大学の歴史
『不純なる教養』を読んで知った、大学という概念を捉えなおすための一冊。最近人文系の本ばかり読んでいるのは、世界観に入り込む必要のない人文書の気安さが心地良いから。でも、こう人文書続きの生活を送っていると無性に文学が読みたくなってもくる。素晴らしい循環である。
- 作者: クリストフシャルル,ジャックヴェルジェ,Christophe Charle,Jacques Verger,岡山茂,谷口清彦
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2009/10
- メディア: 単行本
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クリストフ・シャルル/ジャック・ヴェルジェ(岡山茂/谷口清彦訳)『大学の歴史』白水社文庫クセジュ、2009年。
歴史学の本を読む楽しさは、かけがえのないものだ。そういえば僕は歴史学を専攻していたんだな、と感慨に耽ってしまう。歴史書を読むという行為を通じて得られる感覚は、探しものに限りなく近い。歴史書は哲学や社会学の本のように、明快な論理や結論を与えてくれるものではないのだ。まず問われるのは読者に内在する問題意識である。どういう情報をここから引き出したいのか、その目的なしに歴史書を読むことはできず、そしてこの問題意識は現在に対する批判から生じるものなのだ。現在を変革することが可能であるということに対する絶対的な信頼、それがいわゆる歴史意識なのである。
そんなことより大学の歴史である。この本は大学の起源からその第二次世界大戦前夜までの姿をコンパクトにまとめたもので、まず中世ヨーロッパにおける大学の誕生が語られている。原初的な大学がどのように組織化されていったかを見ると、それがいかに現況の大学とかけ離れた理念の元に誕生したものなのかがよくわかる。
「ボローニャが発展しはじめるのは十二世紀初頭からである。1155年、ボローニャの法律学校はすでに名高い存在であり、その名声は、皇帝フリードリヒ・バルバロッサが特別の庇護をその法律学校に認めたほどだった(「ハビタ」憲法)。とはいえ、その法律学校はいまだ個人でいとなまれる私立学校のままだった。つまり、教師の周囲に集う小規模な「結社」だったのである。事態が決定的に変化しはじめるのは1190年頃からである。学生たちは、権威ある教師のもとに集うことをやめ、出身地ごとに集結し「ナチオ(ネーション=同郷会)」と呼ばれるグループを形成するようになる(イングランド、ドイツ、プロヴァンス、ロンバルディア、トスカナなど)。教師は自分たちの属する自治都市に対して服従を誓うことを受け入れていたが、学生は自分たちで自律的な団体を組織する。団体を結成することを通じて、土地の住民が彼らに加えようとする危害から身を守り、学生同士の対立を解決し、教師たちと契約をかわす。つまり、学生自身が必要としている教育を彼ら自身で組織するのである。この学生たちの「ナチオ」は次第に「大学(ウニヴェルシタス=同業組合)」としてたがいに結集するようになる」(17~18ページ)
権威ある教師のもとに集うのではなく、団体を組織し教師と契約をかわす。上位の立場から教えをたれる教師というイメージはここには存在しない。まず、学生が自身を高めるための取捨があって、教師はそこに雇い入れられるのである。同業組合としての「ウニヴェルシタス」は権威の要請から生じたものではなく、むしろその反対で、権威を瓦解させるための組織化を原点としていたのである。ヒエラルキーの存在しない自治的な組合は革命的サンディカリスムを彷彿させる。
「教皇は学問機関を近代化しようとする勢力を決然と支持し、あらゆる大学の自治・自律を保障したのである。また、教皇のこうした働きかけそのものが、大学に対して広くキリスト教世界にひびきわたる権威を付与することにもなった。それゆえ大学はおのずと、キリスト教の至上理念につかえ、人びとをいわば教導するための機関として認識されるようにもなっていく」(23~24ページ)
