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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

地下鉄のザジ

 ほんとうにおもしろいものは、何度読んでもおもしろい。もう一度言う。ほんとうにおもしろいものは、何度読んでもおもしろい(しつこい)。初めて読んだのは生田耕作訳(ちなみに、そのときの記事。これを書いたのがかつての自分だなんて、信じたくない)、二度目は原書に挑戦(が、例のごとく歯が立たず途中で断念)、そして三度目の今回は、9月に刊行されたばかりの新訳版だ。そう、ザジ!

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

 

レーモン・クノー久保昭博訳)『地下鉄のザジ水声社、2011年。


 生田耕作の名訳があるのに、わざわざ新訳を出す必要なんてない。そう思っているひともいるかもしれない。じつは刊行されるという噂を聞きつけた当初は、わたしも同じことを考えていた。たしかに、昨今の新訳ブームを考えてみれば、わざわざ読む必要を感じさせないものも多い。そういうときは単純に買わなければいいし、読まなければいい。でも、一読してみて、この新訳『地下鉄のザジ』についてそんなふうに考えているひとには、ちょっと待った、と言いたくなった。「ちょっと待った、なんてもったいない!」と。

「「ちょっとあんた、聞いた?」この年増女は、隣にいた小男に言った。おそらくこの女の上によじ登る権利を、法律上認められている男なのだろう。「ちょっと聞いた、なんて礼儀知らずなのかしらこの豚男」
 小男は、ガブリエルの体格をじっくり調べながら、こいつはでかい、でも大男ってのはいいやつに決まってて、自分の力を悪用したりしない、だってそんなことしたら卑怯者だからな、と自分に言い聞かせた。虚勢を張って、男はこう叫んだ。
 「おいゴリラ、くせえぞ」」(10ページ)

「「ほんとうに任せてもいいの? だって、この子が家族全員に犯されたりしたら、たまらないわ」
 「でもママ、この間はちょうどいい時に着いたじゃない」
 「とにかく」ジャンヌ・ラロシェールは言う。「もうあんなこと、二度と起こって欲しくないの」」(12ページ)

 クノーはウリポの作家なのだ。ウリポの作品に関しては、正直、何通りの訳があってもいいと思う。そもそも翻訳できるようなものではないのだから、選択肢は多ければ多いほうがいい。いっそのこといろいろな訳者が『星の王子さま』並みに新訳版を出しまくって、『地下鉄のザジ』が十種類くらい書店に並んだら、とても楽しいだろうな、と夢想してしまうほどだ。

「テュランドは答えない。彼は頭の中の小さなテレビをつけ、個人的なニュースにチャンネルを合わせ、今自分が経験したばかりのシーンを見直す。それは彼を歴史上の人物にしないまでも、少なくとも三面記事上の人物にはするものだ。彼は自分が逃れた運命に思いをはせ、身震いする。汗がまた顔を伝う」(40~41ページ)

「どうしてパリの町は、女に見立てられるんだろうな。こんなもんがついてるのに。これが作られる前は、そうだったかもしれん。でも今となっちゃ。これじゃまるで、スポーツのやりすぎで男になっちまう女じゃないか」(102ページ)

 いまさらザジについてなにかを語る必要はないだろう。史上最悪、生意気の次元を完全に逸脱した、世紀のクソガキだ。

「あたし、宇宙飛行士になって、火星人をしめあげるの」(27ページ)

「「あの人たち、何をしてんのかしら?」彼女は尋ねた。
 「蚤の市に行くんだよ」男は言った。「あるいはむしろ、蚤の市が彼らをお出迎えかな、あそこから始まっているんだ」
 「へえ、蚤の市」ザジは、平静を装って言った。「あそこでレンブラントを安く見つけるのね、それを後でアメ公に売りつけて、今日も一儲けってわけか」」(52ページ)

 文学における最強(最凶、最狂)のクソガキについて考えると、候補として挙がってくる連中が、総じてウリポの作家たちが生みだした人物なのがおもしろい。たとえばペレック『煙滅』に登場していた「ラカンを読んでいる六歳児」アウエくんや、ルーボーの『麗しのオルタンス』に出ていた「ウィトゲンシュタインをくそみそにこき下ろす九歳の双子」アデルとイデルなど。だが、今回再読してみて気がついたのだが、なかでもザジは図抜けている。

