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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

春原さんのリコーダー

配架-日本文学 評価-★★★★★(奇跡) いわゆる-日本の詩 テーマ-短歌

 今日はボルヘスではなく、短歌。読み終えているのに記事にしていないボルヘス関連書はまだたくさんあるのだが、今日はどうしても短歌が読みたい気分だったのだ。休日であるのをいいことに、この本を片手に喫茶店に入ったら、あまりの楽しさに瞬く間に時間が過ぎて、気づけば読み終えてしまっていた。以前友人に薦められ、邑書林の「セレクション歌人」の一冊、『東直子集』として触れたこともある、でもそのときには記事にしなかった、東直子の第一歌集。

春原さんのリコーダー―歌集

春原さんのリコーダー―歌集

 

東直子『春原さんのリコーダー』本阿弥書店、1996年。


 わたしには、どうにも批判的な視線で見ることのできない作家、というのが数人いて、じつは東直子もそういうひとりである。ほかにすぐに思いつくのは、ヴラジーミル・マヤコフスキーなど。これはマヤコフスキー本人の著作に触れる前に、尊敬している小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』を読んでしまったことが直接的な原因で、まあ要するに、好きなひとが好きだと言っているから手に取った、という類のものは、もう悪いところがぜんぜん目につかなくなってしまうのだ。批判精神ゼロ。表明されているのが個人的な「愛」ではなく、一般的な、たとえば「文学的な価値」だったりしたら、こういうことは起こらない。たぶん、文学的な価値には理由があるが、愛に理由は必要ないからだ。そう、きっと、理由づけの必要がない、ということが重要なのだ。小笠原豊樹に、『ズボンを履いた雲』のどこがそんなに好きなんですか、と尋ねてみても、明確な答えは返ってこないはずだ。自分が好きなものを想像しても、どうしてそれが好きなのか、明確に説明できるものは数少ないことからも予想がつく。「名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である」と、『明るい部屋』のなかでロラン・バルトが言っていたとおりだ(『明るい部屋』65ページ)。そしてまさしくその乱れこそが関心と呼ばれるものになり、東直子という歌人を何度も繰り返し、わたしのもとに連れてくる。

  おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする(9ページ)

 東直子の魅力を、わたしは名指すことができない。一首をいいなと思うときに、どこがどうしていいのか、言葉ではぜんぜん説明できないのだ。本を開いていちばん最初に飛びこんでくるこの一首を見るだけでも、大いに混乱してしまうのだが、でも、その混乱は感動によく似ているのである。この歌集のなかで、秀歌としてよく引用されているものは以下。

  一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段(124ページ)

  はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは(138ページ)

 一首目は永田和宏『現代秀歌』において東直子の代表歌として、二首目は穂村弘『短歌の友人』にて、〈短歌的リアリティ〉の具体例として詳説されていたものだ。もちろんこれ以外にも、どこかほかの場所で目にした気がする歌も数多く、たとえば以下の歌などがそうなのだが、どういう紹介のされ方だったかまでは記憶が蘇ってこず、ちょっと確信が持てない。

  廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て(11ページ)

  駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない(20ページ)

  夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした(42ページ)

  ばくぜんとおまえが好きだ僕がまだ針葉樹林だったころから(80ページ)

  信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも(85ページ)

  水かきを失くした指をたまさかに組み交わすとき沁み合うものを(94ページ)

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています(95ページ)

 というのも、初めに書いたとおり、わたしはすでにこの歌集を一度通読したことがあるのだ。そして、ご覧のとおり、東直子の歌の残像呪縛はすさまじい。気に入るとか気に入らないとか、そういう次元をあっさり飛び越えて、どういうわけか心を離れていかない歌ばかりなのだ。混乱に似た感動、と先に書いたのは、そういう意味である。そもそも詩が呼び起こすものは、そういった、混乱とも感動ともつかない、いわば衝撃なのかもしれない。読んだ途端に刻み込まれ、ぜんぜん心を離れていかないので、それがかつて読んだときに刻まれたものなのか、それともその後どこかで再会したときのものなのか、その判断もつかないというわけだ。

  真夜中をものともしない鉄棒にうぶ毛だらけの女の子たち(15ページ)

  かの家の玄関先を掃いている少女でいられるときの短さ(16ページ)

  ライオンの塑像によりそい眠るときわたしはほんの夏草になる(16ページ)

  シナモンの香りの古い本ひらく草かんむりの訪問者たち(22ページ)

  白秋やひんやり風の吹く朝にみいみい鳴いて止まるエンジン(26ページ)

  引き出しの奥の小箱にひんやりと汗ばんでいる球根がある(28ページ)

  冬という眠りの季節にわきあがる風にあなたはのめりこむかも(29ページ)

