表現すること。窮地に追い込まれた文明はこうした行為を犯罪とみなし、それを許そうともしない。だがこれこそが、現在の文明を生き延びる唯一の方法なのである」(「第三の環」より、43ページ)

「2005年11月のパリ郊外の火は、くり返し言われたように、極度の剥奪状態から生じたのではない。逆に、その領土を十分に把握していたからこそ、あれほどの炎を生み出すことができたのである。ひとはうんざりして車を焼くこともできるが、一ヵ月にわたって暴動を拡大させ、警察がしくじり続けるようにするためには、まず、自己組織化されていなくてはならないし、確実な共謀関係によって結ばれていなければならない。さらにその土地を知り尽くし、言葉を共有し、共通の敵を認識する必要がある。空間的、時間的な遠さが、炎の拡大を妨げることはなかった。誰も予期しない場所、時間に、はじめの炎に応えるべく、新たな炎が次々と燃え上がったのである。うわさを盗聴することはできないのだ」(「第四の環」より、49ページ)

これはフランスの本だが、問題になっているのはフランスだけではない。蜂起はギリシャで起こっているのだし、そもそもこの本は国家を単位として考える思考様式自体に異議を唱えている。何故この本が世界に広まり、日本においてさえ翻訳され得たのか。その意味は自ずと明らかになってくるだろう。

「移動やコミュニケーション手段の多様化によって、われわれはつねに他の場所にいたいという誘惑にかられ、ひたすらいまここから引き剥がされている。フランス高速鉄道やRERを頻繁に利用し、携帯電話で話しつづけるのは、すでに向こうにいるためである。こうした可動性は必然的な帰結として分離、孤立、流浪といった状態しかもたらさない。それゆえこの可動性が、モバイルなどというあのポータブルな内的世界、私的空間にとどまらないとすれば、それは誰にとっても耐えがたいものとなっていたはずである」(「第四の環」より、52ページ)

「いわく、環境問題が重要なのは、それが人類にはじめてグローバルな問題を提起することができたからである。グローバルな問題とはつまり、グローバルな組織だけが解決策をにぎる問題ということだ。その組織が何者であるかは周知のとおりである。それは一世紀も前から先頭に立って自然破壊を推し進め、ごくわずかなロゴの手直しだけで今後も先陣をつとめようとしている諸々の企業グループのことである」(「第六の環」より、73ページ)

環境問題もテロ対策も、使われる用途は同じである。それが何らかの「危機」であると喧伝することによって、権力者は新たなる非常事態を宣言する。「「環境のカタストロフ」は存在しない。あるのは環境というカタストロフだけだ」(「第六の環」より、70ページ)。この言葉は輝いている。

後半部に入るとそれまでの現状確認は終わりを告げ、今度はいかに世界と抗していくかが語られる。前半が理論ならば、後半はその実践なのだ。フランスの警察はこの『来たるべき蜂起』を「テロのマニュアル」と呼び弾圧を行った。それはもちろん「テロリストはどこにいるか」という文脈を無視してのことである。

「もはや日々のニュースに反応する必要はない。必要なのは、それぞれの情報を、敵の戦略が推し進める作戦(オペレーション)のひとつとして解読することである。その作戦はまさしく、特定の人びとに特定の反応を引き起すことを狙っている。ゆえに重要なのは、そうした作戦を、表面上の情報に含まれる真の情報として把握することである」(「出発!」より、96ページ)

メトロポリスの技術的なインフラは脆弱である。メトロポリスの流れは人間や商品だけではなく、電線やファイバーや配管のネットワークを通して情報やエネルギーを運んでいる。そこを攻撃することは可能だ。今日、社会機械をサボタージュし、なんらかの結果を生み出すことは、ネットワークを遮断する手段を奪回し、その手段を新たに発明するということである。いかにしてフランス高速鉄道の路線や電気網を使用不可能にするか。どのように情報網技術ネットワークの弱点を見つけ出し、ラジオ電波を妨害し、テレビ画面を真っ白にするか」(「自己組織化」より、116ページ)

インターネットも携帯電話も、ラジオもテレビもない世界。そんな世界を一時的にでも復活させることができたら、われわれはどれほど多くのものを取り戻せるだろう。そのとき行われるのは人びとの自己組織化であり、この本で「コミューン」と呼ばれるその組織は、先日『大学の歴史』を紹介するときに挙げた「ナチオ」、同業組合の意味も持つ原初的な「ウニヴェルシタス(=大学)」とも通ずるものである。自己組織化が取り戻すものの中には、知そのものも含まれているのだ。

「国家とはひとつのフィクションにほかならず、もはや存続することはできない。政権をにぎる者ですら、国家をしだいに無用の長物のように感じ始めている。なぜなら少なくとも、武力を行使してまで闘争を引き受けるはめになるのは彼ら自身だからだ。彼らはなんのためらいもなく、郊外の暴動を鎮圧するため、さらには郵便物仕分局を占拠する局員を排除するために、対テロリスト先鋭部隊を投入する」(「焦点を合わせる」より、144~145ページ)