ところが自治都市のはびこる中世ヨーロッパにおいて、この怪しげな学生たちが淘汰されないわけがない。そもそもの組織化に自分たちの身を守る意図が含まれていたことからも見てとれる通り、社会は彼らに対して協力的ではなかった。ここで権力が登場してくる。自治都市の権勢を挫き、自らの権威を増大させる目的の下に、国王や特に教皇が彼らを庇護下に置くようになるのである。同時期の例として、例えばフィリップ・オーギュスト(フィリップ二世)は南仏諸侯の支配力を弱めるためにアルビジョワ十字軍を敢行し、それまで傀儡でしかなかったパリをフランス王国の確固たる首都として君臨させることに成功した。権力者としての介入は国王や教皇にとっての急務だったのであり、それは大学にも適用されたのである(ちなみに、そもそも十世紀におけるカペー朝の発足自体が、強権を誇る南仏諸侯たちの闘争が結着しなかった帰結であった。パリ伯ユーグ・カペーは権力を持たない片田舎の領主であったが故にフランス国王に任命されたのであり、フィリップ・オーギュストの時代までそれは続いたのである。以上のようなことは宮下志朗『パリ歴史探偵術』やフェルナン・ニール『異端カタリ派』に詳しい)。
「大学は次第に王政国家体制に組み込まれていく。たしかに大学は、それと引き換えにいくばくかの財政的な援助を受けることができるようになったし(教師の給与)、大学人のなかには、華やかなキャリアが保証された者もいただろう。だが、それまで大学が誇っていた自治は後退していく。パリ大学をはじめ、すでに長い歴史を有していた大学では、そうした自治の衰退に対して抵抗が試みられたが、それもいずれ終息してしまう」(29~30ページ)
大学がとりわけ教皇に取り込まれることで生じたのが、神学の隆盛である。「哲学は神学のはしため」という言葉は古いものだが、その効力が失われることはなかった。
「人文学部の困難は続いた。誰もが認めていたように、人文学部は自律的なものではありえなかったからである。たしかにそれ自体は発展を遂げたものの、人文学部は依然として高等課程に進むためのたんなる準備課程であり、高等課程の要求に従わなくてはならなかった。その高等課程の中心とされたのは聖なるものについての学である」(39~40ページ)
中世における準備課程と高等課程の対比は、現代における文学と経営学の対比にも成りうる。つまり人文学と実学の、学ぶことに意味がある学問と学んだことの結果に意味がある学問の対立である。準備課程としての人文学を学び続ける学生は、中世の時点で既に社会的なヒエラルキーから疎外されていた。だが『不純なる教養』で紹介されていたとおり、これら不良学生(ゴリアール)たちの中からダンテやマイスター・エックハルト、ヴィヨンやデカルトが生まれてくるのである。
「近代思想の基礎をなしているのは中世の思想である。中世の思想こそ、長いあいだ誤解されてきたのち、正当に再評価されようとしているのだ。中世の大学人たちはこのうえなく忠実に「原典」にもとづきながら、自分たちが進歩をもたらす主体であることをはっきりと自覚していた。「巨人の肩に乗った小人は、その巨人よりも遠くを見ることができる」。これははやくも十二世紀、司教座聖堂付属の学校長シャルトルのベルナルドゥスが述べた言葉である」(36ページ)
とはいえ見ての通り、この人文学と神学の対比は、就職先を見つけることができるか否かという問題を孕んでいる。これが原初的な大学の誇っていた機能を徹底的に瓦解させるものであることは、わざわざ強調するまでもないだろう。
「学位を授与された学生たちの知識は、のちの社会生活のなかで換金可能な「社会資本」へと変換された」(44ページ)
人文主義者は当然、批判を繰り返していく。教会が大学に対して強制した厳格なスコラ神学は哲学の解放を妨げるものであり、偏重なラテン語学習の方式は時代に合わないものとなっていた。批判の声を挙げる人文主義者の姿には「ナチオ」を形成していた頃の学生たちの姿を見ることができる。ただし、既に彼らは大学の外で活動するようになっていた。
