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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

 ずっと前に友人がだれかに薦めていた本。たまたま手に取ってパラパラと開いていたら、気がついたら読み終えてしまっていた。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

 

柴田元幸高橋源一郎『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』河出書房新社、2009年。


 正直、読んでいてイライラした。文学を定義しようとする試みが嫌いなのだ。文学というのは、70年代はこういう時代だった、80年代ならこう、90年代にこうなったから、現在はこうなんだ、と言えるようなものではないと思う。この本のなかでは、そういうことが頻繁に語られている。面白い共通点だな、と思うことも、もちろんあるのだけれど、手放しに賛成できるような内容では毛頭ない。この二人が挙げた作家や書名をすべて読んでいるわけではないので、そもそも批判する資格もないのだが、すべて読んでいても賛成しないだろうな、と思えるところが多かった。

 アメリカ文学者を名乗る人たちは、だれもがこんなふうに、出てきたばかりの作家たちを端から読みながら、最近の傾向はこうこうこうなのだ、などと考えているのだろうか。たぶん、というか絶対、小説家はそんなふうに定義されたくて小説を書いているわけではない。もちろん、そんな定義の文脈のなかから、評価される作家だって出てくるのだろうし、一概に言えることはなにもない、とは、だれもが思っているのかもしれないけれど。でも、一概に言えることはなにもないのに、わざわざなにかを言う必要性が感じられない。それから、海外はアメリカだけじゃない。まあ、アメリカ以外の話が聞きたいのなら、そもそもほかの著者たちの本を手に取るべきだけれど。

 翻訳、というよりそれ以前の、言葉に関する議論はとても面白かった。

高橋:つまり、詩人というのは言語を洗練していくのではなくて、その国の言語に何かを付け加える存在なんですね。だからその部分は、よく読んでみると変なんです。でもすごく印象に残る。それがというか、それも「翻訳」なんですね。そういったもので詩というものがいわばレベルを上げていって、いまの現代詩に至るんです。小説の方で言うと、村上春樹さんは日本語の中に英語を「入れた」わけです。これは真似たとかそういうことではなくて、日本語を無理やり方向転換させたというか、日本語の枠を広げたというか、ともかく日本語じゃないものを混入した。それは二葉亭四迷がやったこととも通じるんですが、言葉が要するに変なんです。つまり、中にある物語とか、キャラクターがどうということじゃなくて、言語が脱臼しているというか、日本語ではない違うものに遭遇している感じがするんですね」(36ページ)

 堀口大學のエッセイに、昔は「トースト」も「バター」も、そのまま日本語として書くことなどできなかった、と書かれていたのを思い出した(『虹消えず』より)。訳語はそれぞれ「焼麺麭」と「牛酪」。必要なものも必要じゃないものも含めて、日本語は今でもどんどん増えている。とりわけインターネットをしていると、知らない単語や、定義がはっきりしない言葉に出会うのはしょっちゅうだ。内心、すべて必要ないと思っている。

高橋:柴田さんは、ものすごい勢いで翻訳をされているんですが、翻訳って二つ考え方があって、一つはオリジナルが100でどこまでマイナスを避けられるかという考え方。これに対してベンヤミンは「翻訳者の使命」の中で違う、翻訳は原作の劣化形ではなくそれとは異なった作品だと言った。柴田さんもやっぱり違うと思われていると思うんですが、柴田さんにとって翻訳者の使命とは何だとお考えになっていますか?
 柴田:いえ、僕は実は前者の考え方に近いと思いますね。つまりあらゆる翻訳は誤訳である、何かが必ず失われると。要するに負け戦だけど、いかによく負けるかの努力はしていくということです。
 たしかに、訳すべきは原典というテクスト1ではなく、テクスト1の向こうにあるテクスト0(ゼロ)であると感じることもあります。でもやっぱり、そう考えることは少ないですね。何て言うか、それを考えだすと……。
 高橋:翻訳できない(笑)。
 柴田:ええ。やっぱりテクスト1がすべてだっていう方が話が簡単で。たしかに、奴隷が常に主人に忠実だとたぶん家は機能しないだろうし、会社なんかの組織でヒラが上役の言うことを常に聞いていたらたぶん組織は機能しないでしょうね。組織がよりよく機能するためには、下っ端が聞き流すというのはとても大事なことで、たしかに翻訳者もときに聞き流す。つまり「ここはちょっと変えちゃってもいいや」というふうに思うこともあると思うんです。
 ただ、よくできた小説というのはとてもよくできた組織なので、やっぱり上役の言うことはなるべく聞いた方がいい(笑)。だがらどっちでもいいような小説を超訳するというのはよくわかるんですね。でもいい小説だと、なんだかんだ言ってちゃんと上司の言うことを聞いた方がやっぱりよく訳せるので、だからとにかくマイナスをどう減らすかというふうに考えてやっているみたいですね、僕は」(95~96ページ)

高橋:翻訳という作業は単に外国語の作品を日本語にするということではない。まったく違ったものなんですね。確かにどちらもよく似ている、でもだいたい同じ、というのでは文学にならない。ほんの少しの差で文学になったりならなかったりするのですから。ほとんど同じことを日本語で書いても、99%一緒でも、こっちはすばらしいけど、こっちは全然だめということがある微妙な世界が文学というものなんですね。そんな微かな違いが問題になる作業を、しかも違う言語でやろうなんていうのは、そもそも無茶苦茶なことをやっているわけです。翻訳なんて、ある意味で命懸けの暴挙なんですね」(140ページ)

