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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

フロッシー

三冊しかない「晶文社アフロディーテ双書」の一冊。英国の詩人スウィンバーンの著作として一応議決されているものの、著者が誰であるかの確証は未だに存在しないようだ。

フロッシー

フロッシー

 

アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(江藤潔訳)『フロッシー』晶文社アフロディーテ双書、2003年。


先日掲載したピエール・ルイス『女と人形』に、性描写がほとんど入っていなかったのに対して、スウィンバーンの本書は性描写以外の描写を探すのが困難なほど、猥褻さに満ち溢れている。

しかも中心となるのは「ガマハウチング(gamahuching)」、即ちオーラルセックスだ。官能を愛しながらも処女性を失うことを禁じられた、十五の少女フロッシーが、主人公である中年男性との性行為の数々で、女になっていく話である。ちなみに彼女に処女性を保つことを約束させた女性も、主人公たちと共に思うまま快楽に耽溺していく。

「たしかに、彼女の若さを考えれば、ほっそりしたウエスト、やわらかなサテンのような腹部、ぴんと張った胸のふくらみなど、いかにも少女らしい無類の美しさを具えており、性行為のすえに結婚をしたり――少くとも今のところは――熱愛の当然の帰結がもたらされたりするには、あまりにも勿体なさすぎるように思われた」(44~45ページ)

読み手を興奮させることを目的として書かれたものが猥本なら、これは紛れもなく猥本である。ただ、オーラルセックスにとどまり挿入と膣内射精を避け続ける二人の行為には、ただの官能小説にはない緊張感がある。ただの官能小説なるものを読んだことはないのだが。

「さて、私の読者のなかでどなたか、愛する乙女をファックする幸運に恵まれた方がおいでなら、そんな場合に生じる疲労が、“愛情のない”平凡な性行為のもたらす気だるさなどにくらべ、なみなみならぬものであり、かつ持続するものであることにご同意くださるであろう」(147~148ページ)

ちなみに助平根性を指す「H」という言葉は、この『フロッシー』を大正期の日本に紹介した、梅原北明(ほくめい)の名から来ているという説があるようだ。

猥褻か芸術かと聞かれたら、やはり圧倒的に猥褻なのだが、それは悪評としての猥褻ではない。上品か下品かと聞かれたら、上品だと答えることができる。評価の難しい本だった。

フロッシー

フロッシー

 


〈読みたくなった本〉
ミュッセ『ガミアニ』

ガミアニ (晶文社アフロディーテ双書)

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クレランド『ファニー・ヒル』

ファニー・ヒル (河出文庫)

ファニー・ヒル (河出文庫)

 

レアージュ『O嬢の物語』

O嬢の物語 (河出文庫)

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