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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

悪魔物語・運命の卵

 チャトウィン『どうして僕はこんなところに』、そこからミリマノフの『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』を読み、いま、ロシアが熱い。余談だが以前友人が同じことを言おうとして「今、ロシアの小説が熱――どう見てもロシアの冬は長く厳しい」と書いたとき、「なにが言いたいのかさっぱりわからん」と仲間うちで物議を醸したことを思い出した。先日『巨匠とマルガリータ』のTシャツを購入したことから無性に読みたくなった(そのときの記事「雑記:ぼくはおしゃれなブックラバー」)、ブルガーコフの中篇二篇。

悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)

悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)

 

ミハイル・アファナーシエヴィチ・ブルガーコフ『悪魔物語・運命の卵』岩波文庫、2003年。


 ちょっとした洗濯上の誤算があり、これを読んでいたときに着ていたのはなぜか『不思議の国のアリス』のTシャツだった。だめじゃん! だが、それがこの本の価値を貶めるわけではけっしてない。そんなことがあってたまるか。ブルガーコフはすぐさま、ほとんど忘れかけていた『巨匠とマルガリータ』のテンションの高さを思い出させてくれた。

「ひと晩じゅう、コロトコフは明かりを消さず、ベッドに横になってマッチを擦りつづけた。こうして、マッチを三箱、すっかり擦ってみたのだが、結局、火の点いたマッチは六十三本だけだった。
 「あの女め、嘘をつきやがった」とコロトコフはつぶやいた。「ちゃんとしたマッチじゃないか」
 明け方近くには、部屋は息もつけないくらい硫黄の匂いが充満していた。コロトコフは夜明けとともにようやく眠りに落ちたが、緑の草原にいる自分の前に、生き物のような巨大なビリヤードの玉が短い両足で出現するというような、グロテスクな恐ろしい夢を見た。なんとも気味の悪い夢だったので、コロトコフは叫び声をあげて、目をさました。それから四、五秒ばかりは、霧にぼんやりかすむような幻覚、ビリヤードの玉がベッドのそばで動きまわるのが見え、硫黄の匂いがひどく強く立ちこめていた。しかし間もなく、そういったすべてのものは消え去り、しばらく寝返りを打っているうちに、コロトコフはいつしか寝入ってしまい、もうそれきり、目をさますことはなかった」(「悪魔物語」より、13ページ)

 いきなり「生き物のような巨大なビリヤードの玉が短い両足で出現する」のである。ああ、もう、ブルガーコフめ! と思い、再会を喜ばずにはいられなかった。そうだった、この作家はこういうことをしやがるのだ、と頷く。そもそも20世紀の文学作品を読むことがあまりなくなってしまっていたので、こういう描写はとんでもない不意打ちとしてわたしを叩きのめした。

「見知らぬ男は、長身のコロトコフのせいぜい腰あたりまでしかない小柄な男であった。ところが、その男の肩幅ときたら、背丈の低さを補うにあまりあるほどであった。四角ばった胴体が蟹股の両足に支えられ、しかも左足は不自由そうに引きずられていた。けれども、なによりも人目を惹いていたのは頭である。その頭は、それこど巨大な卵の見本さながらで、鋭く尖った先端が前に倒れるようにして首の上に水平にのっかっていた。また、卵のようにつるつるに禿げあがり、強烈な光を放っていたので、頭頂部には暗闇のなかでも電球が消えることなく輝いているかのようであった。顔には、ひげの剃りあとが青々とし、芥子粒みたいにきわめて小さな緑色の目は、落ちくぼんだ眼窩の奥に収っていた」(「悪魔物語」より、14~15ページ)

 ここで注目したいのは、この「見知らぬ男」ことカリソネルの、「青々とし」たひげの剃りあとである。普通、ひげの剃りあとには注目しない。だれだってそうだろう。だが、ブルガーコフはべつだ。彼はこのディテールを最大限に活用し、またしても不意打ちを、つまり読者の度肝を抜いてくる。