「人文主義者は、あらたな文献学的、修辞学的な読解方法を、聖書の解釈にまで適用するようになる。彼らはまた、ラテン語のみならず、ギリシア語やヘブライ語といった古代言語の研究を推し進めたほか、俗語を学問にふさわしい言語にまで高めようとつとめた」(51ページ)
こう見ると、ダンテが『神曲』を書いたときに使ったのがラテン語ではなくトスカーナ地方の方言であったことは象徴的である。そして中世は終わる。近代に入ると、政治権力による大学の管理は一層手の込んだものとなる。
「かつての学生たちの「ナチオ(ネーション=同郷会)」が行使することのできていた影響力はことごとく失われていく。いまや大学当局のあり方は、教師やコレージュ長から成り立つ狭量な寡頭体制でしかなく、大学を管理しようとする公国の官吏(イタリアのリフォルマトーリ・デッロ・ストゥディオやドイツのクラートル)がつけこんだのは、そうしたあり方へと還元された大学当局の従順さである」(58ページ)
「こうした国家による大学の支配がさしたる抵抗もなく進められた背景には、国家が次第に大学教師の俸給や大学施設の建設(ときには豪勢な大学施設が建設された)にかかる費用を負担するようになっていったという事情がある。じじつ、イギリスの大規模なカレッジや、スペインのサラマンカ大学のように、立地にめぐまれ金利をあてにすることのできたいくつかの大学を別にすれば、運営のための充分な資源を確保できていた大学はまれだった。さらに国家は、高等課程の学位取得者のために、聖職や司法官の地位を多数用意していた。すなわち、学位取得者の就職口の大部分を掌握していたのも国家だったのである」(58~59ページ)
就職口を見つけるための大学、という姿は、十七世紀には既に表われている。学問という至上目的の為に組織されたはずの「ウニヴェルシタス」は姿を消し、同時に学生が大学に通う理由も変容してしまう。大学が知的な活動の場ではなくなり、しかもそれまで魅力的だった就職先が特権階級の世襲によって独占されるようになると、学生数は減少しはじめる。
「十七、十八世紀の大学の状況をめぐり、従来から指摘されてきたのは、学位取得者の有力な就職先とみなされていた官職が、世襲特権階級により独占されてしまったという事態である。こうした事態が、社会的出自のつつましい学生たちのやる気を失わせてしまったのだろう、と。だが、従来のこうした指摘には議論の余地がある。たしかに、それまで可能だった職歴のいくつかは困難なものになってしまった。ところで十七世紀から、学位取得者たちの「余剰」を危険なものとして批判する書物が、ヨーロッパ各地で出回るようになる。そうした批判は、学生数が減少した時期においてすら、執拗に繰り返された。すなわち、就職もせず無為に暮らすだけの気難しい「挫折した知識人」となるほかはない学位取得者をこれほどたくさん育てる必要があるのか、なぜ大学は、農業、手工業、商業にとって必要不可欠な人材を奪ってしまうのか、と」(72~73ページ)
このあとに続く文章は涙を誘う。
「こうした言説が意味しているのは、知的能力のみを評価し、それにチャンスを与えるという純然たる能力主義体制に対する拒否にほかならない。他方で、貧しい者たちが充分に学問に取り組むことのできる環境などどこにも用意されていなかった」(73ページ)
つまり「高学歴ワーキングプア」の誕生である。知的労働のポストは埋め尽くされており、既にその地位を獲得しているものがそれを目指そうとするものに批判を加えていく、という極めて現代的な状況が露出しはじめる。原初的な大学が保持していた価値は、ここで完全に消滅する。