ムール貝が運ばれると、ザジは飛びついてソースのなかに潜り込み、足を取られつつ汁のなかを歩んでべとべとに汚れる。加熱調理には抵抗した弁鰓類も、メロヴィング王朝なみの残忍さによって殻をこじ開けられる」(57ページ)

「「お巡りだからって、怖じ気づかなくていいのよ」ザジは大げさに述べた。「この人はね、あたしにいやらしいことを言ってきた変態なんだから、お巡りだろうがなんだろうが、判事のところに行けばいいの、あたし、判事のことならよく知ってる、あの人たち、女の子が好きなの、だから変態お巡りなんて、死刑になってギロチン送り、そしたらあたし、おが屑入りの籠の中に、首を見つけに行って、その面につばを吐きかけてやる、いーだ」」(74ページ)

 ザジにはクノーが完全に結託しているので、なおさらたちが悪いのだ。端的に言って、悪意の塊である。ところで、生田耕作の訳文のなかでもとくに際立っていた「けつ喰らえ」は、この新訳では「オケツぶー」となっている。苦しい。たしかに。でも、「けつ喰らえ」にはすでに暗黙の著作権が付着しているように思えるので、訳者を責めるわけにはいかないだろう。それに、生田耕作訳をすでに読んだことのある読者にしてみれば、この言葉が出てくるたびに、脳内で「けつ喰らえ」と自動変換される。つまり、ほとんど呪いなのである。

「彼女はズボンの布地越しに、一塊の肉を爪の間にはさんで、意地悪くひねった。あまりに強いその苦痛のために、大粒の涙がガブリエルの頬を伝って流れ始めた。国際色豊かな経験には事欠かなかったものの、いまだかつて涙を流すガイドを見たことがなかった旅行者たちは心配した。この不可解な行動を、ある者は演繹法を用いて、別の者は帰納法を用いて分析し、両者ともにチップの必要性という結論に落ち着いた。こうして金が集められ、哀れな男の膝に置かれると、その顔はふたたび微笑みを取り戻したのだが、それは、感謝の念というよりも、むしろ痛みが止んだためだった。大した額が集まったわけではなかったからだ」(110ページ)

「会話をなんとなく察した旅行者たちは、愉快な気分がすっかり失せてしまったと感じ始め、小声で、さらには彼らの母語で相談した。この小娘をセーヌ川に投げ込もうと提案する者がいたかと思えば、ブランケットでくるみ、声をあげないよう、口から綿を詰め込んだ後で、駅かどこかの手荷物預り所に預けるのがいいと言う者もいた。もし誰も毛布を提供したがらないのなら、トランクひとつでなんとかなるだろう、ぎゅっと押し込めばいいのだから」(135~136ページ)

 この『地下鉄のザジ』には、「クノーの作品のなかでも、もっともユーモアに溢れた一冊」という評判がある。「もっとも」という言葉の真偽は置いておくとして、たしかにこれほどまでに推敲された、一行も、どころか一文字も油断できない小説もなかなかない。

「「いずれにしたって、どんな本にも書いてあることだ」
 「電話帳にもか?」」(90ページ)

「「お巡りさん、すいませんが、サント・シャペル、ゴシック芸術の至宝に行くのにいちばん近い道を教えてくれませんか?」
 「よろしい」トルスカイヨンは反射的に答えた。「教えてやろう。まず左に行って、次に右、するとさほど大きくはない広場に着くから、そこで三番目の道を右に行って、その次に二番目の道を左、さらにちょっと行って右、三度左に曲がって、最後に五十五メートル直進。言うまでもないが、この道のりの中には通行禁止もあるから、行き着くのはそう簡単じゃない」」(125ページ)

 ほんとうに何気ない一文でさえ、気を抜けないのだ。たとえば、こんな描写がある。
 
「涙が一滴、熱々のクルトンの上に落ちて蒸発した」(198ページ)

 涙が蒸発するほどのクルトン! わざわざクルトンを選ぶ必要などぜんぜんないところが、またたのもしい。すこしウッドハウス的なところも感じられる。

「「みなさまは食通でいらっしゃるようにお見受けいたしますので」支配人が言った。「当店の無添加コンビーフをご提案させていただきます。みなさまの前で缶をお開けいたしますよ」」(152ページ)

