読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

Some Thoughts on the Common Toad

配架-イギリス文学 評価-★★★★☆(大満足) いわゆる-エッセイ 配架-本の本・文芸評論 テーマ-ユートピア 言語-英語の本 動物園-カエル

 一冊の本の記事を書くのに、これほど時間をかけたのは久しぶりだ。なにもそんなにマジにならなくても、とは自分でも思ったのだが、せっかく英語の本をわざわざ紹介するのだから、気に入った箇所くらいはぜんぶ自分で訳してみなくては、と思ってしまったのだ。もちろん、こんなに時間がかかるとは思わなかった。ものの二、三日で読み終えた本だというのに、訳す作業だけで二週間もかかってしまった。そうこうしているうちに、ほかの本を何冊も読み終えてしまったのだが、これについて書かないことには、それらの本も記事にはできないような気がしてしまった。そんな紆余曲折を経てようやく紹介できるようになった、先日の『Books v. Cigarettes』につづく、自分にとっては二冊目のオーウェル評論集。

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)

 

George Orwell, Some Thoughts on the Common Toad, Penguin Great Ideas 99, 2010.


 先日の『Books v. Cigarettes』同様、いったいどういう基準で選んだのかと首を傾げてしまうほどに、内容が雑多な一冊である。こちらも書物にまつわるものが多く、だったら『Books v. Cigarettes』のときに一緒にまとめればよかったのに、とも思う。だが、この雑多さのおかげで、ページを繰る手が止まらないのも事実で、『Books v. Cigarettes』よりは文芸評論寄りのものが多い。収録作品は以下のとおり。いつもどおり評価もつけてみたが、もう見るからに意味がない。

★★☆「Some Thoughts on the Common Toad」
★★★「In Defence of P. G. Wodehouse」
★★☆「A Good Word for the Vicar of Bray」
★★☆「Politics vs Literature: An Examination of Gulliver's Travels
★★★「Lear, Tolstoy and the Fool」
★★☆「Shooting an Elephant」
★★☆「In Defence of English Cooking」
★★☆「Benefit of Clergy: Some Notes on Salvador Dali

 長めのものはあとまわしにするとして、まず「Some Thoughts on the Common Toad」と「A Good Word for the Vicar of Bray」の話をしたい。これら二作は、どちらも自然礼讃という点で共通しているのだ。

Something – some kind of shudder in the earth, or perhaps merely a rise of a few degrees in the temperature – has told him that it is time to wake up: though a few toads appear to sleep the clock round and miss out a year from time to time – at any rate, I have more than once dug them up, alive and apparently well, in the middle of summer.」(p.1)
「なにかが――なにか震えのようなもの、もしくは気温のちょっとした上昇が――彼に、目覚めるときが来たぞ、と告げるのだろう。だが、どうもなかには一年中ぶっ続けで眠りつづけるカエルもいるようだった。たしかに生きていて、見たところ健常。そういった連中を掘り出したことが、一度ならずあったのだ。それも、夏のまっただなかに」

「This allows one to notice, what one might not at another time, that a toad has about the most beautiful eye of any living creature. It is like gold, or more exactly it is like the golden-coloured semi-precious stone which one sometimes sees in signet-rings, and which I think is called a chrysoberyl.」(p.1)
「このことは見る者に、カエルがあらゆる生物のなかで最も美しい瞳を持っている、と教えてくれる。もちろん、まったく気づかない可能性もあるが。それは黄金のよう、もっと正確には印章付き指輪に見られるような、たしか金緑石なんて名の、準宝石のような金色をしている」

 さて、まずはカエルの話であるが、オーウェルにとってのカエルは春の象徴であり、自然の驚異を見せつけてくれる存在だ。いやいや、べつにカエルじゃなくても良かったでしょ、と思わずにはいられないが、こういうあんまりすてきじゃない生物が四季の移り変わりを教えてくれる、というのは、逆に詩的というか、ぜんぜん作りものめいていない美しさを伝えてくれて、とても好ましく思える。すてきなものが出てこない詩、というのはすてきなものである。

「I mentioned the spawning of the toads because it is one of the phenomena of spring which most deeply appeal to me, and because the toad, unlike the skylark and the primrose, has never had much of a boost from poets. But I am aware that many people do not like reptiles or amphibians, and I am not suggesting that in order to enjoy the spring you have to take an interest in toads.」(p.2)
「カエルの産卵についてわざわざ語ったのは、それが春の現象のうち、もっとも興味深いもののひとつであるように思えたからだ。おまけにカエルというのは、たとえば雲雀やサクラソウのようには、詩人たちも後押しをしてくれていない。多くの人びとが爬虫類や両生類に嫌悪感を抱いていることは知っているし、春を楽しむためにはカエル注目すべき、などと言いたいわけでもないのだが」

「Every February since 1940 I have found myself thinking that this time winter is going to be permanent. But Persephone, like the toads, always rises from the dead at about the same moment. Suddenly, towards the end of March, the miracle happens and the decaying slum in which I live is transfigured.」(p.3)
「1940年以来、二月になるといつも、今度こそ冬に終わりは訪れない、などと考えている自分がいた。だが同じとき、春の女神ペルセポネは、それこそちょうどカエルのように、いつだって死から甦ってきた。すると三月末ごろにかけて、唐突に奇跡が起こり、わたしの住む退廃したスラム街でさえ、様相を一変させるのだった」

