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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

思考の表裏

 さきの『ヴァレリー詩集』と同様、『ヴァレリー文学論』が含まれている一冊。『ヴァレリー文学論』と関係があるという時点で、この本は最高評価が確定している。とはいえ、この本の魅力はそれだけではない。

思考の表裏

思考の表裏

 

ポール・ヴァレリーアンドレ・ブルトンポール・エリュアール堀口大學編訳)『思考の表裏』閏月社、2011年。


 なんと今月の新刊である。こんな本が出るなんて! 世の中もまだまだ捨てたものではない。ちなみにこの本の存在は、親しい友人が教えてくれた。ありがとう、愛してる! またしても全文引用してしまいたい。いや、だめだだめだ。

 この本の性格を説明するには、堀口大學による「編訳者の言葉」を引くのがいちばんだ。

「ヴァレリイの『文学』とブルトン、エリュアルの『ポエジイに関するノオト』とを併せて読んでみると、之は実に面白いものである。後者は、1929年発行のシュウルレアリズムの機関誌“La Révolution Surréaliste”第12号に出て居り、前者はそれ以前に発表されている文章だ。
 僕がここに、こと新しくこれ等二つの文章を対照的に訳出したのは、思考の逆真性に心をひかれたからである。或る一つの思考の裏側もまた立派な思考なのである。見られる通り『ポエジイに関するノオト』は、単にシュウルレアルな冗談には終わっていずに、シュウルレアリズムの詩法を形成している点に興味があるのである」(4ページ)

 つまりどういうことか。この本を開いてみると、右側にヴァレリーの言葉、左側にブルトンとエリュアールの言葉が並べられているのである。

「素裸の思想も感動も、素裸の人間と同じに弱い。
 だから、それ等に着物を着せる。
 〔ヴァレリイ『文学』〕
 
 素裸の思想も感動も、素裸の女と同じに強い。
 だから、それ等を裸にすること。
 〔ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(10~11ページ)

 レイアウトデザインがとても凝っていて、これもまたすばらしい。とんでもない仕事である。1943年臼井書房版の復刊だそうだが、堀口大學がこんなことをしているなんて、ぜんぜん知らなかった。コクトーと仲良しだったり、シュルレアリスムには背を向けていたように思えたのに。

「多くの人達は、ポエジイに就いて極めて漠然たる考えを持っている。その結果、彼等にとってはその考えの漠然たること、それ自身がポエジイの定義である。
 〔ヴァレリイ『文学』〕

 或る人々は、ポエジイに就いて極めて漠然たる考えを持っている。その結果、この考えが漠然たること、それ自身が、他の人々にとってはポエジイの定義となる。
 〔ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(24~25ページ)

 堀口大學が書いていたとおり、これらの言葉がシュルレアリスムの詩法の定義ともなっていることがたいへん興味深い。帯にはこうある。「象徴主義の泰斗と超現実主義の領袖が、思考とレトリックの極北で相まみえる」。そういえばユイスマンスの『さかしま』の解説に、こんな文章があったのを思い出した。

「面白いことに、二十世紀初頭のフランス文学の指導的な存在で、その芸術理念の互いに全く相反する二人の詩人が、それぞれ若年の頃、ユイスマンによって大きな影響を蒙ったことをみずから告白している。一人はポオル・ヴァレリイであり、もう一人はアンドレ・ブルトンである。一方は今世紀最大と言われる主知主義の詩人であり、もう一方は非合理主義を標榜する前衛的なシュルレアリスム運動の旗頭である」(ユイスマンス澁澤龍彦訳)『さかしま』河出文庫、2002年、370ページ)

 『移動祝祭日』『罰せられざる悪徳・読書』を紹介したとき、または「雑記:移動祝祭日記」に書いたとおり、1920年代のパリは地上に類をみない文学的都市となっていた。ブルトンたちにしてみれば、ヴァレリーに「ノン」と言うことなしには、新たなる運動をはじめることなどできなかったのかもしれない。1925年にアカデミー・フランセーズの会員となってからは、ヴァレリーは文学界の頂点にいた。その点、クノーがシュルレアリスムと訣別してからかなりの時間を経た1956年に、『Pour une Bibliothèque Idéale』のなかでヴァレリーを、ほとんど絶賛に近い扱い方をしていたこともおもしろい。また『性についての探究』のなかで、ルイ・アラゴンシュルレアリストたちの会合の最中に、周囲も読んでいることを微塵も疑っていない口調で『ムッシュー・テスト』を引用している(曰く、「何を考えながらでも眠れるとは、ポール・ヴァレリー氏もおっしゃるとおりさ」。これは1928年の会合である)。同時代の作家たちによるヴァレリーの扱い方は、とてもおもしろい。

