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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

恋する伊勢物語

 普段の自分だったら、こういうことはしなかったはずだ、と思う。われながら、ちょっとどうかしていた。なんの話かというと、『伊勢物語』そのものを手に取るより先に、『伊勢物語』の解説書的なものを読んでしまったのだ。ちょっとページをめくるつもりが、あっという間に読み終えてしまい、やべえ、と思った。この読書体験のあとでは、すぐに『伊勢物語』を読もうという気にはなれなくなってしまう。俵万智の言葉の軽快さは、ページを繰る手を止めてくれなかったのだった。

恋する伊勢物語 (ちくま文庫)

恋する伊勢物語 (ちくま文庫)

 

俵万智『恋する伊勢物語ちくま文庫、1995年。


 個人的に、こういう態度は哲学書などを紐解こうというときに陥りがちな間違いであるように思っていて、なにがわからないのかもわからない状態で入門書あるいは解説書を読むなどというのは愚の骨頂、という確信がある。文学だから、と思って、きっとちょっと油断していたのだ。当然ながら、俵万智がその魅力を語る『伊勢物語』は、わたしがいつか読むであろう『伊勢物語』とはもはや別の本である。わかってはいても、残像呪縛がすさまじい。この本で語られていたことを自分のなかで消化するまでは、原書の『伊勢物語』は手に取らないほうがいいな、と思ってしまった。でも、そうは言っても、そもそも『伊勢物語』の「原書」って、なんなのだろう。まさか古文のまま読めるなどとは思っていないし、どうせ現代語訳を読むつもりなのだから、「原書」もなにもない。幸か不幸か、日本の古典を日本語で読もうというときには選択肢が非常に多いので、わたしのような不案内な者にとっては、逆にどれを読むのが正解なのかわからなくなってしまうことがあるような気がしている。岩波文庫よりは角川ソフィア文庫のほうが親しみやすそうだ、なんて思ってはいるのだが、選択肢がほぼ皆無の海外文学ばかり読んできた身にとって、これはとても新鮮な悩みである。まあなんであれ、まずは触れてみることが大事で、いろいろと触れていくうちに正解も見えてくる、というのは、頭ではわかっているのだけれど。

 さて、どうしていきなり『伊勢物語』なのかというと、在原業平に興味があったのだ。この歌人の歌は、先日『和歌とは何か』について書いたときにもすこし語ったとおり、わたしにはとても現代的なものに映る。意味が入ってきやすいし、実感を率直に詠っている感じは、『新古今集』時代の装飾過多な歌よりもずっと親しみやすいではないか。たとえば、この本のなかでも、こんなことが書いてあった。

  つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを(248ページ)

「この歌について、江戸時代の国学者契沖は「後々の人、死なんとするにいたりて、ことごとしき歌を詠み、あるひは道を悟れるよしなど詠める、まことしからずして、いとにくし。ただなる時こそ狂言綺語もまじらめ、今はとあらん時だに心のまことに還れかし。業平は一生のまこと此の歌にあらはれ、後の人は一生のいつはりをあらはすなり」と言った。
 後の人の辞世の歌というと、やたら立派だったり、道を悟ったような歌が多いが、あんなもんは、噓っぽくてダメだ、と彼は言う。なんでもない時ならいざしらず、死を前にした人間というのは、とにかく心に素直にならなければ、と」(249〜250ページ)

 だが同時に、俵万智は「『伊勢物語』=在原業平」という安直な構図を否定してもいる。『伊勢物語』は、けっしてそれだけではないのだ、と。

「一つの知識としては、知っていて悪くないことかもしれない。が、物語を楽しむうえでは、さほど重要なこととは思われない、というのが私の本音だ。業平の作ではない歌も出てくるし、登場する「男」はさまざまで、これをたった一人の人間と考えることはできない」(13ページ)