「蚊が一匹、街灯の円錐形をした光の中を飛び上がった。再び肌を刺しに行く前に、体を温めようとしていたのだ。その目論見は成功した。黒こげになったその死骸は、黄色く彩られたアスファルトに、ゆっくりと落ちたのだ」(187ページ)

 とはいえ、クノーとウッドハウスはぜんぜんちがう。クノーはちょっと信じがたいほど、小説の構造に対する意識が強いのだ。それはちょうど『サリー・マーラ全集』の「序文」のような、メタフィクションうんぬん、という議論をばかにしているような箇所からも見てとれる。

「存在か無か、それが問題だ。上って、下って、行って、来て、さんざんくり返した末に人は消滅する。タクシーが彼を連れて行き、地下鉄は彼を連れ去る、だが塔は、またパンテオンもそんなことを気にかけない。パリはただの幻、ガブリエルはただの(魅力的な)夢、ザジは夢(または悪夢)の幻、そしてこの物語はぜんぶ幻の幻、夢の夢、間抜けな小説家(おっと、失礼!)がタイプ打ちした錯乱が関の山」(103ページ)

「「わたくし上に行くわ」未亡人がきっぱりと言った。
 「素敵な青い花を見つけてね」」(147ページ)

「彼女は飛んで行く。三階にたどり着いた新フィアンセは、扉の呼び鈴を鳴らす。これほど優雅に呼び鈴がならされては、扉も開くしかない。だから、扉は開く」(159ページ)

 ところどころに創作理論を感じさせるような部分もあり、余計なことを書きたくなってしまう。『あなたまかせのお話』に収められた「附録」、すなわちジョルジュ・シャルボニエとの対話を読み返したくなった。

「「ほんとうにグズなやつだな、おまえは」シャルルが言う。「ガブリエルは、人から聞いたデタラメを、分かりもしねえでそのまま言ってるんだ、こいつは一回聞きさえすりゃ、なんだって言えるんだよ」
 「ちゃんと聞かなきゃ、そのまま言えないぞ」とガブリエルがやり返す。「だいたいおまえが言うデタラメに、自力で見つけたやつがあるのか?」」(80ページ)

「だけど俺、ガブリエルのショーはもう何度も見たから、正直なところ飽きちまった。それにあいつ、新機軸を出したりしねえんだ。そうじゃねえか、芸術家なんてのは、えてしてそんなものさ。何かひとつやり方を見つけると、あとはそれをとことんやるんだ。まあ、それぞれ種類は違うけど、多かれ少なかれ誰しもそんなものだってことは、認めなくちゃならんけどな」(189ページ)

 この新訳がどんなに優れているのかを、まだ書いていなかった。以下はすこしフランス語の原文も交えながら書いてみたい。まず、生田耕作が「なんてくせえやつらだ」と訳した伝説の書き出し、「Doukipudonktan ?」だ。

「なんなのこいつらなんでこんなにくせえんだ、ガブリエルはいらいらしてそう考えた」(9ページ)

 バルトの『零度のエクリチュール』のときにも書いたが、これは「D'ou qu'ils puent donc tant ?」と書かれるべき文の、じっさいに発音される音のみを書き出したものである。「なんてくせえやつらだ」もいいのだが、個人的にはこちらの「なんなのこいつらなんでこんなにくせえんだ」という、読点があったほうがはるかに読みやすくなるはずの訳文のほうが、原文に近いと思う。というのも、フランス人が読んだって、「Doukipudonktan ?」にはあたまをひねらせられることは、まちがいないのだから。

 おまけに、こういうトリッキーな書き方をしているのは、なにも冒頭の一文だけではないのだ。それはすぐに再登場する。最初に挙げた「小男」の暴言のあと、「もう一度言ってみな」、「もう一度何を言うんだって?」と会話が続き、ガブリエルはこう言う。

「オメーの言ったコトだ……」(11ページ)