「一篇のポエムの主題が、そのポエムにとって、無関係でありまた重要であることは、丁度一人の人間とその名と同じである。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 一篇のポエムの主題が、そのポエムにとって、特有でありまた重要でないことは、丁度一人の人間とその名と同じである。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(34~35ページ)

「散文作品の面白味は、云わば、作品以外にあって、テクストの消耗によって生れるに反し、――ポエムの面白味は、作品から分離もしなければ、また作品から遠ざかることも出来ない。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 散文作品の面白味は、云わば、作品自身の内にあって、テクストを消耗しないことによって生れるに反し、――ポエムの面白味は、作品から分離もできれば、また作品から遠ざかることも出来る。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(38~39ページ)

 わたしは岩波文庫『シュルレアリスム宣言』に併収されていた小品集「溶ける魚」を思い出す。それはもちろん、「ああ、あれはわけがわからなかったなあ」という意味で、である。ブルトンたちの変奏は、無理やりすぎる感があるものもないわけではないのだが、たしかにそのままシュルレアリスムの定義となっているのである。

「その詩人としての天質によって、自分がたまたま遭遇したり、喚び起したりぶつかったりした、一つの言葉、或る言葉と言葉の組合せ、或る文章法上の抑揚等、その表現が、言語の上で面白い効果を形成する如きものの明快なそして思考し得られる方式(システム)を探究する人、彼も亦詩人である。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 その詩人としての天質によって、自分がわざと遭遇したり、喚び起したりぶつかったりした、或る一つの言葉、或る言葉と言葉の不調和、或る文章法上の冗談、或る結句等、その表現が、狩猟の面白い偶発事を形成する如きものの不明快なそして思考し得られない方式を探究する人、彼も亦詩人である。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(42~43ページ)

「或る種の記憶力の上の障害が、正しい言葉でない言葉を持って来るのである。ところがその言葉がそのまま最上のものになってしまう。するとこの言葉が流派を成し、この障害が方式になり、迷信になる……。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 或る種の記憶力の上の障害が、それが最上の言葉でないという理由で、正しくない言葉を除去ける。その言葉をそのままにして置いたら、それは流派を成し、この障害が方式になり、迷信になったかもしれないのである……。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(72~73ページ)

 そういえば『剽窃の弁明』のなかで、バロウズとガイシンが実行していた手法「カットアップ」が紹介されていた。それはかなりダダイスト的な作詩法(参考:『ダダ・シュルレアリスムの時代』)で、わたし個人としては正直ぜんぜん感心できないものなのだが、興味深いのは「優れた素材を使うと結果もはるかによくなる」ことに気がついたふたりが、好んでランボーの詩を切り刻んでいたことである。つまり素材が良ければ、それだけ変奏も良くなるのだ。ブルトンとエリュアールにとっても、ヴァレリーの言葉以上にすばらしい素材はなかったにちがいない。

「一つの作品の完成ということは、それが吾等の気に入るということだけを条件として、それが完成されたと認める判断にしか過ぎぬのであって、事実一つの作品は何時になっても完成されることのないものなのである。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 一つの作品の完成ということは、それが吾等の気に入るということだけを条件として、それが完成されたと認める判断なのであって、事実一つの作品は常に必ず完成しているのである。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(74~75ページ)

「うまく行ったものは、しくじったものの変形である。
 だから、しくじったものは、諦めたからこそしくじったのである。
〔ヴァレリイ『文学』〕

 うまく行ったものは、しくじったものの変形ではあり得ない。
 うまく行ったものは、諦めたからこそうまく行ったのである。
ブルトン/エリュアル『ポエジイに関するノオト』〕」
(78~79ページ)

 レイアウトデザインの凝り方はすでに書いたが、装幀もきらきら光っていて、なにやらとてもいい。おまけに表紙をずっと撫でていると、きらきらが手に移る。読者の手が輝く本! 放っておくとすぐに絶版になってしまう気配がみなぎっているので、新刊とはいえ見かけたら即刻購入することをおすすめしておく。こういう本にこそ、売れてほしいものだ。眺めているだけでにやにやしてしまう一冊である。

思考の表裏

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