「グレーの軍服も鳥打帽も、書類鞄も、干葡萄のような目も、なにからなにまで、コロトコフには見覚えのあるものばかりだった。それはカリソネルにちがいなかったのだが、そのカリソネルは、胸のあたりまで届きそうなアッシリア風の縮れた長い顎ひげを伸ばしている。コロトコフの脳裏には、〈あいつがオートバイに乗り、階段を駆け昇って行くあいだに顎ひげが伸びたとは、いったい、どういうことだろうか?〉という考えがすぐに浮かんだ」(「悪魔物語」より、31ページ)

 この「悪魔物語」にはオットー・ランクがその著書、その名も『分身』で語っていたような、とくにホフマンがとりつかれていたような分身のモチーフが、何度も登場してくる。この作品が『ホフマン短篇集』に入っていたとしても、わたしはさほど驚かなかっただろう。圧倒的なスピード感をもって語られるストーリーも、どこかドイツロマン派を思わせる。そう考えてみると、この「悪魔物語」という題名すら、いかにもホフマンが名付けそうなものではないか。

「この瞬間、ドアがぎいっと軋み、カリソネルが顎ひげをつけて戻ってきた。
 「カリソネルはもう出かけたのですか?」と男はかぼそい声で、愛想よくコロトコフにたずねた。
 周囲の光はことごとく消えた。
 「ああ、ああ」このような拷問に耐えられなくなってコロトコフは、泣き出し、われを忘れ、歯を剝き出してカリソネルにとびかかった。カリソネルの顔にははげしい恐怖の色が浮かび、そのため顔色が黄色に変わったほどである」(「悪魔物語」より、49ページ)

「「助けてくれ!」甲高い声を本来の銅鑼をたたくような声に変えながら、カリソネルはどなった。足を踏みはずして、轟音とともに後頭部を下にして転落した。しかし、それも意味のないことではなかった。青白く光る目をもった黒猫に変身し、いま来た道を飛ぶように引き返し、まっしぐらに、ビロードのように柔らかな身をひるがえして踊場を突っきり、全身を丸く縮めて窓台に跳び上がると、ガラスも割れ、蜘蛛の巣が張りめぐらされた窓の外へと消えた。一瞬、コロトコフの脳裏は白いヴェールのようなものにおおわれたが、それもすぐに消え失せて、明晰な状態が訪れた。
 「いまこそ、すっかりわかったぞ」とコロトコフはつぶやき、静かに笑いだした。「ああ、わかったとも。こういうことなのだ。猫どもだ! なにもかもわかったぞ。猫どもの仕業だ」」(「悪魔物語」より、62ページ)

 この「猫どもだ!」という言葉とともに、『巨匠とマルガリータ』に登場する「しなやかな毛並みの」、あの心底うざったい化け猫ヴェゲモートを想起するのはわたしだけではないだろう。余談だが、英語版ペーパーバックの『巨匠とマルガリータ』の表紙には猫が描かれていることが多く、まるでこの化け猫が主役であるかのようだ。興味のある方はAmazonなどで「Master and Margarita」と検索してみてもらいたい。悪意に満ちた猫どもの行進が見られるだろう。心底うざったい。

 ところで、もちろんホフマンは「悪魔物語」を書きはしなかっただろう。ホフマンを読んでいて、ブルガーコフほど気の利いた言い回しに出会うことは数少ない。物語に没入させてくれる力ではホフマンのほうが上だが、それは彼の描写がブルガーコフのそれほど突き抜けてはいないこととも無関係ではないだろう。

「遠くのほうから時計の打つ音がかすかに聞こえてきた。ボーン……ボーン……〈あれはペストルヒン家の時計だな〉とコロトコフは思い、かぞえはじめた。十……十一……真夜中の十二時、十三、十四、十五……四十……
 「時計が四十回も打ったぞ」コロトコフは苦笑したあと、ふたたび泣きはじめた」(「悪魔物語」より、64ページ)

