独身者の機械
吉祥寺の古本屋「百年」でとうとう手に入れた、欲しい本リスト最上段の主、ミッシェル・カルージュ。8400円という値段で購入したが、ネットの相場が20000円を容易く越えることを考えると、決して高くはない。むしろ安い。
ミッシェル・カルージュ(高山宏・森永徹共訳)『独身者の機械 未来のイヴ、さえも……』ありな書房、1991年。
この本を求めて『東京ブックナビ』を片手に、町田や早稲田や千駄木や本郷や渋谷や中野や高円寺や阿佐ヶ谷や荻窪や三鷹や神保町をウロウロしたことが思い出される。結局最寄り駅の一つである吉祥寺で見つかったのが可笑しいが、ともかく、ようやくこの幻の本を手に入れたのだ。
マルセル・デュシャンやアンドレ・ブルトンの同時代人で友人でもあるカルージュが、カフカの『流刑地にて』における処刑機械とデュシャンの『大ガラス』(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』)との繋がりを発見したことから、『独身者の機械』は生まれた。この本は、近代人にとっての「神話」をめぐる文芸評論である。この「神話」という言葉はユングに言わせれば「元型」、つまりギリシャ神話や北欧神話などの特定の神話とは異なる、もっと広範な「神話」一般を指したものである。
「たしかに、近代人は合理的でありたいと望み、また自分は合理的だと信じてやまない。神話にたいする近代人の態度は、かつての人類のそれとはまったく異なるようだ。近代人は、いくら自分は神話から解放されていると思ったところで、神話から逃れることはできない。実際彼の環境がいかに技術的に進歩していようと、実証主義に染まっていようと、所詮神話の中で営む新しい生き方のひとつというにすぎないのだ」(15ページ)
デュシャンとカフカの関連性、それを表した言葉が「独身者の機械」だ。
「神話における基本的な不変式とは、分離した二つの現実のあいだの距離ないし相違であって、神話はみずからのヴィジョンの裡にそれらを接近させる。
したがって、独身者の機械の神話における基本的な不変式とは、機械と人間の孤独とのあいだの距離ないし相違である」(17ページ)
「ある作品に含まれている神話を解釈するうえでの黄金律、それは、解釈の方法はその作品自体の中にあるはずだ、ということである。弁証法のみごとな法則を定式化したときにマルク・オレールがほぼ同じことを言っていたわけだが、障害こそが行動へのなによりの糧なのではあるまいか」(19ページ)
この「機械と人間の孤独」に着目した時、カルージュはカフカとデュシャンのみならず、大勢の作家がこの「独身者の機械」を取り上げていることに気が付く。いや、取り上げているのではない。この「独身者の機械」の力は、作家の知らないうちに否応なく行使される、シュルレアリストたちの「自動記述」よりも遙かに強い「精神的オートマティスム」の力を持っているのだ。
「四通八達、ほかのあらゆる道に通ずるこのシュルレアリスムの道を通れば、ついには真の想像世界の平面球形図を描きあげることができる。この平面球形図こそ、一般比較神話学によって精神世界を科学的に認識する基本的な根拠となるのだ」(28ページ)
それではどのような作家が取り上げられているのか。目次を列挙する前に、以下の一文をご覧頂きたい。この論考がカフカとデュシャンから始まり、次第に時代を逆行するかのように進む理由が如実に表れている。
「書法(エクリチュール)のさまざまな区分を横断する神話の領域を記述するにあたって、わたしはそれら神話の領域をわたしが発見した順番どおりに書きすすめた。その結果、年代的な順序がほとんど全般にわたって逆転してしまったが、それは難点であるどころか必然でもあれば利点でもあるとわたしは思う。なぜなら、デュシャン、カフカそしてルーセルらのつくりあげた偉大な作品を知ってからのほうが、彼らの作品を準備したそれまでの機械の意味がもっとよく理解できるにちがいないからだ」(31ページ)
それでは、以下、目次を列挙。
はじめに
この新版について
挿絵について
序論
近代神話を探る
1 偉大な機械愛好家と彼らの機械
マルセル・デュシャンとフランツ・カフカ
1975年のノート
レーモン・ルーセル
アルフレッド・ジャリ
ギヨーム・アポリネール
ジュール・ヴェルヌ
ヴィリエ・ド・リラダン
イレーヌ・イレレルランジェ
アドルフォ・ビオイ・カサーレス
ロートレアモン
エドガー・アラン・ポー
2 独身者の機械の精神屈折光学
独身者の機械の変換群
付記
マルセル・デュシャンからミッシェル・カルージュへの四通の手紙
評註
独身者の機械を含む主要作品の暫定的編年史
本書で分析した独身者の機械の一覧表
註
解題――永遠に新しいシュルレアリスムの実践
カフカ、ルーセル、ジャリ、アポリネール、ヴェルヌ、そしてカサーレスまで…。飛びつかない方が無理というものだ。これらの作家たちが描くそれぞれの「独身者の機械」は、全く違う文脈で現れる全く別の機械でありながら、尚、多くの共通点を持っているのである。表面的な機構に関して加えられる様々な分析がこれらの共通を徹底的に暴いていく。
「潜水人形たちに分割されたそれぞれのテーマがバラバラになっているように見えても、ノエルの話とモプシュスの話とを結びつけるようにそれらを一本によりあわせる同じ独身者という太い一本の糸が通っていると言い切ってよい。巨大ダイアモンドの中のフォスティーヌの周りには、独身者の機械の中央部と下部とが、見かけよりははるかに巌として存在しているのである」(83ページ)
「独身者の機械の神話が真っ芯に指し示すのは、機械文明(マシニスム)と恐怖の世界とにこもごも支配される王国である。わたしがそれを強調しなかったのは、あまりにも明白だからであって、別段その重大な意義を見過ごしたからではない」(31ページ)
しかし、とりわけ注目したいのはその用途の共通である。何度も何度も、一つのテーゼが繰り返されていることに読者は気が付くのである。