「真の教育は、大学の外で獲得されるものとなってしまった。たとえばそれは、親から子へなされる教育であり、サロンでの会話だった。内輪の研究会や、各学生が行なう読書もそうだろう。あるいは真の教育は、就職してすぐに始まる実地での習得というかたちをとることもあった。いずれにせよ、学位が担っていた価値とは、既定の政治的秩序に対する忠誠を示す身振りのようなものでしかなく、そうした秩序へと社会的に帰属していることの証でしかなかったのである」(81ページ)
これも極めて現代的な状況である。いや、むしろ現代が十七世紀の状況から一歩も前進していないと言った方が適切だろう。就職活動を励行する大学、できるだけ楽な方法で単位を集めようとする学生、培われない学問と、資格化され切り売りされる学位。だが、大学の外で獲得される「真の教育」は極めて「ナチオ」的であり、同業組合の意味を兼ね備えた「ウニヴェルシタス」を彷彿させる。それは現代においても同じことである。
「パリ大学の反対をよそに創設されたこの王立コレージュ(フランス革命以降コレージュ・ド・フランスと呼ばれるようになる)は学位授与を行なわない機関であり、そこでは次第に非実利的かつ自由な立場にもとづいた高水準の教育が行なわれるようになった。こうした教育のあり方はコレージュ・ド・フランスの使命とされ、その使命は時代をへても変わることなく維持された」(86~87ページ)
大学の外で獲得される「真の教育」の象徴とも言うべきものがコレージュ・ド・フランスである。「非実利的かつ自由」であるということは、なんと魅力的なことだろうか。それは実学の立ち入る余地のない、学問の殿堂である。学位もなければ試験もない。ヴァレリーやフーコーなど、かつて教授に就任した人びとの顔ぶれは凄まじいものだ。そういえばツヴェタン・トドロフの新刊『文学が脅かされている』の中で、トドロフは出会ったばかりのジュネットとこのコレージュ・ド・フランスにおけるバルトの授業を聞きに行ったことを回想している。記号学の系譜を作り上げたこの三名が出会った場所として、これほど相応しいものもないだろう。ちなみにその後ジュネットもコレージュ・ド・フランスの教授に就任している。コレージュ・ド・フランスがその力を保ちつづける限り、「真の教育」が失われることはない。
大学史に戻ろう。十八世紀末の大革命によって、フランスの大学は1793年に閉鎖される。その後十九世紀に入ると、政権は自分たちにとって有益な人材を供給させるために大学を再編する。そこで繰り広げられた厳格な管理は、革命直前までのそれとなんら進歩していないものであった。
「パリへの過度の集中は、同時代人の批判やそれを阻止しようとする政府の配慮にもかかわらず改まらず、それゆえにさまざまな問題をひきおこした。法学部を除けばほとんどの大学人はパリにあるグランド・ゼコールの出身者であったため、パリに戻ることが主要な関心事だった。したがって地方では有閑人のためのサロンのような講座はあっても、真の意味で知的な活動はなされなかった。学生はパリのカルチエ・ラタンに集められ、潤沢な仕送りのある豊かな家の出身者以外は、生活と勉学の劣悪な条件に苦しめられた。しかし彼らのボヘミアンのようなパリでの生活は、寮に閉じ込められていた中学・高校での生活のあとの、世界へと解放される貴重な体験にほかならなかった。じっさい、多くの学生は1848年の王政復古や1830年の七月革命、そしてルイ=フィリップの七月王政のときにめざましく動き、その活躍はバリケード上や秘密結社のなかにもおよんだのである。そしてパリはヨーロッパの学生運動のモデルとみなされるようになる」(101~102ページ)
1848年は二月革命の起きた記念すべき年である。フロベールの『感情教育』を思い起こすと、確かにフレデリックもデローリエも学問を身につけようとはしているのだけれど全く大学に通っていない。他の登場人物たちも同様で、彼らの知識は大学の外――即ち「真の教育」――で培われたものであった。「潤沢な仕送りのある豊かな家の出身者」がフレデリックであり、「生活と勉学の劣悪な条件に苦しめられた」のがデローリエである。この章を執筆したクリストフ・シャルルは『感情教育』を念頭に置いていたに違いない。