  九州のかおりほのかな眉上げて「ずいぶん迷ってたどりついたよ」(29ページ)

  ナーバスな眉の角度や薄いつめ記憶の海に絵の具を溶かす(31ページ)

  おまつりは終わったのかな 名前さえ思い出せないひとの耳たぶ(31ページ)

 見てのとおりだが、東直子の歌には無駄がない。無駄がない、なんて書くと、なんだか偉そうで嫌な感じだが、三十一文字という限定された音数を、余さず使っているような歌ばかりなのだ。残像呪縛の理由はここにあるにちがいない。これは最近親しくしていただいている歌人の方から教わったことを含むので、自分の意見みたいに書くのは憚られるのだが、詠まれている対象が短歌の定型に合致していない、とりわけ、言葉の並び次第では三十一文字以下で書けてしまうような事柄が、水増しによって無理に短歌のかたちにさせられている、という歌は、一般的に非常に多いのだ。そういうのは、「これじゃなきゃ!」という表現で書かれているわけではないので、暗誦しようにも思い出すたびに細かな部分が変わってしまって、記憶に残りにくい。それはきっと、そもそも短歌という形式を採る必要がないものなのだ(最悪、詩ですらない、という場合もあるけれど)。わたしが読みたいのはそうではなく、短歌でなければぜったいに表現できないもののほうなのである。それはたとえば、短歌でなければ詩には成りえなかったようなものも含まれる。ここでちょっと山田航の一首を引用しよう。

  自販機の取り出し口に真夜中をすべりあらはるつめたき硬貨
  (山田航『さよならバグ・チルドレン』95ページ)

 だれもが日常で体験することであって、これが小説のなかで出てきても、「詩的だなあ、いいなあ」とはならないだろう。ここで感動してしまっていたら、物語は進まない。スルーである。でも、こんなふうに短歌のかたちに切り取られると、たちまち詩として輝きはじめる。これは定型の魔力がそうさせているのかもしれないけれど、むしろ、これを切り取ることを思いついた歌人の着眼点を賞讃したいものだ。東直子のこの歌集では、以下の歌を読んだときに近い感覚を抱いた。

  霜柱踏みつつゆけば今朝もまた園長先生がたっていました(131ページ)

  笑えるわ今朝見た夢は水道の蛇口ひねれば流れてしまう(127ページ)

 ちなみに、夢という語彙が登場する歌はおどろくほど多く、どれもすばらしい。前掲の「水道の蛇口ひねれば流れてしまう」というのも鮮烈だが、「瞼で割れる」というのも、すごい。

  サンダルのかかとの角度ゆるやかな夢にとけこむ「終点」の声(17ページ)

  初春や夢に眠りて夢を見る空にタオルをたたみ続ける(38ページ)

  マイナスになれば輝く数値あり瞼で割れる夢のたのしさ(75ページ)

 それから、短歌でなければぜったいに表現できないもの、という意味では、散文になるとまったく魅力が伝わってこなくなる、という不思議なものもある。上に書いたことにもすこし似ているけれど、こちらの場合は、共感が伴う必要さえないのだ。だから、気に入るとか気に入らないとか、そういう方向性では話題にもできないような歌が飛び出してくる。つまり、ただひたすらに突き刺してくるのだ。どういうわけか気になる歌。例として、こちらは穂村弘の歌を一首引いてみよう。

  指さしてごらん、なんでも教えるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱
  (穂村弘『世界中が夕焼け』85ページ)

 どうだろうか。わけがわからないし、そもそも状況が見えてこない。歌集のなかで、異なるさまざまな歌のなかにこの一首が紛れていたとしたら、賭けてもいいが、わたしはぜったいに気にも留めなかった。記憶にさえ残らなかっただろう。ところが、わたしがこの一首を知ったのは、山田航による穂村弘短歌解釈の試み、『世界中が夕焼け』のなかでのことだったのである。これほど解釈を受け付けないような歌もそうそうなく、一首に対する山田航の説明を読んでも、その後の穂村弘による答え合わせ(?)を読んでも、ぜんぜん納得がいかなかった。以来、それこそボルヘスの短篇「ザーヒル」みたいに、寝ても覚めてもこの歌のことばかり考えている時期があった。まさしく突き刺さったわけである。散文でこの歌の魅力を伝えることはできないのだ。つまり、これは短歌でなければならない、それ以外の表現形式をはじめから持たない詩なのである。そして、東直子の歌からは、同様の、短歌であることに対する必然性が感じられるのだ。

  遠い昔に書いた手紙をひらめかせ看板娘が髪染めにゆく(33ページ)

  夕まぐれこえてうさぎの銅像がきょろりと動きそうなつごもり(38ページ)