「われわれは、一致団結して社会的不平等や地球温暖化と戦うといった美しい叙事詩に立ち会うことになるのだろうか。しかしあなた方も認めるだろうが、危機のなかで生まれ、危機しか知らないわれわれの世代――経済危機、財政危機、社会危機、環境危機――は、そうした物語をおいそれと信じたりしない。われわれはもう危機という策謀には騙されないし、「ゼロからの出発」だとか「少しのあいだ痛みに耐えるだけでよい」などという言葉にも踊らされない」(「焦点を合わせる」より、146ページ)

ところで、この『来たるべき蜂起』が語られるときには常にある事件が同時に語られている。2008年11月11日の「タルナック事件」である。

発端は11月7日の夜にフランス高速鉄道TGV)の架線四ヵ所に仕掛けられた「鉄の鉤」で、この妨害工作は列車の運行に乱れをきたした。メディアはこれを大事故を引き起こしかねない悪辣な「破壊工作」として報道し、二日後にはあるドイツの反原子力活動グループが犯行声明をドイツの日刊紙に送っている。そこには高速鉄道への妨害が同日のフランスからドイツへの放射線廃棄物輸送に反対するためのものだったことが明記されていた。ところがそのドイツからの便りは無視され、11月11日にタルナックの村に住む若者グループが「対テロ実行部隊」によって逮捕される。証拠品として挙げられたのは「列車の運行時間が市町村ごとに記された文書」で、そこには「各駅の到着時刻と出発時刻までが記載されていた」とのこと。つまり単なる鉄道の時刻表である。他に警察が発見したのは田舎の民家ならばどこにでもあるハシゴ、そしてとりわけ決定的な証拠として持ち出されたのが民家にあった一冊の書物、この『来たるべき蜂起』だった。逮捕された上に著者として嫌疑をかけられたのが冒頭に挙げた青年ジュリアン・クーパーで、彼は自身が書いたという疑念を否定しながら、それでもこの本は「取り返しがつかないほど正しい」と言ったのだった。彼は2009年5月28日までおよそ半年にわたってサンテ刑務所につながれ、そのあいだ人びとは彼の解放を求めて署名活動やデモを敢行した。2009年1月31日には覆面をした3000人のデモ集団がサンテ刑務所に押しかけ、「われわれはみなテロリストだ」と叫んだという。

翻訳された『来たるべき蜂起』の巻末にはジュリアン・クーパーの逮捕に抗して書かれた文章が掲載されている。署名運動に参加したのがランシエールやバトラー、ジジェクらであったのと同様に、この文章の執筆陣も凄まじく豪華である。

「今日、社会問題ないし経済問題がマネージメントされるそのやり方(つまりきわめて疑わしい)に対して積極的に抗議しようとする者は、告発に値するようないかなる現実的行為をともなわずとも、それだけで潜在的なテロリストとみなされるということだ」(ジョルジョ・アガンベンテロリズムあるいは悲喜劇」より、160ページ)

ジュリアン・クーパーと革命前夜の人物シュヴァリエ・ド・ラ・バールを比較したエリザベート・クラヴリーとリュック・ボルタンスキーによる「キリスト像とカテナリー」が面白い。ラ・バールは十字架像を切りつけた容疑で逮捕され、ヴォルテールの『哲学辞典』を保持していたことを理由に、証拠が挙がらないまま国王の介入によって処刑されてしまった人物である。

「ラ・バールおよびその仲間たちが告発されたのが、犯罪を犯したはずだという推定にもとづくものであったのに対し、われわれの友人であるタルナックの若者たちは、いずれ犯行におよぶにちがいないという憶測にもとづいて告発されたのである。タルナックの若者たちは、不確定な未来に犯すだろう犯行ゆえに弾圧されてしまったのだ。スピルバーグが映画『マイノリティ・リポート』で予見した全体主義世界は、われわれの間近ですでに展開されている現実なのである。この現在の全体主義から見れば、アンシャン・レジーム期に絶対主義権力が用いていた道具立てなど児戯に等しい」(エリザベート・クラヴリー/リュック・ボルタンスキー「キリスト像とカテナリー」より、168ページ)

『来たるべき蜂起』は新たなる『哲学辞典』と成りうるのだろうか。少なくともこの本が情報統制によって閉ざされた世界を捉えなおす、新たなる視座を読者に与えることは間違いない。それは文字通りの啓蒙である。

「現状確認にとどまるものは真実の名に値しない。それぞれの振舞い、実践、関係、状況といったものの背後にはなんらかの真実が隠されている」(「出会い」より、99ページ)

この本に書かれていること全てに賛同できるわけではない。だが、それでもこの本は「取り返しがつかないほど正しい」。現状確認にとどまるな、と不可視委員会は言うけれど、さしあたってわれわれに必要なのは啓蒙であり、凄惨な現実に目を向けることだろう。この本は大勢の人の手に渡って、受け入れがたい現状を確認させる使命を帯びている。まずは人に広めて、大いに議論してみたい。その議論の相手がそのまま自己組織化のパートナーとなるのなら、蜂起はもう、すぐそこにある。

来たるべき蜂起

来たるべき蜂起

 


<読みたくなった本>
ヴォルテール『哲学辞典』

哲学辞典

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