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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

3冊で広げる世界:盲人たちが見たもの

配架-3冊で広げる世界 テーマ-盲目

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 ホメロスには盲人だったという説がある。いや、そもそも「ホメロス」という言葉自体が、ギリシア語で「盲人」を意味するそうだ。2世紀の作家、自称ヘロドトス(あくまで自称であって、あの大著『歴史』を書いた紀元前5世紀のヘロドトスとは別人)の『ホメロス伝』によると、彼のほんとうの名前はメリシゲネスといい、視力を失ってからは自らの闇のなかで詩作に専念した。こうして生まれたのが、西欧文明における最初の文学作品、『イリアス』『オデュッセイア』であるという。


 わたしが気になって仕方がないのが、目が見えないということと、文学との関連性だ。思えば小説を読むということは言葉を通じて世界を見るということであり、わたしたちは作家の紡ぐ言葉によって、実際に自分たちの眼球を通じて見たわけではない世界を、たしかに見るのである。だから、ちょっと嫌な言い方になるが、目の見えない人にだって、それが言葉で構築されているかぎりは、小説に描かれた世界を見ることができる。本の内部の世界は、目が見える人にとっても見えない人にとっても、同様に開けているのだと言えるだろう。

 もちろん例外もある。シュルレアリスム運動の旗手アンドレ・ブルトンは、ドストエフスキーなどの作家が風景描写に紙幅を費やしていることに異を唱え、自作『ナジャ』のなかではこれらを排し、代わりに自分で撮った写真を物語のなかに挿入した。これでは盲人には見ることができず、そんなふうにすべてを映像化してしまうのなら、小説の役割そのものが危ぶまれてしまうことだろう。『ナジャ』はとてもロマンティックなすばらしい作品ではあるが、言葉に対する不信、という、呪わしきものを立脚点として書かれた小説なのだ。

 さて、目の見えない人たちにとっては、言葉こそが外界とつながるすべてである。視覚を失った人びとはちょうどH・G・ウェルズ「盲人国」に描かれていたように、おもに聴覚や嗅覚を発達させるというが、それと同時に、彼らは言葉を操る術、物語る力を身につけることだろう。アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは50代で視力を失ったと伝えられており、たとえばその詩集『創造者』は口述筆記によって書かれた。その言葉の選択のおそるべき精妙さに、失明という悲劇が多少なりとも貢献しているというのは、考えすぎではないはずだ。

 目が見えないということ、それをテーマに書かれた文学作品は、じつはいくつもある。ここではわたしに以上のような考えを抱かせた3冊を紹介しよう。

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』
ギルバート・アデア『閉じた本』
アンドレ・ジッド『田園交響楽』

白の闇 新装版

白の闇 新装版

 
閉じた本 (創元推理文庫)

閉じた本 (創元推理文庫)

 
田園交響楽 (新潮文庫)

田園交響楽 (新潮文庫)

 


 じつを言うと、わたしの興味のすべての発端は『白の闇』である。映画化もされているので知っている人も多いと思うが、これは目の前が真っ白になる感染症の世界的流行を主題にして書かれた、いわゆるパンデミック文学である。だが、この小説の真価はそのストーリーではなく語り口にあり、それはけっして映像化することのできないものなのだ。では、サラマーゴはいかにして『白の闇』を書いたのか。彼は固有名詞を排し、形容詞を排し、会話文を括弧でくくることをやめたのである。

「三人目の男が口をひらいた。一番。そこで黙った。つづけて名前を言うのかと思ったが、つぎに男が口にした言葉は、警察官です、だった。医者の妻は思った。名前を言わなかった。この人もここでは名前がなんの意味も持たないことを知ってるんだわ」(『白の闇』より、70ページ)

 結果として生まれたのが、おびただしい文字の海である。実際に手に取ってもらえばすぐにわかることだが、改行があまりにも少なく、どのページも真っ黒になっているのが『白の闇』という本だ。だが読みはじめてみると、これほどのスピード感をもってページを繰れる小説はなかなかないことに気がつく。書かれているのが動作ばかりであるため、まるでグリム童話でも読んでいるかのように、物語を中断できなくなるのだ。わたしたちは登場人物たちと同様に、視力を奪われた状態で世界に放り出される。そこに風景描写はなく、あるのはだれが発言しているのかも判然としない声、そして動作のみである。