 この文章、原文では「Skeutadittaleur...」となっている。これは「Ce que tu as dit tout à l'heure」だろう。じっさい『地下鉄のザジ』は、こんな文章ばかりで織り上げられた物語なのだ。まともに書かれた文章のほうが少ないのではないか。おまけに、これは単語レベルでも適用されていて、たとえばザジが「蚤の市」で欲しがる「ジーンズ」は「bloudjinnzes」と綴られているのだ。フランス語でも「jean」、または「blue-jean」で通用するというのに。

 こんな文章もある。

「グリドゥーは靴と道路を前に、またひとり残される。彼はすぐ仕事に取りかかったりはしない。一日五本と決めている煙草をゆっくりと巻き、落ち着き払って吸いはじめる。なんだか考え事をしているような様子をしているような様子に見えたりもする様子だ」(87ページ)

 最後の一文、生田耕作訳では、たんに「何か考え込んでいるようにも見える」と訳されているだけだ。原文では、「On pourrait presque dire qu'il semblerait qu'il a l'air de réfléchir à quelque chose」。つまり、やけにまどろっこしく書かれているのだ。

 生田訳では完全にスルーされていた箇所、原書で読むとわけがわからなくて自分からスルーしていた箇所が、じつに丁寧に訳出されている。わたしも含めて、今後『ザジ』を原書で読みたいと思った人たちには、この新訳は脇に常備しておくべき必携書となるだろう。生田耕作訳で「地階からにぎやかな響きが聞こえていた」となっていた部分は、こうだ。

「地下から巨大なざわ、ざわ、ざわめきが立ち上っていた」(145ページ)

 原文は以下のとおり。

「Du sous-sol émanait un grand brou. Ah ah」

 これもクノーの反則技、訳者を苦しめるユーモアの一例だ。「Ah ah」って。

 生田訳では「そしてテュランドーはタクシーを転覆させる危険を冒してシャルルの腿を力一杯たたきつける」となっていた箇所も、久野昭博訳では、

「テュランドは、タクシーをグシャグシャルルにする危険も顧みず、シャルルの太腿をポーンと一発鳴らした」(164ページ)

 となる。原文は、

「Et Turandot donne une claque sonore sur la cuisse de Charles au risque de faire charluter le taxi」

 である。「Charles」と「charluter」をかけたどうしようもないオヤジギャグが、なんと、どうしようもないオヤジギャグのまま日本語で再現されているのだ。ていうか、そもそも「charluter」ってなに? こんな動詞は辞書に載っていない(というか、クノーの使う変な言葉が辞書に載っていることのほうが少ない)。生田耕作の訳文から察するに、たぶん「chahuter(ひっくり返る)」がもとになっているのだろう。ほら、訳書が二冊あると、こんなことまでわかる。

 ちなみにシャルルが大活躍している箇所はじつはもうひとつあって、それは冒頭まもなく、シャルルが物語に登場する前のガブリエルの発言だ。

「それに早く行かなきゃ。シャルルが待ってらっしゃるる」(14ページ)
「Et puis faut se grouiller : Charles attend」

 ちなみに生田耕作訳では「それに急がなくちゃ。シャルルがお待ちかねだ」とある。普通である。ていうか、この箇所、じつは原文を見ても、どうしてジョークに訳されているのかわからない。手もとのプレイヤード版全集の注釈によると、もともとの文章は“シャルル”・ド・ゴールの不遇の時代を暗示しているそうだが、どうしてそういう結論に至るのか、正直ちっともわからない。それでも久保昭博訳では、とにかくなにかしらの含意があったことが表明されているのだ。すげえ。徹底している。

「ザジのことなどどうでもよろしい。小娘なんぞ胸くそ悪い、トゲトゲしくて、オエーだ。それに引きかえ、あなたのようなお美しい方は……たまらん」(179ページ)
「ザジのことなんかどうだってよろしい。小娘なんか、うんざりだ、ギスギスして、ゾーッ。あなたみたいな美しい女性がいらっしゃるのに……畜生」(生田耕作訳、189ページ)
「On s'en fout de Zazie. Les gosselines, ça m'écoeure, c'est aigrelet, beuhh. Tandis qu'une belle personne comme vous... crénom」

 これは、個人的に気に入ったので並べてみたかっただけの箇所。「crénom」は「sacré nom de Dieu」の略で、「ちくしょう」とも「いまいましい」とも「なんてこった」とも訳せる感嘆詞である。「たまらん」が、たまらん。