面白いことに、同じ頃のロシアに関してはこんな事例が紹介されている。
「自由主義的な風土がニコライ一世の死後に定着すると、学生はさらに大胆になった。無能な教授を罵倒し、警察を挑発し、無神論や唯物主義を語り、1859年以降になると、市民を教化するための日曜学校にも参加するようになる。1862年6月には、この日曜学校は反逆的な考えを流布するとみなされて内務省によって突然に禁止される。最も激しい対立は1861年の秋に生じており、あらたに導入された厳格な規則に学生が抵抗した。とりわけ、モスクワ大学、ペテルブルク大学、カザン大学での厳しい弾圧によって終わった。これらの出来事によって示されたことは、一方に学生、そして他方に教授、権力、社会全体をおいて、そのあいだの断層が徐々に広がったということであった」(116~117ページ)
これはまさしくツルゲーネフの『父と子』におけるアルカージイとバザーロフの歩みである。重要なことは、大学が原初的な意味での「ウニヴェルシタス」を放棄したことが世界各地で訴えられているということであり、こうした学生運動が形骸化した大学の外で学生自身が組織した新たな「ナチオ」を母体としているということだろう。そこから発生するのがパリ・コミューンであり、革命的サンディカリスムであることも見逃してはならない。
「植民地の特徴として、これらの萌芽的な大学は宗主国に従属しており、学生は一般的には学士号(B・A)を取るのみで、修士号(M・A)を取る者はまれだった。またこれらの機関は博士号を授与することはなく、したがって研究の機能を果たしてはいなかった。学生たちは勉学を続けるにはイギリスに行くしかなかったが、これは現代史における頭脳流失の先駆けでもある。また農業以外に産業のない国において、ほとんど就職先がないということもまた大学の発展を制限していた」(106ページ)
同じ頃、植民地化された国々でも大学が輸入されはじめている。ところが例えばインドで輸入された宗主国イギリスの大学は既に幹部養成の場としての大学であり、純粋な学問を続けるためには国境を越えるしか手段がなかった。サイードが『知識人とは何か』において挙げていた「亡命する知識人」の祖型をここに見ることができると言っても言いすぎではないだろう。
「ヨーロッパでは前資本主義的な時代からの偏見のために大学にはふさわしくないとみなされていたような分野も、実用主義と経済的な発展への信仰の強いアメリカでは、早くから導入されている。たとえば、1881年にペンシルヴァニア大学に併設されたウォートン・ファイナンス・スクールのような、財政とビジネスのための教育の流行である。最も有名なハーヴァード・ビジネス・スクールは1908年に創られている」(121ページ)
そしてアメリカである。ヨーロッパの一部の国々においてベルリン大学のモデル「フンボルト理念」が採択されていたのに対し、アメリカは正反対の道を辿る。「財政とビジネスのための教育」という新たなる「実学」が、ヨーロッパに先駆けて大学で学ぶものとなってしまうのである。
「学生の自由な選択に任せられた教科の柔軟な組み合わせは、ヨーロッパで学んだアブラハム・フレクスナーのような教育学者からは批判され、本来の大学教育への裏切りとみなされた。じっさいには、その柔軟さがきわめて多様な学生の共存を許し、大学の存続に役立つことにもなった。それは技術教育や専門教育と教養教育や学問を結びつけ、大学に顧客および多様な財政支援を引きつけて、企業家のごとき学長の権威主義的な鞭撻のもと、大学が繁栄するのを許したのである。大学の管理者たちに大きな権限が与えられていたこと、国家による介入の少なさ、そしてヨーロッパ・レヴェルに達しようとする努力にもかかわらず従属的な地位に甘んじていた大学人の存在が、ドイツのものでもフランスのものでもない「アメリカの大学モデル」を形成していた」(121ページ)