  まっすぐに霜の柱がのびている夜にことりと動いたこころ(45ページ)

  三月の娘の胸に取りついたインフルエンザは感情的で(46ページ)

  高熱のこどもとろんと起き上がりアイスクリームが食べたいと言う(46ページ)

  いつまでも写真を眺めているような午後には春は何をしている(48ページ)

  夏至ならば出かけませんかゆらゆらとしんとうれしい夜の散歩に(53ページ)

  ストロウに貼りついている蟻二匹ハノンのめぐる午後の階段(57ページ)

  テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥(かもめ)のひとみ(58ページ)

  やぶれそうでまだやぶれない紙ぶくろ 夾竹桃の花咲く道を(62ページ)

 また、ここまで書いてきたことからも察せられると思うが、わたしの場合、東直子の歌を読んでもべつに共感の念を抱くというわけではない。共感というのはすでに知っている、あるいは感じたことのあることを、あらためて目の前に突きつけられて、「あ、この感じ!」となることだろう。わたしにとって、東直子を読む愉しみは、そういうのじゃないのだ。率直に言って、東直子はわたしが知らないことばかり書いている。わたしにはけっして知りえない、でもずっと知りたいと思っている、きわめて女性的な詩の感覚。彼女の歌からは、そういうものが溢れているように感じられるのだ。

  じゅっと燃える線香花火の火の玉の落ちる速度で眠りましたよ(64ページ)

  噴水のような約束十時ごろ雲公園にわらわらと人(67ページ)

  駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある(68ページ)

  西の空にすいこまれてゆく友人が残していったさめない微熱(68ページ)

  なのはながなつのつなひくまひるです愛の向こうに人影がある(84ページ)

  花に降る雪はかすかに笑うのよ小さな辞書を鞄にいれる(91ページ)

  長い手紙の終わりの文字の低姿勢つくづく読めばつくづく哀し(93ページ)

  はじめての街にさまよう私(わたくし)に小さく笑う顔のある枝(100ページ)

  はとむねのはとこといとこキマイラのぬり絵の上と下を分けあう(107ページ)

  「九月まで」言いかけ口をつぐむ君 祭りのような日々のさなかに(123ページ)

 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』にて、彼にとっての「女性のエキセントリシティ」の象徴、いわゆる「不思議ちゃん」の極北として、まみを描いたわけだが、東直子の歌を読んでいると、まみほどの極端さを持ち出すまでもない、と思ってしまう。そんなことをせずとも、どこにでもいるような女の子のことだって、われわれ男にはぜんぜんわからないのだ。

  地平線と水平線の接点に折れた小枝をさしに行きたし(124ページ)

  ふくらはぎの形について考える例えばミルクこぼした朝も(134ページ)

  ろばの子がとろうり眠り夕闇に紛れて消えてしまおうよ、パパ(137ページ)

  くまぜみのアウシュヴィッツの空き缶を誰も弾かないピアノの下に(137ページ)

  はんかちをひろげてあそぶましかくのこんいろ世界に花びら五つ(140ページ)

  よろこびの車こまかく揺れている開襟シャツとしずかな鎖骨(144ページ)

  冬を越す虫たち群れて眠る場所さがし続ける君の横顔(148ページ)

  虫愛づる姫君の昔話など春夜ココアをことこと沸かす(148ページ)

  なつのあさ彼女ほつりと目を覚まし繭やぶるごと館出でゆく(149ページ)

  焼かれゆく洋菓子のごと眠るとき春日も土も傾いてゆく(152ページ)

 東直子の世界には、光が溢れている。それどころか、本人が詠んでいるとおり、光が「ちらかっている」。なにを詠んでいてもどこか明るくって、そういう姿勢、すてきだなあ、と思わずにはいられない。影や内面の闇を感じさせるような、批判めいたところなんてすこしもないのだ。いわば、全肯定の姿勢。男ってなかなかこういう歌は書かないよな、と思うのだが、どうだろうか。

  ゆうだちの生まれ損ねた空は抱くうっすらすいかの匂いのシャツを(12ページ)

  かぎりなく輝く空につっこんでゆきそうなバス 朝がささやく(26ページ)

  日曜日に似合いの空と隅田川 ぽんぽん船に乗る鳩もいる(29ページ)

  筋肉質の少女が渡る朝の橋たわわな光ちらかしながら(34ページ)

  キャラメルが窓辺で姿かえている東階段室におります(50ページ)

  初夏(はつなつ)の光の降りる背中あり恋遠ざけて草木を植える(50ページ)

  いつまでもですます調で語り合うわたしたちにも夏ふりそそぐ(54ページ)

  新しい破れめ抜けてくるひかり〈朝のおかゆがさめてしまうよ〉(82ページ)