「「ご覧なさい、ご覧なさい、この男は机のなかから出てきた。いったい、これはどういうことです
?」
 「当然です、這い出てくるのも」と青いスーツの男は答えた。「まさか、一日じゅう横になっているわけにもゆかないでしょう。時間です。もう時間ですよ。仕事の邪魔をしないでください」」(「悪魔物語」より、70ページ)

 話は読者を置き去りにして、翼が生えたかのように自由に飛び回っていく。そうそう、『巨匠とマルガリータ』もこんな感じだった。だが、わたしが同時に思い出したのは、『巨匠とマルガリータ』を読んだときに感じたこと、それはチェスタトン『木曜日だった男』、とくにその後半部との類似だった。置き去りにされているのは明らかだというのに、それを追いかけることの圧倒的な楽しさは、いったいなんだというのだろう。

「ブロンドの男がふとい腕をひと振りすると、コロトコフの目の前の壁が崩れ落ち、机の上の三十台のタイプライターが金属音を響かせてフォックス・トロットの曲を演奏しはじめた。タイプライターに向かっていた三十人の女たちは、腰を揺すり、エロチックなポーズを作って肩をすぼめ、クリーム色の両脚を高く上げ、汗びっしょりになりながら、机の周囲をパレードのように整然と歩きはじめた。
 白い蛇のような用紙がタイプライターの口のなかに這い込み、身をくねらせ、裁断され、縫い合わされた。すみれ色の縦縞の縫い取りのついた白いズボンが這い出てきた。《本状の所持者は実際に本人であって、やくざ者ではないことを証明する》
 「これでもはいていけ!」霧のなかで、ブロンドの男が大声をはりあげた。
 「ひーい、ひーい」コロトコフは悲しげに、かぼそい声をあげて泣き、ブロンドの男の机の角に頭を打ちつけはじめた」(「悪魔物語」より、74ページ)

 後半、ドゥイルキンという「こわい人」が登場するのだが、このわずか数ページしか現れない男が傑作である。やることなすこと、まったくわけがわからない。読みながらはっとして、わたしはそのとき自分が着ていたTシャツを見やった。こいつはほとんど不思議の世界の住人である。

「《ドゥイルキン》という標札のかかったドアの前で、コロトコフは少しためらったのち、思いきってドアを開けると、暗赤色の大きな机があり、壁に時計のある、居心地のよさそうな事務室に入った。小柄で、ふとったドゥイルキンが机の向う側ではずみのついたように跳びあがり、口ひげを逆立てて、コロトコフがまだひとことも口をきかないうちに、どなった。
 「黙れっ!」」(「悪魔物語」より、78~79ページ)

「「このとおりだよ、きみ」善良そうで、へりくだった態度をとりはじめたドゥイルキンは、苦笑して言った。「精を出して仕事をした報いがこれだ。夜もおちおち眠らず、食うものも食わず、飲むものも飲まないようにして働いた結果が、いつもこれだ、平手打ちを食らわされるだけ。まさか、あなたも、そんな目的で来たのではないでしょうね? ドゥイルキンを殴れ、殴りつけよ。こいつの面は官僚の面をしているというわけだ。手が痛むかもしれませんよ。それだから、燭台で殴ったほうがいい」
 そしてドゥイルキンはそそのかすように、ふくれた頬を机の前に突き出した。なにもわけのわからぬまま、コロトコフは首をかしげ、内気そうに笑い、燭台の足をつかむと、鈍い音をさせてドゥイルキンの頭を打った。鼻からほとばしった血が絨緞に降りかかり、「助けてくれ」とドゥイルキンは叫んで、ドアを開けて奥に逃げこんだ」(「悪魔物語」より、80~81ページ)

