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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ホフマン短篇集

オットー・ランクの『分身』を読んでから読みたいと思っていたホフマン。初めてホフマンを読むにあたってどこから始めようかと考えていた時、以前友人からもらったこの短篇集を思い出した。彼はこの本を古本屋で見つけて嬉々として購入したところ、家に帰って本棚を見てみたら既に一冊持っていたそうだ。そういうことって本当によくある。

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

 

E・T・A・ホフマン(池内紀訳)『ホフマン短篇集』岩波文庫、1984年。


今まで読んだことのない作家の本を池内紀が翻訳しているというのは、大変喜ばしいことだ。面白さを約束されているようなものである。しかも短篇集。初めて読むにあたってこれほどの好条件が揃うこともないだろう。以下、収録作品。

★★☆「クレスペル顧問官」
★★☆「G町のジェズイット教会」
★★☆「ファールンの鉱山」
★★★「砂男」
★★☆「廃屋」
★★★「隅の窓」

いつも通りに星の数で評価を付けてみたが、ご覧の通り付けても付けなくても良いような結果となってしまった。短篇の一つ一つが独立した作品であることは間違いないのだが、ホフマンの魅力は作品それぞれの結末にあるのではなく、ストーリーを語る際の流れるような口調にあるのだろう。

言ってしまえばどれもよく似た作品ばかりである。その共通性の謎解きはオットー・ランクが『分身』の中で示していた通りで、分身や鏡像といった概念が頻発する。それこそランクの提示した「分身小説」の条件をそのまま体現するような作品ばかりなのだ。

「ねえ、学生さん、私がここであなたに、地獄の悪魔の鉤の爪で引き裂かれてくたばるがいいなどと言ったとしたら、礼儀作法に反することになりますね。だからしてそんなことは申しますまい。しかしですよ、今夜は闇夜でありまして往来は暗いのです。私がことさら突きとばしなどしなくても、どこに災難が待ち受けているかしれません。だからどうか気をつけてお帰りなさい。たとえ二度とふたたび――よろしいですな、二度とふたたびお目にかかれないとしても、私の友情は忘れないでくださいよ」(「クレスペル顧問官」より、25ページ)

何も考えずに読み進めることができるので、うっかりするとそのまま終わってしまう。さすがはロマン派である。シャミッソーとクライストくらいしか読んだことはないが、動作を基軸に読者を引っ張っていくやり口には共通するものを感じた。

「計られたものだけが人間にかなうものであり、量ることのできないものは悪ですよ。人間を超えたものは神にちがいない。さもなくては悪魔です。神にしろ悪魔にしろ、数学においては人間にかなわないのではないですか?」(「G町のジェズイット教会」より、61ページ)

ドッペルゲンガーは様々なかたちで登場する。わざわざ注意しなくともすぐに分身であることが見てとれるのだが、ランクの唱えていた定式が逐一合致してびっくりした。彼らは常に主人公の正気を奪い、最後には命まで手にかけるのである。最後に死がやってくるのは池内紀も巻末エッセイ「ホフマンと3冊の古い本」の中で指摘していた。ランクや池内の指摘が後世からホフマンを見つめたものであるとは言え、これほどの一致は考えがたいものだ。分身モチーフ云々よりも前に、ホフマンは命の危険を察知していたのではないだろうか。ランクを読んだ直後だったため分身ばかりが目についてしまったが、むしろ注目すべきは登場人物の死という結末で、その後味の悪さなのかもしれない。

「才能を疑い出すのがまさしく才能のあかしなんだよ。自分の能力に一点の疑いもいれず、たえず自信満々でいられるのは単なるばかであって、当人が錯覚しているだけのことだ。その者には努力のための本来の契機が欠けている。努力はただ自分の足らなさを知ったときにはじまるのだから」(「G町のジェズイット教会」より、73~74ページ)

音楽や絵画、小説といった芸術が主題となっているものも多い。古いものではトーマス・マン、最近ではミルハウザー「アウグスト・エッシェンブルク」を想起させる文脈だ。「G町のジェズイット教会」は特にそれを意識させる。

「わしはあなたの内心に火をつけたい。自分では消したがるかもしれないが、いずれ燃え上がり、心をくまなく照らしてくれるようにとじゃね」(「G町のジェズイット教会」より、78ページ)

後半にある「砂男」は様々なアンソロジーにも引かれる一編で、このラインナップの中では最も有名な作品かもしれない。「ファールンの鉱山」も同様だが、分身の存在が強く表れている作品だ。