 思えば思うほどに、俵万智と『伊勢物語』というのは、最強のタッグ、というような気がしてくる。「相聞歌の女王」にとって、恋愛話に溢れたこの本ほど熱中して語れる題材もなかったのではないか。同じような題を与えられた『愛する源氏物語』も先日読んではいるが、この二冊の印象はぜんぜんちがう。『恋する伊勢物語』のほうは俵万智が29歳のときに書かれた本で、『愛する源氏物語』はその11年後に書かれたもの、つまり「愛する」のほうがよっぽどあとなのだ。先回りして書いてしまうと、この本の「解説」では俵万智の短歌作品、なかでも恋歌がいくつも紹介されているのだが、『サラダ記念日』から『かぜのてのひら』への変遷を追いながら、解説者は非常におもしろい表現をしているのだ。

「どうやら俵万智の恋愛生活は(あるいは恋歌の世界は)『伊勢物語』的段階を突きぬけて『源氏物語』的段階へ、あるいはその先へと進行しつつあるようだ」(武藤康史「解説」より、270ページ)

 とりわけ顕著なのが、『愛する源氏物語』のほうがたくさんの関連文献の読書体験に支えられながら書かれたもの、という印象が強かったのに対し、こちらの『恋する伊勢物語』は、もう感覚だけで書かれている、という感じ。ちなみに、原文和歌のいわゆる「チョコレート語訳」短歌も、『愛する源氏物語』のときとはちがって付されていない。他の研究書からの引用などはきわめて少なく、あらゆる段がひたすら自分の体験に引き寄せて語られている、という感じなのだ。わたしはいま彼女がこれを書いたときと同じ29歳だが、いまこれが書けるか、と訊かれたら、ぜんぜん無理である。俵万智はこの時点で、すでに超一流の古典紹介者だった。

「モノによって蘇る記憶というのは、次第に遠ざかって、ほどよい思い出色に染まってゆく。が、言葉によって蘇る記憶は、いつまでもナマナマしい――そんな気がする。
 たとえば、写真や、かつてプレゼントされた品物や、亡くなった人の形見、といったもの。それらにまつわる思い出は、品物が古くなるにしたがって、時間のベールがかけられていく。
 いっぽう、言葉は、古くならない。その言葉を覚えている限り、思い出は、その時の鮮度をずっと保ちつづける。
 だから、愛の殺し文句は、どんなプレゼントよりも、愛を永遠にする。もちろん、それが殺し文句として、ちゃんと相手の胸を刺せばの話ではあるけれど」(32ページ)

「この一件以来、女はいろいろと思い悩み、とうとう出家して尼さんになってしまった。出家の真意は、もちろん本人にしかわからないが、忘れかけていた過去を思い出し、自分の行動を反省して発心した――というだけでは、ないような気がする。男とのこの出会いによって、どうしようもなく彼への気持ちが再燃してしまったのではないだろうか。しかし、さすがに、もう一度裏切り行為をすることはできない。私の勝手な想像であるけれど、むかしの夫への再燃してしまった思いを断ち切るために、彼女は出家したのではないかと思う」(108ページ)

 現実の恋愛体験が何度も引き合いに出されるため、読むほうは予備知識などなにもないままに、すんなりと入っていける。それが心地よくって、ページを繰る手が止まらない。『伊勢物語』で語られている恋愛のかたちの豊富さには目を見張るばかりだ。そしてそれらのことごとくに、俵万智は実感まみれのコメントを付している。こいつ恋しすぎだろ、と思わなくもない。

「別れ話をもちかけた男を、追いかけるのではなく、むしろ逆に少しひいてみせる。しかも冷めたからではなく、好きだからこそ追いかけないのだ、ということを伝える。これができれば、かなりの確率で、男をひきとめることができるのではないだろうか。
 とはいうものの「言うは易く……」である。人のことだったら、これぐらいのアドバイスはできるかもしれないが、いざ自分がそういう状態になったとしたら、と思うと、まるで自信がない」(246ページ)

「結果として彼女が男の心をとらえることができたのは、つまり無欲の勝利なのである。だとするとこれは、参考になりそうで、ならない話なのかもしれない。「勝つために無欲になろう」と思った瞬間、人は欲を持ってしまっているのだから」(247ページ)

 なかでもおもしろかったのが、〈待つ〉ということの意味深さについて、彼女が紙幅を費やしていることだった。『サラダ記念日』を読んだときに思ったのだが、俵万智は待つという行為が秘める時間の流れにただならぬ関心を寄せている。その想いが散文で語られているのを見るのはおもしろい感覚だった。たとえば、以下の和歌が登場する段。

