Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

郷心譜

 このところ、読みたい本が多すぎて困っている。いや、考え方によってはこれほど嬉しい悩みもないし、そもそも読みたい本が一冊もない瞬間なんて、わたしの人生にはついぞ訪れた試しもないような気もしているのだが、短歌の魅力と出会ってしまったがために、この短詩と関係の深いあちこちの領域の扉がいちどきに開かれ、しかもそのどれもがわたしには親しみのないものであり、それぞれが同時に「おいでおいで」と手を招いているような気がしているのだ。和歌も近代短歌も現代短歌も「いまの短歌」も、それぞれに読みたい本が多すぎる。そのくせ、これらは詩であるゆえ、どんな本も一読しただけで感想を書きたくなるような本ではないのだ。個人歌集についてはとくにそうで、じつはすでに一読はしているのだけれどまだ記事にはしていない、という本がたくさんある。記事を書くということは自分の印象を固定化することなので、詩についてはとくに臆病になってしまうのだ。これは最近評論めいた本ばかりを記事にしている理由の一端でもある。でも、このまま溢れさせておくと、しまいには「もう書かなくてもいいや」という気になり、やがて失書症に陥るだろう。書かねば、と思った。まずは、岩田正だ。

郷心譜 岩田正歌集 (かりん百番57)

郷心譜 岩田正歌集 (かりん百番57)

 

岩田正『郷心譜』雁書館、1992年。


 岩田正は『現代秀歌』を読んだときから気になっていた歌人で、『新・百人一首』を読んだときにはもう読まねば、と思っていた。『辻征夫詩集』でプレヴェールが話題になっていたのも、じつは記事を書く気になったのとちょっと関連している。岩田正といえば、以下の一首がとくに有名なのだ。

  イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年(16ページ)

 イヴ・モンタンの「枯葉」は、言うまでもなくプレヴェールの詩である。シャンソンありきで、つまり音楽先行で書かれたものなので、「詩」ではなく「詞」という字のほうがふさわしい気もするが、わたしにとってプレヴェールの言葉はいつも「詩」のほうだ。

  世代ちかく生きしと思ひ親しみしイヴ・モンタンはわれを知らざり(16ページ)

  イヴ・モンタン唄ひし枯葉晩秋(おそあき)の柿生の里の丘に降るなり(18ページ)

 この有名な一首の前後には、こんな歌もあった。個人歌集を読むことの楽しみのひとつとして、有名な一首がどんな一連に収められていたかを自分の目で確かめることができる、というのがあるだろう。もちろん、一首は一首として独立したものである。そこに文脈を付け加えるような「一連」という背景をわざわざ調べようというのは、すこしストーカーめいた陰気な考え方ではあるが、わたしは好きになったものはとことん突き詰めたくなるストーカー予備軍であるし、文脈を知ることにもまちがいなく楽しみがある。この有名な一首について言えば、同じ「イヴ・モンタン」が登場するほかの歌に比べて、「妻」の存在が際立っているではないか。

  をとめ見ればこころ華ぎ妻思へば心鎮まるをみなみなよき(17ページ)

  長寿願ふにあらねど妻の笑む面にむかへばともに生きゆくべきか(36ページ)

  あき子には名歌われには××歌さあれ木菟(づく)なく夜はやさしき(99ページ)

  ときにわれら声をかけあふどちらかがどちらかを思ひ出だしたるとき(142ページ)

  般若即妬心と言へりつひにして妻に般若の証し見るなし(144ページ)

  渾身をこむるといふは渾身はもの書く妻の背なに漂ふ(179ページ)

 岩田正の妻とは同じく歌人の馬場あき子のことで、馬場あき子に関してはかつて友人が「笑えるくらいに鬼が似合うひと」と教えてくれたことがあった。『鬼の研究』という本があるらしいのだ。「般若」の一首の前にはこんな歌もあって、ふたりの家にはこの妻の手によって般若の面が飾られていることがわかる。

  壁たかく般若と女面飾りしはある日の女(をみな)のこころなるべし(144ページ)

 歌人夫婦の家の様子を覗き見れる歌はほかにもいくつもあって、どれも可笑しい。ふたりの家が本だらけということは容易に想像がつくが、詠まれている感じでは考えている以上に多そうだ。

  積めば崩れ触るれば崩るる本の山よまざる本にわが家統べらる(142ページ)

  蹌踉と本の山避けてゆく深夜トイレにたつもおろそかならず(143ページ)