資本主義の台頭と大学の繁栄、企業家のごとき学長の権威主義的な鞭撻、ここに描かれているものを我々は既に知っており、極めて具体的に思い浮かべることができる。「国家による介入」が少ないということにも、1980年代以降の新自由主義の論理の温床を見てしまう。「本来の大学教育への裏切り」は、今でも平然と行われているのだ。
独自のモデルを採択せざるをえなかったフランスでは、1894年にドレフュス事件が起こる。そして「知識人(intellectual)」の雛形としてゾラが登場すると、一部の学生と教師は大学の内部で議論をはじめるのだ。
「かつて、一部の学生と教師が独裁体制に対して挑んだ自由のための闘いは、共和国のもとでは、民主主義的な社会において学生と教師が担うべき役割をめぐる、議論や内部抗争に取って代わられている。つまり大学は、ドレフュス事件の激しい政治的嵐のなかで大衆や世論に向かって訴え、人民大学の運動に参加するような、「知識人」の前衛を育む場所となったのである」(128~129ページ)
とはいえ、それは「ナチオ」的なものの復権と断言できるものではなく、こういった学生も教師も本当に一部の者に過ぎなかったのだろう。「知識人」という語が括弧付きで語られる用語となった背景には「ナチオ」的な空間の解体があるのかもしれない。革命的サンディカリスムやコミューンの要求が叫ばれることも、「知識人」が組織化されなくなっていることの逆説的な証明ではないか。実際「フンボルト理念」を生み出したドイツにおいてですら、「ナチオ」の解体を食いとめることはできていない。
「学問よりも就職のために大学に来る若者が多くなり、しかもその一部が古典的ではない中等教育、したがって人文主義的な理想を踏まえない教育しか受けていないということになると、大学における教育は、実践、実用主義、そして専門化の方向に向かわざるをえなくなる。諸邦はドイツ統一ののちも大学を管理していたけれども、そのような傾向を少しずつ受け入れて、工業社会のあらたな需要に応える大学や学科を求めるようになる。学問分野に関しても、諸政府は経済と結びついた研究を奨励し、外国からの留学生を積極的に受け入れて、ドイツの影響を世界に広げようとした。しかし、大学がこのようなあらたな役割を担うことは、かつてのドイツの大学の理想を疑問に付すこと以外のなにものでもなかった」(136ページ)
そして時代は現代に突入した。我々が「大学」と読んでいる空虚な空間は、公権力がそれを統制するために様々な介入を繰り返した歴史の上に成り立っているのである。
「社会のヒエラルキーを維持し、知識人の運動を管理しようとするあらゆる専制的あるいは独裁的な体制にとって、大学とは不穏な場なのである。より一般的に言うなら、二十世紀の社会の大きな変化のほとんどは、大学のなかで告知されるか、準備されるかしている」(155ページ)
だが、その公権力が圧力をかけ続けてきたものこそが、本来の大学に備わった潜在的な力なのだ。その圧力が未だに続いているということは、大学はまだそれを手放してはいないのかもしれない。
「大学あるいはその代わりとなるものは、十九世紀のヨーロッパ諸国においてと同様に、政治的な抑圧を最初に批判しうる場の一つである。十三世紀から大学が経験してきたあらゆる変化にもかかわらず、おそらくこの批判という機能は、社会的な諸力によって脅かされながらも七世紀にわたって途切れることなく続いてきた、大学という知的冒険にとっての真の赤い糸なのである」(159ページ)
誕生からたかだか七世紀の間にこれほど甚だしい変化を遂げてきた機関が、このままの姿を留めることができるわけがない。その疑問を投げかけるのが歴史家の務めであり、その未来を信じるのが「知識人」のあるべき姿だろう。いかにして孤独な「知識人」たちを組織し、いかにして「ナチオ」を再構築していくか。考えなければならない問題は明確で、万物はすべからく流転するのである。
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