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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

きみのいもうと

「気だるさ」と「やるせなさ」、世界から忘れられていた作家、エマニュエル・ボーヴ再び。

きみのいもうと

きみのいもうと

 

エマニュエル・ボーヴ(渋谷豊訳)『きみのいもうと』白水社、2006年。


これは『ぼくのともだち』の続編とも読むことができる、1927年に刊行されたボーヴの長編第二作目だ。前作と重なる点も多いが、異なる点はもっと多い。

まず、前作が「友達になりそこなった人々」をテーマとした短編連作だったのに対して、これは一つの長編である。そして一番大きな違いは、前作をユーモア文学と呼ぶことができたのに対して、第二作の『きみのいもうと』は小説全体が笑いよりもむしろ悲しみに包まれていることだ。そのため、全く読感が違う。手にするだけで気が滅入る。

「彼女がどんなにぼくを愛していても、今、この瞬間、何かに夢中になってぼくを忘れているかもしれない。そう思うと切なくなった」(39ページ)

「ぼくは彼女の額にキスした。頬だと右と左で計二回だけど、額なら一回で済む」(62ページ)

笑いの要素が前作ほど多くないが、筆致は前作と同様。事件は起きず、時間は恐ろしくゆっくりと進行していく。小説の導入部を延々と読まされているような感覚だ。一歩間違えると、途方もない退屈さに襲われる。いや、もう退屈な本だと言い切った方が良いかもしれない。胸がドキドキするような本を求めている人が、間違えてこの本を手に取らないようにする為には。

「ふと、ハンカチを二枚持っていることに気づいた。よっぽど一枚捨てようかと思った。無駄な物を身につけているのは気持ち悪かった」(108ページ)

「もう、心を閉ざして生きていくほかなかった。心を閉ざして、生きていく意欲を取りもどそうと思った」(128ページ)

心に張りがある時には、この本は読めない。無理に読めばそんな張りは無くなってしまうだろう。だが、もう何もかもどうでもいいような自棄を起こした時、この本は最良のパートナーになってくれる。本を読みたくない時に読む本。何もしたくない時に読む本。

「この地上には、ぼくを憐れんでくれる人など一人もいない」(129ページ)

救いのない悲哀の文学。一言で言えば、自業自得。悲しみに包まれている時に読めば、いくらか安心できるかもしれない。

きみのいもうと

きみのいもうと

 


<ゆるい本>
ボーヴ『ぼくのともだち』

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トゥーサン『浴室』

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トゥーサン『ためらい』

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エルスホット『9990個のチーズ』

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