 この新訳のなかでもとくにすごいと思ったのが、以下のマルセリーヌとトルスカイヨンの会話だ。

「「たとえばそう。あるいは、警察官の服を付けるときに使うものもあります(沈黙)」
 彼は心配そうな様子をした。
 「付ける」と、彼は苦しげに繰り返した。「この言い方は正しいのかな、私は付けるって。私は告げる、これはいい、でも、私は付けるは? 美しき人よ、いかがお考えですか?」
 「そうね、暇を告げなさい」」(181ページ)
「Par egzemple. Ou bien encore celui que j'adopte lorsque je me vêts en agent de police (silence).»
 Il parut inquiet.
 «Je me vêts, répéta-t-il douloureusement. C'est français ça : je me vêts ? Je m'en vais, oui, mais : je me vêts ? Qu'est-ce que vous en pensez, ma toute belle ?
 ― Eh bien, allez-vous-en.」

 なんたる離れ業! と思わず手を叩いてしまった。ここでは「着る」「身に付ける」を意味する動詞「se vêtir」の活用形が問題になっている。そしてトルスカイヨンはごにょごにょと似たような言葉を探しながら、「立ち去る」を意味する「s'en aller」を口にするのだ。それを拾ったマルセリーヌの切り返しが、「じゃあ出て行きなさい」を意味する「allez-vous-en」。「暇を告げなさい」! 神がかった訳文である。

 とはいえ、さすがに以下の箇所は訳しようがなかったようだ。

「「取ってきて差し上げましょうか?」と、マルセリーヌがそっと尋ねた。
 「いや、自分で行きます」」(182ページ)
「«Vous voulez que j'aille le chercher ? demanda doucement Marceline.
 ― Non, j'y vêts.»」

 この訳者が気づいていないわけがないので、悔しかっただろうな、と思う。だったら指摘すんなよ、とは自分でも思うのだが、自己満足のために書いておこう。最後の「j'y vêts」は当然、「j'y vais」と書くべきなのだ。しかし、いつもどおり、クノーはしつこい。ここでもさきほどの「se vêtir」の議論を持ち出し、トルスカイヨンに発音は同じ「j'y vêts」と言わせているのだ。ちなみにこれらの箇所、生田耕作訳では、そのままフランス語の原文が書き写されている。それに比べたら、よほど気の利いた訳であることは疑いない。

 最後にもうひとつだけ。もうひとつ、猛烈に感動した箇所があるのだ。

「「ではもう一度、ついさっき、あんたの前でのべる疑問文を言ってもいいか?」
 「述べた、だ」不明氏が言った。
 「伸べた」トルスカイヨンが言った。
 「述べた、だ、漢字が違う」」(185ページ)
「― M'autorisez-vous donc à de nouveau formuler la proposition interrogative qu'il y a quelques instants j'énonça devant vous ?
 ― J'énonçai, dit l'obscur.
 ― J'énonçais, dit Trouscaillon.
 ― J'énonçai sans esse.」

 会話なのに「漢字が違う」かどうかなんてわかるかよ! というつっこみは、じつはほとんどそのまま、原文にも通用するのである。「J'énonçai」も「J'énonçais」も、発音は同じなのだ。ちなみに生田耕作訳では、やはり原語がそのまま書かれ「Sはいらない」と言われている。原文では「Sはいらない」ではなく「esseはいらない」と書かれていることも見逃せない。しかも、なぜ単純過去? 単純過去形を会話で使うことはないのだ。クノーの言葉遊びを逐一日本語に置きかえることなど、ぜったいにできない。その前提に立ってみれば、この新訳がどれほどものすごい偉業であるか、はっきりとわかるだろう。

「「ありがとう」ガブリエルは言う。「だが芸術も忘れないでくれ。お笑いだけじゃない、芸術もあるんだ」」(190ページ)

 この久保昭博という訳者は、『はまむぎ』の新訳も担当することになっている。なんたる楽しみ! これまでぜんぜん知らなかったのにもかかわらず、すでに全幅の信頼を寄せてしまっている。この新訳がどんなにすばらしい仕事であるか、生田耕作訳を愛するすべてのひとに、ぜひとも体験してみてほしい。ああ、ザジ!

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)