「あなたのおっしゃるとおりコッペリウスはいやらしい悪魔です。だから魔性の力を振るって怖ろしいことをしでかしますわ。だけどそれはあなたが頭のなかから追っ払わないからのことであって、あなたがそれを信じているかぎりコッペリウスはたしかにおりますとも。あなたの信じこみが魔性の力というものですわ」(「砂男」より、177ページ)

「砂男」は構成の面白い作品で、最初は書簡体小説の態で始まり、中盤より前に本当の語り手が登場する。どうしてこのような構成にしたのか、どんな効果を狙っていたのかはわからないが、意匠が凝らされていて面白い。

「解剖学者のスパランツァーニ先生によると、蝙蝠にはとても結構な第六感というものがそなわっていて、茶目っけたっぷりにほかの五感の代理をするらしい」(「廃屋」より、215ページ)

「G町」だの「スパランツァーニ教授」だの、ここに掲載されている短編は相互に同じ登場人物を持っていることが多い。特にスパランツァーニ教授はいくつかの作品で重要な役割を果たしていて、ただ頻出する名前というだけでなくホフマンのお気に入りだったことがわかる。この人物についても、訳者による巻末エッセイに詳しい。このエッセイは全然解説めいたところがないのだが、知的好奇心を妙にそそられるものだ。さすが池内紀と言いたくなる。

「思考というものが紙の上にちゃんとした姿をとってあらわれるためには、一定の道筋をたどらなくてはならない。その道筋を悪性の病いという悪霊が遮っていた。何かを書こうとするやいなや、指先がとんと役立ってくれないばかりか、まごまごしているうちに思考の方がもぬけの殻となって消え失せてしまうのである」(「隅の窓」より、271ページ)

最後の「隅の窓」、これも「砂男」と同様に特異な構成を持った作品だ。途中から対話文がひたすら繰り返される、さながらセリフの長い戯曲のような形式になるのである。「隅の窓」の場合は地の文がカットされ、それが絶大なスピード感を生み出すことに一役買っている。元々が形容詞や心理描写の少ないメルヘンのような文体なのに、そこからさらに地の文まで削ってしまうのだ。だが今度は登場人物たちの語る内容が地の文の役割を果たすため、小説として全く違和感なく読める。巧みである。

「読書好きの花売り娘とくれば物書きにとって、とてもじゃないがたまらない見物じゃないか」(「隅の窓」より、286ページ)

上は気に入った一文。「読書好きの花売り娘」なんて本当に心をくすぐる。そんな花売り娘に自身が作家であることを告げると、その反応は意外にそっけない。

「花売り娘はこれまで一度たりとも考えたことなどなかったんだね、本が一人の人間によって書かれるなどのことをさ。作家とか詩人とかがいかなるものか、かいもく知っちゃあいないんだ。もしたずねたら、神さまの手によってキノコが地面から頭を出すように、ちょうどそんな風に本もひょっこり生まれるものと答えただろう」(「隅の窓」より、287~288ページ)

まあ、そんなものだろうな。ホフマンの人となりが垣間見える愛らしい一節である。

どの短篇もハズレがないため安心して読める分、振り切った大当たりもないのが唯一の欠点といったところ。もっと読んでみたいと思わせる、心地好い読書時間だった。

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
ボーマルシェセビリアの理髪師
→「顧問官ときたらアントニエに対して、冷酷無惨な暴君でありまして、『セビリアの理髪師』に出てくるドクトル・バルトローと甲乙つけがたいほどなんですね」(「クレスペル顧問官」より、19ページ)

セビーリャの理髪師 (岩波文庫)

セビーリャの理髪師 (岩波文庫)

 

シュティフター『石の話』
→「ファールンの鉱山」に出てくる鉱物の描写を見ていたら、絶対に読みたくなる。

水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)

水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)

 

ダンテ『神曲
→「ダンテが降りたち、その惨状に身も心も凍らせた地獄はまさしくここだと言うべきかもしれない」(「ファールンの鉱山」より、117ページ)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

 
神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

 
神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

 

シラー『群盗』
→「でもやはり存分に笑っておくれと君たちにたのむとしよう。シラーの『群盗』のなかでフランツ・モールがダニエル爺さんにたのんだみたいにさ」(「砂男」より、149ページ)

群盗 (岩波文庫)

群盗 (岩波文庫)