 アデアの採用した方法は、サラマーゴのそれとは好対照を成している。『閉じた本』は、会話文だけで構成された小説なのである。すべての行が括弧でくくられており、やはり風景描写はない。登場人物の発言が、読者にもたらされる情報のすべてなのだ。この小説の主人公は失明した作家であり、口述筆記のために助手を雇うのだが、次第に助手の語る世界の様相、すなわち彼にもたらされるすべての情報が、信じられなくなる。

「何よりもまず、おそらくは、作中で交わされる会話を通して、読者は小説世界の登場人物の人となりを知る。ただし、作者が内的独白という装置を用い、一人称の声音を語りに投げ込む場合に限っては、読者もしかるべき登場人物の、物の見方、気分、動機などを知る特権に与れる」(『閉じた本』より、251ページ)

 最後の1冊、ジッドの『田園交響楽』は、上の2冊とはかなり毛色の異なる小説だ。盲目の少女ジェルトリュードを養子に迎えた牧師が、白痴とさえ呼ばれた彼女を教育していく話である。色という概念を説明しようとし、楽器とその音色を持ち出す箇所は、忘れがたい。

「そのうちに、ヌーシャテルへ連れて行って、そこの音楽会を聞かせる機会があった。交響楽の中のいちいちの楽器の役割は、偶然にも色の問題を解くのに都合がよかった。真鍮楽器、弦楽器、木管楽器が、それぞれみんな違った音色をもち、音の強弱はあるにしても、それぞれいちばん高い音からいちばん低い音にいたるまでいっさいの音階が出せることを、ジェルトリュードに気づかせておいて、さてそれと同じようにして自然界にも、ホルンやトロンボーンの音色に似た赤と橙色、バイオリンやセロやバスに似た黄色と緑、それからフルート、クラリネットオーボエなどを思わせる紫や青のあることを、考えてごらんと言ってみた。するとたちまち、疑惑の色は消えて、魂の中からわき出た一種の恍惚がこれに代った。――
 「じゃ、どんなにきれいなことでしょうねえ!」と、彼女は繰り返して叫んだ」(『田園交響楽』より、37ページ)

 だが、ベートーヴェン交響曲第六番「田園」がジェルトリュードのなかに植えつけた世界のイメージはあまりにも美しく、彼女はやがて牧師の言葉を信じられなくなっていく。これもまた、だれかの発言によって世界を見ることと実際の世界とのギャップが引き起こす悲劇と言えるだろう。

 小説を読みながらわたしたちが見る景色というのは、盲人に対して語られる世界の景色とほとんど変わらないはずだ。だが、生まれつき目の見えない人びとが抱える困難は、はっきり言ってわたしの想像を絶する。彼らは小説に描かれるさまざまな風景をじっさいに目にしたことがないのだから、目の見えるわれわれとは、それらの文字から喚起される事柄からしてまったく違っていることだろう。『田園交響楽』のジェルトリュードが放つ突飛な発言の数々は、われわれにそのことを思い出させてくれるものだ。

「あとで話してくれたことだが、そのとき聞いた鳥の歌声を、頬や手をなでるあの熱と同じに、やはり光の作用なのだと想像していたそうである。もとより深く考えたわけでもないが、熱い空気が歌いはじめるのは、水を火にかけると煮えたつのと同じことで、すこしも不思議はないと思っていたという」(『田園交響楽』より、32~33ページ)

 どれほど考えてみたところで、結局のところわたしたちには、盲目の人びとの困難を理解することはぜったいにできない。だが、文学を通じてそれを理解しようと努めることは、けっして無駄なことではないはずだ。盲目であることと文学との親和性は、いまだわたしを惹きつけてやまない。

白の闇 新装版

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閉じた本 (創元推理文庫)

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田園交響楽 (新潮文庫)

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