 だが、この中篇のなかでいちばん気に入った文章は、物語の開始後すぐに現れた以下の箇所である。悪魔もなにも、葱には勝てない。

「「パンテレイモン」コロトコフは不安げに口を切った。「どうか通してくれ。いますぐ、工場長に会わなければならないのだ……」
 「だめです、だめですよ、だれも通してはならぬと命令されているのですから」とパンテレイモンはしわがれた声で言い、葱のきつい匂いでコロトコフの決意を吹き消した」(「悪魔物語」より、25ページ)

 さて、つづく「運命の卵」は、「悪魔物語」よりもよっぽど構成のしっかりした、言うなれば熟慮の上に書かれた趣のある作品である。かといってスピード感がないわけではもちろんない。わたしはこれを読みながら、H・G・ウェルズ『タイム・マシン』岩波文庫版に収められた短篇の数々を懐かしく思い出した。下の〈読みたくなった本〉にも書いたとおり、ウェルズの名前まで登場しているのだ。

「それ以降、事態はさらに悪化した。ヴラスの死後、研究所の窓は一枚残らず凍ってしまったため、内側のガラスの表面には色とりどりの氷が張った。兎も、狐も、狼も、魚も、みな、つぎからつぎへと死んでゆき、蛇などは一匹もいなくなった。ペルシコフは何日も口をきかなくなるとともに、やがて肺炎にかかったが、死にはしなかった。全快してからは、週に二回、研究所の外の気温とは関係なく、なぜかつねに零下五度の温度を保っている研究所の円形講堂で、オーバーシューズを履き、耳当てのついた帽子をかぶり、マフラーを首にまいたまま、白い息を吐きながら、八人ほどの聴講生を相手に、「熱帯地方の爬虫類」と題する連続講義を行なっていた」(「運命の卵」より、96~97ページ)

 主人公が老練の動物学者であるため、カエルや蛇といった動物たちが登場かつ意見表明をしてきて、大いに笑わせてくれる。カエルの解剖という点では、アナトール・フランスの中篇「ジョカスト」の冒頭をすぐに思い出した。

「そこのガラス台の上には、恐怖と痛みのために息もたえだえに、なかば死にかかった雨蛙がコルク台の上に磔にされていて、血まみれになった腹のなかから、透明な雲母のような内臓が顕微鏡の下に引き出されていた。
 「なかなかいい」とペルシコフは言い、顕微鏡の接眼レンズに片目を当てた。
 雨蛙の腸間膜には、なにかきわめて興味深いものが見えたが、生きた血球が血管を勢いよく流れているのがはっきりと見てとれたのである。ペルシコフはさきほどのアメーバのことなどすっかり忘れ、一時間半というもの、イワノフと交互に顕微鏡のレンズを覗きこんでいた。そのあいだ、二人の学者は活気にあふれてはいるものの、普通の人間にはなにも理解できない言葉をかわし合っていた。
 ついに、ペルシコフは顕微鏡から離れて、言った。
 「血が凝固してゆく、これはどうしようもない」
 雨蛙は苦しそうにかすかに頭を動かしたが、そのどんよりした目には、〈きさまらは悪党だ、まったく……〉という言葉がはっきりと読みとれた」(「運命の卵」より、101~102ページ)

「七月の黄昏が迫ってきて、灰色の影が研究所を支配し、すべての廊下をつたって流れはじめた。研究室からは単調な足音が聞こえてくるばかりだったが、それは、明かりもつけずに、大きな部屋の窓からドアへと歩数をかぞえながら行きつ戻りつしているペルシコフの足音だった……奇妙なことだが、この夕暮は、説明しがたい物悲しい気分が、研究所に住む人間だけではなく、動物までをもとらえていたのである。ひき蛙どもは、どういうわけか、ひとしお物悲しいコンサートを開始し、不吉なことを警告するような調子で鳴き立てていた。パンクラートは暗室から逃げ出した一匹の蛇を廊下でつかまえたが、そのとき、蛇のようすは、もうどこでも構わない、とにかく、ここから逃げ出せさえすればよいのだ、とでもいわんばかりの表情だった」(「運命の卵」より、183〜184ページ)