 また、とくに笑ってしまったのは、セザンヌが飾られたトイレを詠んだいくつかの歌。

  セザンヌをトイレに飾るセザンヌはトイレに画きしものならなくに(115ページ)

  座する即見上ぐる位置にセザンヌを飾れりトイレの品位上らむ(115ページ)

  発狂をせずすむいはれ鎖(さ)されし場トイレにあるは瞬時なるゆゑ(115ページ)

  慣ひとし朝坐りしに歌一首生れてトイレを急ぎ出で来ぬ(116ページ)

  紙はピンクカバーは真紅のトイレにはセザンヌはやはり合はぬなりけり(116ページ)

 岩田正の歌の現実性というか、フィクショナルな感じがまったくしないのには驚くばかりだ。短歌って、これほどまでに素直なものだったのか、と思ってしまう。まるで、現実に起こらなかったことは詠んではいけないとでもいうかのように、岩田正は虚構を持ち込まないのだ。妻のことだけではなく、歌の友「うたどち」も実名で詠まれている。

  「あんだ」といふ越後訛りの井村さん商売口調で凛々ひびく(150ページ)

  せつかちに喋りて切るる小高との電話用件ひとつを忘る(150ページ)

  歌出来ぬは幸ひなるべしかたはしから歌の友らに電話し怒鳴る(151ページ)

  塚本邦雄タンゴのマニア東京のレコード店評す大阪にゐて(191ページ)

 窪田空穂のことが詠まれたいくつかの歌も、かなりおもしろい。岩田正が「空穂論」を書いたとき、きっと空穂は歌壇の長老であったろう。その結果が、「なんだいなこれ俺かよ」。

  空穂論書きて空穂になんだいなこれ俺かよと言はれし夜あり(125ページ)

  空穂論気負ひて書きし百枚の論究空穂と対座し崩る(125ページ)

  本当は野球トランプ事件好き温雅な空穂とゆめ思ふなよ(127ページ)

 それから、岩田正は料理が趣味のひとらしく、その腕前も相当なものと想像される。

  中華鍋操る見んと女(め)のともら集ひぬうたびとの冥利といはむ(47ページ)

  ここは絵の世界とろみをかけられし焼きそばにのる青菜にんじん(49ページ)

  いいか蜘蛛網(い)を出でて見よ炸(ちゃ)・焼(しゃお)・爆(ばお)中華鍋操るわれの手並みを(52ページ)

  料理出来ぬなら歌作るなと言ふわれの真顔を若きら呆れてぞ見る(58ページ)

 まさかの「料理出来ぬなら歌作るな」である。歌にしてしまっているあたり、言いながら自分でもおもしろがっているのが伝わってきて可笑しい。料理好きということもあってか、このひとが食べものを詠むときはどれもこれもおいしそうで、読みながらお腹が空いてくる。

  りんご食む音よき友を信ぜんかこりこりさくさく……音なきは駄目(19ページ)

  コロッケを揚ぐる肉屋の香が流れ小学校の帰路ぞかなしき(21ページ)

  手摑みにコロッケ三つ食べ終へぬわれの昼食貧しくはなし(22ページ)

  カロリー表みつめてカツの一枚を懼れつつ食ひやがてむさぼる(24ページ)

 ほかにも、動物を詠むときの岩田正は輝いている。まずは犬。

  知性品性ふたつながらに低き犬まだきに起きて鳴き出でにけり(109ページ)

  犬族はしかたなかるべし朝は腹すきてなき夜は腹くちて鳴く(109ページ)

  朝六時鳴く犬隣家にありて覚む犬めと罵(の)りて犬に感謝す(176ページ)

 そして、鴨。鴨は「麻生川」の一連に繰り返し登場してくるのだが、もう「麻生川」じゃなくて「鴨」でいいじゃん、と思うほどの頻度である。鴨を楽しみに川を眺める毎日。

  懸命にすべりてゆけど川の鴨その懸命は表情になき(29ページ)

  水平に肩並めてゆく鴨みればどぶ川清き流れと見ゆる(29ページ)

  鴨どこに行きしやあした川上をさぐり夕べは川下を見る(31ページ)

  はるばると川上にきて鴨に会ふあぶくすくなきところにぞ群る(31ページ)

  麻生川鴨の飛来に見飽きたる人ら川見ず凍てし岸ゆく(32ページ)

  脚で首搔きつつ流るる鴨のあり思はず呟くこれは鴨かや(40ページ)