 以下は、クロード・シモンの『アカシア』とブコウスキー『パルプ』を比較しているところ。

高橋:何かを書くときのやり方は二つ、単純に書くか複雑に書くかのどちらかしかありません。シモンにとって、何かを書くということは複雑に書くということだと思うんです。そう思って書いていくと、これは無限に複雑になる。
 プルーストも複雑に書くんですけど、ちょっと方向性が違うんですね。彼は時間について語ってるから無限に長くなる。時間軸に沿っていくらでも長くなっていくんです。ジョイスは言語自体が複雑になる。シモンの場合、世界が複雑なものだから内容が複雑になる。方向性は違っても、誰もが複雑なものを書く。これが二十世紀のある時点までの作家の方向性だったような気がします。世界が複雑になったのだから、小説もそれに対応して複雑になってゆく。そのことをそれぞれの方向で突き詰めていったわけです。
 ところが途中から、もう複雑になっていくのに付き合いきれなくなってしまった。その典型がブコウスキーで、「世界はどうなってるの」と聞かれて、「飯食ってセックスして寝る。あと何かあるのか」って答える。それはジョイスとかプルーストとかシモンに対する批判にもなっているわけです」(129ページ)

 ブコウスキーは本当に、批判しようとまで考えていたのだろうか。批判として読むことができる、というのは、その対象としてだれか(ここではシモンとプルーストとジョイス)を想定しているという前提がある。でも、複雑にすることが彼らの目的ではないはずだ。しかも、どういうふうに複雑かをいくらでも定義できるというのは、ずるい。「世界が複雑になったのだから、小説もそれに対応して複雑になってゆく」というのも納得がいかない。一般論で語れることなど、ひとつもないはずなのに、あえて語ろうとする理由がわからない。

柴田:すると何と戦うかより、どう戦うかが問題になってくるということですね。で、文章自体が重要になってくると。そうするとですね、翻訳はどんどんしづらくなってきます。アメリカの編集者に「ムラカミの次に誰を訳したらいいと思うか」みたいなことを言われて考えてみると、「この人はちょっと翻訳できないな」「あっこの人もできないな」っていうのばっかりなんですよ(笑)。たとえばわりと訳しやすそうなのが川上弘美さんなんですが、あの擬態語を英語でどうするか、ということは悩んでしまいます。
 高橋:擬態語ねえ(笑)。
 柴田中原昌也は実際の翻訳を見てみて、意外に訳せるなと思いましたね。やっぱり紋切り型っていうのはどこにでもあるから、その面白さを伝えればいい。でも、町田康古川日出男、ああいう日本語をどうしたら訳せるんだろうと思います。そういうことを考えると、小説というものはそもそも思想で読ませるのではなくて文章で読ませるものなんだと実感します。学校教育では「この小説は何を言わんとしてるか」とやっているけれども」(161ページ)

 日本文学についてはまるで知識がないので、「ふむふむ」と頷きながら読んだ。でも、このなかで挙げられた本は当分読みたくない。彼らの定義が頭に残ったままだと、ほかの読み方ができなくなってしまうかもしれないからだ。定義を確認するために読むなんて、最悪だ。そんなもの読書じゃない。挙げられている本をすべて読んでから読めば良かった、と思った。

高橋:芸術の享受者という面で言うと、近代文学的な考え方をすれば、トマス・マンの『トニオ・クレーゲル』みたいな芸術家がいますよね。自分は純粋な芸術家とは言えない、通俗的な感覚を持っているけど、それも大事にしたいと考える。芸術家であるからというより芸術への深い愛情ゆえに、芸術から離れられない。そういう立場もある。翻訳はちょっと違いますよね。
 柴田:基本的にはかなり近いんじゃないですかね。一人でファンクラブをやってるようなところはありますよ」(220~221ページ)

 これは「好きな範囲の作品は全部やる」と言う柴田元幸への言葉。これは、すごくいい。というか、ありがたい。ダイベックミルハウザーをこんなに楽しめるのも、柴田元幸のおかげだ。村上春樹もなんだかんだチャンドラーを少しずつ増やしているし、カーヴァーもほとんどやってくれている。サリンジャーも、もっとやればいいのに。

 ところで、こんな一節があった。

柴田:ひとの作ったアンソロジーはまったく読まないんですけど、自分でつくるのは好きなんです。西洋のアンソロジーは誰が見てもベストという作品を集めたアンソロジーがほとんどなので嫌なんですけど、一人カナダにアルベルト・マンゲルという、自分の好みでいろいろな、たとえば嫉妬についてのアンソロジーとかをつくってる人がいて、その人が僕のお手本ですね。知識が豊富で、でも下手にバランスをとろうとせず趣味をはっきり打ち出していて」(145ページ)

 これは言うまでもなく、『図書館』を書いたアルベルト・マングェルのことだ。カナダ人だとは知らなかった。どうもアルゼンチンから帰化したらしい。ボルヘスの友人、というイメージから、ずっとアルゼンチン人だと思っていた。

 この本を読んで強く感じたのは、文学の世界にも「最先端」を追う人たちがいて、それを定義しようとしている人たちがいる、ということだった。そして、自分はあらゆる「最先端」というものに、まるで興味がない。ただの好みの問題だが、あくまで生田耕作『卑怯者の天国』で放った、「芥川賞などを追いかけるくらいなら、古典でも読み返していたほうが余程良い」という言葉のほうが正しいと思えてしまうのだ。ただ、意見がまるで違う人たちの会話を覗き見るのは、面白かった。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

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<読みたくなった本>
ベンヤミン「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション2』
ほかにもたくさんあったけれど、それらはこの本の内容を忘れてから読みたい。

ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)