「二元論とスキャンダルが始まるのは、独身者の象徴である将校が、神の戒律を忘れ、それを一顧だにせず穴に投げ棄てた瞬間からである。そのときから、神の意思は理解されることも実行されることもなくなり、女もまた理解されなくなる。なぜなら女とは、男にとって、自然界における聖なる神秘の最たるものだからだ。女にとってもそっくり逆のことが言える。愛と生殖の拒否は、男の、女の、そして男女のあいだに存在する神秘の、共通の破滅となる。もはやありうべき真の陶酔は存在しない。神の御業は崩壊し、自己破壊しつつある独身者の機械に席を譲るだけである」(「マルセル・デュシャンとフランツ・カフカ」より、64~65ページ)
「独身者の機械のドラマは、まったくひとりで生きている人間のドラマではなく、かぎりなく異性に近づこうとしながらも真に交わることのできないでいる人間のそれなのだ。潔癖な貞潔が問題なのではない。逆だ。重なりあいのぼりつめてはいるのに、一向に融けあうことができないでいる二つのエロティックな激情の葛藤こそが問題なのだ」(「レーモン・ルーセル」より、84ページ)
「独身者の機械」に見られる最も顕著な共通項は、エロティシズムの問題に還元される。しかし「独身者の機械」はエロティシズムを忌避しているのではなく、それが生み出すであろう創造的な結果をひたすらに拒否しているのだ。
「独身者の機械の中で、もっとも恐ろしくもっとも完成した『流刑地にて』は、そこに女の姿がまったく見受けられず、あるのはただ責め苦だけであるというその筋書きののっけからしてすでに、惨劇をすべて予告しているのではないだろうか」(マルセル・デュシャンとフランツ・カフカ」より、65ページ)
「独身者にとっては、女性が機械の中に入っているとき、つまり女性が愛欲の機械装置そのものになったときにしか、女性は存在しないのだ」(「ギヨーム・アポリネール」より、132ページ)
「イーヴリンを眼の前にすると、アンダーソンは独身者的な狂熱にとらわれてしまった。彼は彼女に激しい嫌悪を感じていながら、「むしろこの嫌悪の情を抱けばこそ、こんな女を我がものにしたらどんな快楽を得られるだろう」と思ってしまう。実際ここにこそ、独身者の機械の核心的な秘密がある。つまり愛のない快楽だ」(「ヴィリエ・ド・リラダン」より、153ページ)
つまり、「独身者」たちはエロティシズムを一個の魂なき機械にしてしまうことで、愛をめぐる神秘を徹底的に破壊してしまうのだ。男がエデンの園から持ち出すことのできた唯一の忘れ形見である「女」(=神秘)を、まさしく「人類最初の男アダムが堕罪におちいってもなお失わなかったものを、みずからの手で棄てさる」(65ページ)のである。
「独身者の機械はすべて、(人間に関する集合と機械に関する集合の)二つの集合の交わりと定義されうるのだ」(230ページ)
ラストに近づくにつれてどんどん数学的になっていくのはこの時代の批評の流れだと、訳者は言う。この近代人のための新たな神話がもたらしたものの大きさは、訳者解題における以下の一文で十分だろう。
「澁澤龍彦、種村季弘、巖谷國士が共有した性愛―機械文芸への関心、彼らの関心をプリズムにして浮彫りになってきた足穂や乱歩の「独身者の機械」的様相、須永朝彦や堀切直人によるこうした関心の継承……と、そんなふうに考えていくと、性愛をめぐるいま一番スリリングな興味のあり方と記述の仕方は、「独身者の機械」神話のさらなる掘り下げと拡大解釈ではないのかという気がしてくる」(「解題」より、273ページ)
澁澤龍彦は亡くなったとき、この本の翻訳を準備していたそうだ。もし澁澤が訳していたら、こんなフランスでは既に古典に数えられている評論が稀少本として扱われることもなく、今頃は河出文庫にでも入っていたかもしれない。もっと読まれなくてはならない類の名著である。
追記(2014年10月19日):驚くべきことに、新訳が発売された。なんという安さ! もう誰もこの本を求めて貯金を崩す必要がないのは、大枚はたいた自分にとっては複雑な気分であるが、なんにせよ喜ばしいことである。
<『独身者の機械』における一次史料>
専用の読書ノートを用意してメモを取りながら読み進めていたら、言及された本の冊数は百冊近いものとなっていた。そのほとんどが読んでみたい本である。少なくとも翻訳のあるものに関しては読破を目指したいと思った。
よってここでは、普段の読みたくなった本ではなく、本書で中心的に取り上げられた「独身者の機械」の登場する作品リストを挙げる。これだけでも十分過ぎるほどの読み応えがある。
カフカ『流刑地にて』
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カフカ『変身』
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ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』
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ジャリ『超男性』
ジャリ『フォーストロール博士言行録』
フォーストロール博士言行録 (1985年) (フランス世紀末文学叢書〈6〉)
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ジャリ『昼と夜』(翻訳なし?)
アポリネール『虐殺された詩人』
ヴェルヌ『カルパチアの城』
カルパチアの城 (集英社文庫―ジュール・ヴェルヌ・コレクション)
- 作者: ジュールヴェルヌ,Jules Verne,安東次男
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イレレルランジェ『万華鏡の旅』(翻訳なし?)
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ロートレアモン『マルドロールの歌』
ポー『陥穽と振り子』および『黄金虫』