  群れなせど岸にゐる鴨漁る鴨鴨のそれぞれ孤独なるべし(40ページ)

  川工事鴨を逐ひたり爾来鴨きたらずわれの恨みはながし(41ページ)

 鴨に対する親しみが高らかに宣言されている分、最後の「川工事」の一首がもたらす悲しみは深い。なんてことを、と思わずにはいられない。鴨ばかりの麻生川の一連ではあるが、桜が詠まれたいくつかの歌も忘れがたい美しさだった。

  川すべて埋めてながるるさくら花ひとときさくらは川をも統ぶる(32ページ)

  あまた流るる花のひとつを見定めて流れにあはせ川岸下る(33ページ)

 さて、動物に戻ると、鶯の詠まれ方も忘れがたい。

  鶯がもつともらしく啼いてゐるホーホケキョとはつきり啼くな(169ページ)

  ホーホケキョ・ピポポ鶯小綬鶏らはつきり鳴くはみな嘘くさし(169ページ)

  キイキイとあるはズビズビと鳴く鳥ををみなにたとへ丘くだりゆく(170ページ)

 ホーホケキョが「嘘くさし」というのは、歌人の虚構を寄せ付けない作歌姿勢とも重なって、なにやらぐっとくるものがある。嘘くさいほどのホーホケキョって、たしかにあるし。最後の一首に出てくる「をみな」は、じつはこの歌人が何度も何度も詠んでいる題材で、さきほどの「をとめ見ればこころ華ぎ」からも察せられるとおり、岩田正の女性一般に対する関心(こう書くとまるで助平心みたいに見えるが、もっと上品なもの)、理解しえぬものとしての関心は、この歌集を読んでいると何度も現れてくる。

  少女ひとり送らず帰しし夜のこと悔みて思ふ坂くだりつつ(12ページ)

  歯並びのよき少女なり歯ならびを見むため笑はす心くだきて(56ページ)

  黒き傘に押されて赤き傘ひとつたよりなげにも陸橋わたる(72ページ)

  男(を)にはなく女(め)にあるもの多しと思ふ女贔屓弱気 われの結論(79ページ)

  たとへば君青年転べば笑へても少女まろびしとき笑へるか(79ページ)

  つづまりは男がさきか「抱く」といふ女はやはり「抱かれる」といふ(81ページ)

  鍵(キイ)を打ち数をうちつぐレジ乙女せめて夕べは倖せをうて(90ページ)

  大和言葉優しきものぞ少女子(をとめご)を子といひあれをまぐはひと言ふ(90ページ)

  髪垂りてホームに群るる女生徒の側よぎるときなにか微妙なり(104ページ)

  一千万の少女が朝あさ髪洗ふ泡立つ水の行方をおもふ(105ページ)

  マーラー聴くかたへに今宵髪長き乙女のひとりあるはたのしき(166ページ)

  哲学書よむよき少女の眼とあひてなにがなし車中すこし明るむ(168ページ)

 言葉の端々から優しさが匂い立ってくる感じだ。「少女まろびしとき笑へるか」。「せめて夕べは倖せをうて」。「なにか微妙なり」。ただの女好き親父にはぜったいに書けない詩句だろう。方法論はまったくちがうものの、思えば穂村弘だって、女性のエキセントリシティ、そこに含まれる詩情を求めて『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』を書いたのではなかったか。わかりえないものとしてのこの関心の強さには、つながりを感じる。永遠の女性、母を詠んだ歌にも、すばらしいものがあった。

  在りし日もかなしと思ひ死してなほかなしかりけり母といふもの(61ページ)

  さくら咲く四月吾(あ)にとり忌みの月空穂善麿母逝きし月(127ページ)

 また、死については、以下のようにも詠われている。

  死して掲げられたる写真生きてかく掲げられたる一度とてなし(121ページ)

  人を真に思ふはけだし人亡くてその亡きことの意味思ふこと(124ページ)

 現代における落葉の行方も、なにかものかなしい死の気配を色濃く放っていた。

  地に還ることなき落葉舗装路につもりて腐(くた)るさまも見て過ぐ(111ページ)

  鳥は樹に魚は池中のたとへあれ落葉むなしく路上に腐る(111ページ)