  海岸の写真はみごとな逆光で笑えるよおまえらしいやり方(92ページ)

  吹きつける絵の具からまり波の網きらきらしやがる歩道を帰る(104ページ)

  新しい冬の光に波たたせ紅茶が人を待っております(109ページ)

  いのいちばんに訪ねてきたね秋茜ちらかっているトマト畑に(135ページ)

  整髪料のにおいは好きじゃないからと恐ろしいほどの寝ぐせに光(147ページ)

 光を連想させる語彙が登場してこなくったって、明るさはいつもそこにある。にこにこしながら作歌したにちがいないような歌たち。

  雪が降ると誰かささやく昼下がりコリーの鼻の長さひとしお(44ページ)

  ほほほほと花がほころぶ頃のこと思い浮かべてしまう如月(45ページ)

  ポケットの底に砂粒 曇天にサンダル履きで手ぶらのまんま(57ページ)

  とてもだめついていけない坂道に座っていれば何だか楽し(59ページ)

  叔父叔母が小さな帽子膝に置きみる貝とり貝交互に食べる(61ページ)

  髭人(ひげびと)の血圧低く羽枕をこぶしでぽんぽん整えている(71ページ)

  「…び、びわが食べたい」六月は二十二日のまちがい電話(73ページ)

  らんたんを下げて夜道をゆくようなはじめて踏みゆく道のたのしさ(79ページ)

  恋病みは召されるための麻酔かね あれは戻ってきやせんだろよ(80ページ)

  みづたまのもやうのシャツと白無地があいすかうひい飲みてしづけき(114ページ)

  つめに描くあさがほひまはりけふちくたう思ひはふらすアンナ・カレニナ(115ページ)

  避雷針つつけば水のもれさうな空にひひつと小鳥が啼けり(116ページ)

  まつちゃ入りかすていら切り分けようぞ つつぷしてゐるこころを起こし(116ページ)

  むかうより来らむ帽子の髭さんを傘のしづくに濡れて待ちをり(117ページ)

 それから、「あれ、このひと、ほんとうは悲しいのでは」、と思ってしまうようなときにも、なにか明るい。でも、そういうときの明るさは、かえって悲しみを際立たせているようにも思えてしまう。努めて明るく振る舞うことが板につきすぎてしまっていて、ほんとうは泣きたいのに涙が出てこなくなってしまった、というような。

  初秋の文鳥こくっと首を折る 棺に入れる眼鏡をみがく(22ページ)

  季節ごとの鳥を愛してしまう程このごろ痛みやすい母さん(32ページ)

  陸にあがったくらげ見つけにゆくように出かけていった心かえらず(35ページ)

  後悔が残るくらいがちょうどいい春あわゆきのほかほかきえる(41ページ)

  転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー(41ページ)

  傷あとがわたしのしるしぬばたまの夜をくぐりて朝たぐりよせ(53ページ)

  長い間好きだった人の破れ傘しみじみ見つめしんみり楽し(54ページ)

  冬の間ゆっくりさめてゆくために海へゆこうと思っています(56ページ)

  ちりめんにくるんで抱えて探します古い気持ちを捨てにゆく場所(84ページ)

  ぼくは遠い場所から来たがあなたから離れてもっと遠くへゆくよ(142ページ)

  幌を上げ降る星うける君といて言えない 灯油が凍りつくまで(147ページ)

  祭壇にきうりはくさいなすかぼちゃそしてあなたの不思議な似顔(150ページ)

  放たれてあなたの還るみずうみはどこまで明るくつめたいのだろう(152ページ)

 このひとはきっと、とても心優しい、すばらしくすてきな女性なのだろうと思わずにはいられない。好奇心旺盛で、なににでも感情移入してしまうようなひとは、現代という社会にあってはひどく傷つきやすいものだ。普通だったら、とっくにやさぐれて、優しさも明るさも手放してしまっていることだろう。でも、先にも書いたとおり、彼女はすべてを肯定するのだ。すごく強いひとだな、と思わずにはいられない。今回の気に入った歌は、多すぎて選べないのを、無理して以下の二首にまで絞った。ちょっと似ているけれど、でもぜんぜんちがった感情を詠んでいる歌。

  車体ごとゆらりと傾ぐわたしたち大事にしているものみな違う(49ページ)

  花まつりに瞬くレンズ切なさはひとりの体の中にはなくて(148ページ)

 本というのはやはり、読んでいて楽しい、ということが、とても重要だ。そしてこの歌集を読む楽しさは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。今回も再読のようなものだったというのに、早くも読み返すときを楽しみにしている。

春原さんのリコーダー―歌集

春原さんのリコーダー―歌集