  君こむといひし夜ごとに過ぎぬればたのまぬものの恋ひつつぞふる(80ページ)

 俵万智の現代語訳では、「あなたがいらっしゃると聞いた、その夜ごと夜ごとに、ぬか喜びばかりさせられて参りました。もう今は頼りにするという思いはありませんが、恋しいという思いは消えず、暮らしております……」となっている(81ページ)。それにつづけて、こんなことが書いてあるのだ。

「この歌には、「待つ」ということが人にもたらす様々な感情――不安、期待、焦燥、落胆、から元気、絶望、夢想、希望など――を、すべて味わいつくした果ての、透明な思いというものが、表現されている。
 待って待って待って報われなかった彼女の心には、もう相手を信じるとか頼みに思うとかいう感情は、ない。けれど、それでも、恋しいと思う感情だけは、なお残りつづけている。
 誰かを信頼するためには、それなりの理由が必要だ。が、誰かを愛するためには、理由など必要でない。むしろ、理由など説明できる段階では、愛は本当に確認されたとはまだ言えないのではないだろうか。この歌を読むと、そんなことを考えさせられる。
 「たのまぬものの恋ふ」――よほど強い心がなくては、そんなふうに言いきることは、できないだろう」(81ページ)

 また別の段でも、待つということの意味は大いに語られている。俵万智にとって、待っている時間というのは「心を観察する絶好のチャンス」だそうだ。

「人を待っているときというのは、想像がいいほうに傾いたり、悪い方に傾いたり、相手を信じたり、疑ったり、自分を情けなく思ったり、励ましたり……とにかく気持ちが、いったりきたりする。
 気持ちがいったりきたりするときというのは、心を観察する絶好のチャンスで、私自身も、〈待つ〉ということをテーマに、たくさん短歌を作ってきた」(84ページ)

 そこから、発想の転換というのか、デートに話題が及んで、待つことの直接的な理由のひとつである「約束」の価値までが語られている。この箇所はけっこう衝撃的で、こんなふうに待ちたい、待たれてみたいと思わずにはいられなかった。

「デートという言葉は、もうすっかり日本語の中に定着してしまった。英和辞書でその意味を調べると「異性との会う約束、または約束して異性と会うこと」とある。一般的に「面会の約束」という意味でも使われる。
 デートには「約束」の意味が、あらかじめ含まれているわけであるから「デートの約束をする」という言い方は、厳密にはおかしい。けれどこの表現は、わりとよく耳にするし、あまり違和感もない。「明日は、デートの約束があるの」と言われて「馬から落ちて落馬した」とか「登山をのぼる」のような間違いだと認識する人は、少ないのではないだろうか。
 つまり「デート」という言葉に含まれる要素のうち「約束すること」はいつのまにか忘れ去られ「会うこと」のほうに重心が移ってきた、ということだろう。私としては、これはちょっぴり寂しいな、と感じてしまう。
 デートという言葉に、はじめから約束の意味が含まれているというのは、とても素敵なことではないだろうか。約束をしたときから、もう、デートは始まっているのだ。

  二週間先の約束嬉しくてそれまで会えないことを忘れる

 かつて、こんな歌を作ったことがあった。恋をする心にとって、「約束」は「会う」ことと同じくらい、いやもしかすると、会うこと以上のときめきを与えてくれるもの。だからデートの醍醐味というものも、約束をして会うまでが半分、当日になって会ってからが半分、というふうに、私は感じている」(184〜185ページ)

「(会うまでの時間を)たっぷり味わっておけば、仮に約束をすっぽかされたとしても、デートの半分は楽しめたということになる。逆に、本当に会えるかどうかをくよくよ思いわずらっていたのでは、仮に会えたとしても、楽しみはもう半分しか残っていないということになる」(187ページ)

 ちょっと勘ぐらずにはいられないのだが、俵万智の体験してきた恋愛というのは、幸福な恋愛とひとが呼ぶようなものばかりではなかったのだろう。〈待つ〉ということの哲学をこれほどまでに成熟させた果てに、短歌作品が結晶のように、ぽん、と登場してきたのだな、と考えずにはいられない。作歌姿勢についても、おもしろい文章が多かった。