 また、いわゆる「ビルドゥングスロマン」とは反対に、主人公がすでに老練・大成していることから、これはわたしが名付けるところの「おじいちゃん文学」にあてはまる作品でもある。ゲーテ『ファウスト』アナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』ブレヒト『ガリレオの生涯』などなど。わたしはおじいちゃん文学が好きだ。

「「パンクラート!」
 パンクラートはあたかも階段から登場するオペラの主人公のように、ドアのそばに姿を現わした。それを見るなり、ペルシコフは喚きたてた。
 「出て行け、パンクラート!」
 パンクラートのほうは、いささかの驚きの色も顔に浮かべずに、姿を消した」(「運命の卵」より、178ページ)

 物語はわたしが予想だにしなかった方向に向かい、グロテスクな描写などで大いに驚かせてくれるのだが、そのやり口もまた、どこかホフマン的なところがある。とはいえこれは、やはりウェルズを意識して書かれた作品である。そして、こんなことを思いついたままに書いてはいるものの、じつはそんなことはなんだってよいのだ。肝心なのはこの奇想の数々が、われわれをどこまでも遠くに連れだしてくれるということである。

 このふたつの中篇作品は、すこし前に復刊された『犬の心臓』とあわせて、「諷刺三部作」と呼ばれることがあるそうだ。なるほど、発禁処分になったことも頷ける、体制に対する反骨精神に溢れた作品である。「運命の卵」にいたっては、政府側の人びとのちょっとしたミスの蓄積が、結果的な大混乱を招いているのだ。とはいえ、これを政治批判の著として扱うのは大いにまちがっていると思う。ブルガーコフは手近な敵を自分の物語の筋書きに利用しただけ、という感じがするのだ。これらの茶目っ気に溢れた作品でさえも発禁処分にせざるをえなかった当時のソ連という社会が、どんなに冗談の通じない連中で構成された窮屈なものであったことか、想像するだに気が滅入る。だが、もっと過激な政治批判の本であったなら、いまになって彼の作品が再評価されることなど、けっして起こらなかったにちがいない。読者がソ連という体制とこれほどまでに無縁になった時代において、ブルガーコフの作品はわれわれをこれほどまでに魅了しているのである。ジェットコースターに乗るみたいに、残された一作「犬の心臓」なども含め、また手に取りたいと思った。

悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)

悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)

 


〈読みたくなった本〉
ブルガーコフ『犬の心臓』

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

犬の心臓 (KAWADEルネサンス)

 

ウェルズ『神々の糧』
「これに比べると、ウェルズの小説の登場人物たちなどはまったく荒唐無稽なものにすぎません……わたしだって、あんなものはとるにたりぬ作り話だと思ってはいたのですが……ウェルズの『神々の糧』を覚えていらっしゃいますか?」(「運命の卵」より、117ページ)

The Food of the Gods (Sf Masterworks)

The Food of the Gods (Sf Masterworks)

 

プーシキンスペードの女王
「夜の十時、ソフホーズのはずれにあるコンツォフカ村の物音がとだえ、ひっそりと静まり返ったとき、魅惑的でやさしいフルートの音が牧歌的な風景のなかに響きはじめた。そのフルートの音が、林や、シェレメ―チェフの旧屋敷の円柱にどれほどふさわしいものであったかを表現することは困難である。『スペードの女王』のなかの華奢なリーザは、情熱的なポリーナとデュエットを歌いながら月の高みへと舞いあがってゆくのだが、それは古い時代とはいえ、やはり、限りなくいとおしく、涙を催すほど人を惹きつける時代の幻影のようであった」(「運命の卵」より、199ページ)

スペードの女王・ベールキン物語 (岩波文庫)

スペードの女王・ベールキン物語 (岩波文庫)

 

プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

 

イリヤ・エレンブルグ『トラストD・E』

ロスタン『シャントクレール』

Chantecler

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