 気に入った歌はほかにもたくさんある。共通して言えるのは、この歌人が詠むときの驚くまでの衒いのなさである。どこまで現実の感情に、つまり歌人の実感に引き寄せられるかが、彼の作歌姿勢の大きな部分を占めているように感じられた。すでにわれわれは、短歌というものがすべて現実の感情や風景を詠ったものである必要性はないと思っている。現実と真実というのははっきり別のもので、虚構のなかに匂い立ってくる真実というものがあることを知っているのだ。だからこそこの、まるで日付のない日記のように綴られた三十一文字、その現実性には、翻ってちょっと度肝を抜かれてしまう。

  駈け降りたき衝動こらへゆるく坂くだれりわれにまだ若さある(10ページ)

  最後の糸最後の糊も剝がれたり音たててわが辞書は崩れぬ(86ページ)

  消えてゐるテレビにうつるわが顔に見られつつ読む自慰めきて書く(101ページ)

  ララバイは不吉なる語感子守唄ララバイといふ不吉なるべし(113ページ)

  「考へる人」の像みつつ考へぬ人ら寝そべりあるはもの食ふ(158ページ)

  虚無虚空裂きて一閃指揮の棒下ろされぬこの一瞬やよし(165ページ)

  洋服を仕立てし端切れ十数年持ちきて捨つるもつたいなあや(173ページ)

  夢千夜花火は一夜億万円消えて夏逝くもつたいなあや(174ページ)

  社会主義蔑(なみ)しきソ連に怒りたり啄木を多喜二をどうしてくれる(180ページ)

  ドビュッシーの「海」の旋律たとふれば蕪村の「ひねもすのたりのたりかな」(183ページ)

  なつかしのロシア甦れりチャイコフスキームソルグスキーのスキーなつかし(187ページ)

 短歌って、こうだったのか。塚本邦雄や葛原妙子という歌人を知ってしまったあとでは、岩田正の歌はずいぶん古くさく感じられ、その古さはいま、逆に新鮮だ。「作歌再開」と題された「あとがき」に書かれた言葉を引いておこう。

「自分が本気で感動してなくて、なんで読者が感動することがあろう。そういうと、感動とか個人の感慨とか、主張や意味性なんて古いなんて言うひとがすぐ出てくる。一種のしらけ現象にのっての発言がそれだ。
 こういう人は、歌は頭だけで作れると思っているのだろうか。知的操作だけで歌が作れると思っているのだろうか。自分をつきつめることを無意味と思っているのだろうか。またそうした背景である、しらけ現象や、自分の感動からできるかぎり遠のく、客観的な世界つまり自己操作から、できるだけ離れた雰囲気で歌ってゆこう、ということが感動を否定することと思っているのだろうか。
 いや、実際は、それもひとつの強烈な自己主張なのである。自己を離れ、離れようとするかたい決意や、そこに抒情の源泉を汲みあげようとするそのことこそ、その作者のつよい自覚と自意識にほかならない」(「作歌再開 あとがきにかえて」より、202~203ページ)

 たとえば、ある小説をいわゆる私小説であると判断して、「これはほんとうに作者に起こったことなのか」、と考えるひとはいつの世にもいて、文学者を名乗るひとの多くは、それを証明するために作家の伝記を紐解いたりしている。かくいうわたしだって、読んでいる最中に、これは現実に体験していなかったら書けない類の文章だな、と思うことがよくある。岩田正の歌の多くは、そういった体験に裏付けられたものとして自立しているのだった。

「短歌評論家なんていう、本当にあるんだかないんだかわからないような、曖昧な肩書きからお別れして、歌人という名を今度こそだれはばかることなく名告れるようになる。こんな嬉しいことはない」(「作歌再開 あとがきにかえて」より、200ページ)

 この『郷心譜』は、評論に費やされた長い時間を経てようやく刊行された、いわば遅すぎる第二歌集だ。上には「日付のない日記」などと書いたが、日々のよしなしごとが定型にきっちり収められているのは、やはり彼が歌人であることの証左なのだろう。以下は、とくに気に入った一首。

  マーラー聴くかたへに今宵髪長き乙女のひとりあるはたのしき

 かつて『現代秀歌』や『新・百人一首』で彼の歌に触れた際に、自分が求めていたのはこれだったのか、と尋ねられると、ちょっと自信が持てない。ここまで現実に依った衒いのない作歌姿勢というのははっきり未知のもので、これほどの現実性は、なんなら和歌にだって見たことがない。三十一文字がこんなふうにも働く、というのは、わたしにはとても新鮮なことに映った。

郷心譜 岩田正歌集 (かりん百番57)

郷心譜 岩田正歌集 (かりん百番57)