「歌というのは不思議なもので、詠もうとする対象や事柄に、すごい迫力がすでに備わっている場合には、あまり手を加えないほうがうまくいく。「すごいんです、すごいんです!」と、歌い手が力を入れすぎると、読む方はシラケてしまう。すごいものは、なるべくそのままの状態で、手を加えずにポンと読者に渡す」(61ページ)

「実は題詠というシステムについて、私は長いこと懐疑的だった。忍ぶ恋もしていない人が「忍ぶ恋」という題を与えられたからといって、そういう歌を詠むというのは、何とも噓っぽいなあと思ってきた。
 が、最近は、ちょっと考えを改めつつある。詞書に題詠とあっても、すごくいい歌がある、という事実。題詠だと書いてなければ、そうだとわからないほどの迫力。これをどう理解すればよいのだろうか。
 たぶん、そこには、作者の体験が、なんらかの形で反映されているのではないかと思う。かつて見た景色の素晴らしさ、かつて味わった恋のせつなさ……。題詠の題とは、それらを再度心のスクリーンに映しだすきっかけを、与えるものなのではないだろうか。
 題を与えられても、何も心のスクリーンに映らない場合は、やはりいい歌はできないように思う」(230〜231ページ)

 俵万智の短歌の師、佐佐木幸綱のすてきな勘違いの話もあった。佐佐木幸綱、なんなんだよ! と言いたくなるほど、いちいちかっこいい。

「幼いころに耳から聞いて、自分なりの解釈を思い込んでしまう経験というのは、わりと誰にでもあるようだ。
 百人一首の例でいえば、私の短歌の師である佐佐木幸綱先生は「恋すてふ」を「恋す蝶」、「由良の門を」を「ゆらの塔」と思っていたそうである。なかなか素敵な思い違いだ」(231〜232ページ)

 古語についても話題が豊富で、昔の日本語の響きの美しさには眩暈がしてくるほどだ。

「男女が共に過ごした翌朝を「後朝(きぬぎぬ)」という。後朝という漢字は、意味からあてはめたものだろう。そもそもは「衣衣」。それぞれが自分の衣を身につけて、別れなくてはならない朝、というわけだ。きぬぎぬ、という言葉の響きが、なんともいえず美しい。ごちょう、と読んでも間違いではないけれど、同じ言葉とは思えないほど、ムードに欠ける。ごちょう、なんて言うぐらいなら、外来語のモーニングアフターのほうが、まだマシである。しかしこれも、日本語に訳してみれば「後朝」になるわけで、どっこいどっこいだ。そのうえ、モーニングアフターには、一方で二日酔いの意味があるという。ひどいものと、一緒にされたものである」(21〜22ページ)

「「つくも」は、「九十九」の意で、百マイナス一――「百」という文字から「一」をとると、「白」になるところから、「つくも髪」は「白髪」ということになる。
 意味は同じでも、言葉の印象はずいぶん違う。婉曲でやさしい「つくもがみ」は、発音したときも、まことに柔らかで美しい。いっぽう「しらが」という語は、即物的で、音の響きもなんだか下品だ」(122〜123ページ)

「古くからある日本語の中には、こういうふうに、思わず「うまい!」と言って拍手したくなるような言葉がたくさんある。
 たとえば「うろこ雲」「蟬しぐれ」「風花」……一番はじめにこれらの言葉を生んだ人を、心から尊敬してしまう。
 うろこ雲の正式名称は「巻積雲」というのだそうだが、これでは何のイメージもわかない。
 うだるような暑さのなか、たくさんの蟬に鳴かれると、よけい暑くなるような気がする。で、ついイライラしてしまうものだけれど、その声を「しぐれ」にたとえられてしまうと、不思議と涼しい。
 晴天にちらつく雪を見て「風花」と呼んだ人は、ほんとうに詩人だ。中学・高校時代を北陸で過ごした私は、空を見あげて何度もこの言葉を味わった」(179〜180ページ)

 言葉を大切にするという姿勢については、以下の緒形拳の言葉が印象的だった。

「先日、俳優の緒形拳氏にインタビューした際「ぼくが子どもに躾けたことといえば、新聞や雑誌を含めて、文字の書いてあるものを踏んづけてはいけない、そのものの上を絶対歩いてはいけないって、それぐらいしか教えなかったような気がしますね」と言われたのが、非常に印象深かった。いい話だなあ、と思う。これも広い意味での言霊信仰といっていいだろう。
 言霊信仰、などというと大げさな感じがするかもしれないが、要は言葉に対する敬虔な気持ちである。これは、日本人の美徳の一つであると思うし、古典を読んでいると様々なところで、言葉の力というものが登場してくる」(195ページ)

 これは海外で暮らしたりしているととくに痛感することで、もっと言葉を大事にしろよ、と言いたくなることがたくさんある。つい先日も、「オーケストラの最高の指揮者はだれだと思う?」と訊かれて、閉口した。「Le Meilleure(英語で言うところのThe Best)」だなんて、そんな簡単に決められるかよ。どの作曲家のどの交響曲かによっても、答えは違ってくるはずではないか(ちなみに結局、「ベートーヴェンだったらカルロス・クライバ―。でもほんとうに好きなのはメンデルスゾーンを振るときのシャルル・ミュンシュ」、と答えた)。感覚がちがうのだ。そういえば俵万智も、外国でこんな体験をしている。

「私は以前、デンマークコペンハーゲン大学で、日本語および日本文学を勉強している学生たちに、話をする機会があった。話の中心は短歌についてで、古典和歌にもいくつか触れた。その中で「昔の言葉で書かれているが、心情的には現代の日本人にもよく理解できるもの」の代表例として、「世の中に絶えて桜の……」の歌をあげたのだが、学生たちがみなきょとんとしていたのが、印象深い。
 いくら説明しても「なんで大の男が、桜の花に、そんな一生懸命になるワケ?」という顔をしている。
 そこで日本人が、どれだけ桜の開花を楽しみにしているか、ということを示すために「桜前線」の話をしたところ、教室は大爆笑。
 「花が咲いたかどうかを、毎日ニュースで放送するなんて、信じられない」というのである。
 文化の違い、ということをつくづく思った」(152〜153ページ)

 さて、相聞歌というシステムそのものについての言葉も、忘れられない。女性にとっては〈待つ〉ということの強制が伴う「通い婚」という当時の常識が、驚くような和歌をたくさん生み出してきたというのは、ちょっと無視できないことだろう。彼女らの苦しみが凝縮されたような和歌はじつにたくさんあり、返歌に現れる言葉の重みは、たいてい男の比ではない。

  秋の夜は春日わするるものなれや霞に霧や千重まさるらむ(191ページ)

  千々の秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ(191ページ)

「考えてみるとこのせつなさは、男への返歌という形で、はじめて言葉となって出された。女からは決して、あらわにはしなかったものだ。せつなさも恋しさもみんな心の内にしまう知恵というものを、女は「通い婚」というシステムの中で、身につけたのかもしれない」(192〜193ページ)

「そもそも、和歌とは和する歌(ちなみに相聞歌も、今では単に「恋の歌」という意味で使われているけれど、本来は「相互に聞こえさす歌」つまり二首で一組というのが正しい姿なのです)」(209ページ)

 ところで、この本では基本的に一章につき『伊勢物語』中の一段が紹介されているのだが、そのなかにひとつだけ、どの段にも話題が及んでいない章があった。『伊勢物語』の江戸時代の写本を見に行ったときの体験記がそれで、当時の読書風景が浮かんできて、とてもおもしろい。

「ご一緒した片桐洋一先生から伺った話によると『伊勢物語』は江戸時代のベストセラー。江戸時代というと、まず私たちは西鶴芭蕉などを思い浮かべるけれど、それ以上に広く親しまれていたのだそうだ」(214ページ)

 印刷術など存在しない時代の、手書き写本の読みにくさについて、片桐洋一はこんなことも言っている。

「昔の人も、わりとゆっくり読んでいたと思います。句点も読点もないし、濁点もついていない。そうスピードを出して読めるものじゃありません。嚙みしめるように読んでいくなかで、いろいろと想像も広がっていったんでしょうな。しかも、読むものがたくさんあるわけではないので、繰り返し繰り返し同じものを読む。そこでまた新しい発見があるわけです」(216ページ)

 ちょっとマングェルの『図書館』を思い出さずにはいられない一節である。一冊の本を、ほんとうの意味で読み終えることなどけっしてないのだな、と考えてしまう。

「考えてみると、私自身がそうだった。学生時代、活字でスーッと『伊勢物語』を読んだときには、それほど深い感想を持つこともなく終わっていた。それが「現代語訳」という仕事にとりくむことになってから、まさに嚙みしめるように、繰り返し繰り返し、読むようになった。その過程で、はじめて見えてきた世界というのがある」(216ページ)

 きっかけがなんであれ、何度も読む、ということにこそ、一冊の書物をほんとうに楽しみ尽くすための奥義があるのだろう。これは乱読に陥りがちな自分への自戒もこめて書いておきたいのだが、無数の印刷物に囲まれている現代人は、囲まれているがゆえに、書物に対してかつて抱かれていたはずの礼儀や畏怖の念を失いがちだと思う。俵万智は現代語訳という作業、それから古文の教師としての体験から、再読・再々読の価値に気がついたそうだ。

「教員時代には、そのおもしろさがわかるようになった。三クラスを持っている場合なら、同じことを三回言わなくてはならない。学年が変われば、去年とまた同じものを読むこともある。それで、ちっとも飽きないところが、古典のすごさだなあと思った。飽きるどころか、むしろ繰り返し読むことが、おもしろさを知る秘訣なんだということを発見。はじめはいちいち気にしていた文法や単語の知識が、いつのまにかすうっと透明になり、ぱっと視界がひらける瞬間がある。それが心地よかった」(255〜256ページ)

「古語辞典、古典文法……それらは言葉の壁を乗り越えるために、必要な道具ではある。その使い方を身につけることは、目的ではなく、手段のはず。が、限られた授業時間のなかでは、道具の使い方を説明し、そのトレーニングとしての口語訳の作業をし、はい一丁あがり! という感じになってしまう。何が書いてあるかわかったところから、その内容を味わったり考えたりすることが始まる。つまりそこがスタート。それなのに学校の授業では、あたかもそこがゴールのようになってしまう」(258〜259ページ)

 ちなみに俵万智の現代語訳というのは、「21世紀版・少年少女古典文学館」の一冊として編まれた、『竹取物語伊勢物語』のことで、「竹取物語」のほうを担当したのは北杜夫だ。このシリーズ、訳者が尋常でないほど豪華で、うっかり全巻購入しそうになった。いろいろな本の再読にも時間を費やしたいのに、世の中には魅力的な本が多すぎる。

「読書とは不思議なもので、そこに書いてあることについて考えるばかりでなく、そこに書いてないことについてまで、考えがどんどん広がっていってしまうことがしばしばある。『伊勢物語』という本は、特にそういう見えない刺激を、たくさん与えてくれるもののようだ。原文はほんとうに短いのだけれど、さまざまな光が、そこからは発せられている」(167〜168ページ)

「書いているうちに、本家の『伊勢物語』よりも長くなってしまったことに驚いている。それでも、まだまだ尽きせぬ魅力が『伊勢物語』にはあるだろう。ここに記したのは、現時点での、私が感じとった行間だ」(257ページ)

 この本を読んだ直後に、「よし、早速『伊勢物語』を!」というふうには、たぶんならない。むしろ逆に、この本の残像呪縛が強すぎて、すぐに『伊勢物語』を読むわけにはいかなくなってしまった、というような気さえしている。でも、なんだろう、これはこれで、歌人の恋愛論に溢れたすごくおもしろい一冊である。俵万智の短歌が好きなひとにはぜひ手に取ってみてもらいたい。

恋する伊勢物語 (ちくま文庫)

恋する伊勢物語 (ちくま文庫)

 


俵万智による現代語訳『伊勢物語』〉

竹取物語・伊勢物語 (21世紀版・少年少女古典文学館 第2巻)

竹取物語・伊勢物語 (21世紀版・少年少女古典文学館 第2巻)