 自然礼讃繋がり、「A Good Word for the Vicar of Bray」のほうは、もう一言で要約できる。つまり、木を植えろ、という話である。

「A thing which I regret, and which I will try to remedy some time, is that I have never in my life planted a walnut. Nobody does plant them nowadays – when you see a walnut it is almost invariably an old tree. If you plant a walnut you are planting it for your grandchildren, and who cares a damn for his grandchildren?」(p.32)
「いまだ後悔を禁じ得ず、いつの日にか必ずや、と思ってはいるのだが、わたしはまだ、クルミの木を植えたことがない。このごろはだれもクルミを植えようとはせず、見かけるのはきまって老木だ。クルミを植えるとき、ひとは孫のために植えているわけだが、いったいどこのどいつが孫の世代なんて気にかけるというのだ?」

「Even an apple tree is liable to live for about a hundred years, so that the Cox I planted in 1936 may still be bearing fruit well into the twenty-first century. An oak or a beech may live for hundreds of years and be a pleasure to thousands or tens of thousands of people before it is finally sawn up into timber.」(p.33)
「林檎の木ですら百年くらいは持ちこたえるので、わたしが1936年に植えたコックス林檎は、21世紀になっても果実をつけていることだろう。オークやブナにいたっては数百年を生きながらえるので、最終的に材木として伐り倒されてしまうまでには、千や万ものひとたちを喜ばせるにちがいない」

 おもしろいのが、オーウェルは、なにかやらかしたときには木を植えることで贖罪しろ、というようなことを言っているのである。そうすれば、自分が死んだ後になっても、後世の人びとの目を楽しませることができ、生前の失態もいくらかマシになるぜ、というふうに。

「I am not suggesting that one can discharge all one's obligations towards society by means of a private re-afforestation scheme. Still, it might not be a bad idea, every time you commit an antisocial act, to make a note of it in your diary, and then, at the appropriate season, push an acorn into the ground.」(p.33)
「個人が社会に対して果たさねばならない義務が、こういった植林によって免除されるなどと言うつもりはない。それでも、こういうのはそう悪い考えではないはずだ。つまり、なにか反社会的な行為に及んだとき、そのことを日記に記しておいて、しかるべき季節がやってくるに合わせ、どんぐりを地中に押しこむのだ」

 この、「push an acorn into the ground」は、楽しい一文である。「どんぐりを押しこめ!」だなんて、なかなか見かける文章ではない。いつかやってみたい。笑えるという意味では、「In Defence of English Cooking」もゲラゲラ笑いながら読んだ。タイトルのとおり、これは「イギリス料理擁護論」である。

「It is commonly said, even by the English themselves, that English cooking is the worst in the world. It is supposed to be not merely incompetent, but also imitative, and I even read quite recently, in a book by a French writer, the remark: 'The best English cooking is, of course, simply French cooking.'」(p.98)
「イギリス料理ほどひどいものはない。これはあまりに広まった意見で、なんならイギリス人まで言っているくらいだ。ただひどいだけでなく、ものまねの塊とのことで、最近読んだフランス人が書いた本にはこんなことが書いてあった。「最高のイギリス料理というのは、もちろん、要するにフランス料理のことだ」」

「you practically don't find good English cooking outside a private house. If you want, say, a good, rich slice of Yorkshire pudding you are more likely to get it in the poorest English home than in a restaurant, which is where the visitor necessarily eats most of his meals.」(p.100)
「じっさい、おいしいイギリス料理というのは、家庭を出たら見つからないものなのだ。もしあなたが、例えば、すばらしくおいしいヨークシャー・プディングを食べたいのであれば、それはレストランではなく最貧のイギリス家庭で見つかることだろう。そして、よそ者が食事をとれる場所は、ほとんどの場合レストランに限られているのだ」

 イギリスに行ったことのあるひとならすぐに思い当たるだろう。かつてフランスに住んでいたころ、わたしもイギリスまで遊びに行ったことがあるが、たしかにインド料理くらいしかおいしいものがなかったと記憶している(これは旧宗主国の強み。ちなみにまったく同様の理由で、フランスではやけにおいしいベトナム料理がいくらでも見つかる)。また、わたしの母はイギリスに住んでいたことがあるので、オーウェルがこんなことを書いてたよ、と電話で報告したら、「ヨークシャー・プディングなんて、どこで食べてもぜんぜんおいしくない」なんて言っていた。ぜんぜん擁護できていない、哀れなオーウェル。だが、この必死さは泣き笑いを誘う。

 せっかくなので、「Shooting an Elephant」の話もしてしまおう。これは評論だらけのこの本のなかでは異質の文章、実体験を語った随想である。日本語訳された平凡社オーウェル評論集の一冊目の題名が『象を撃つ』なので、見覚えのあるひともいるだろう。表題にするほどおもしろいか? と問われると、正直ちょっと疑問である。

「It seemed to me that it would be murder to shoot him. At that age I was not squeamish about killing animals, but I had never shot an elephant and never wanted to. (Somehow it always seems worse to kill a large animal.)」(p.93)
「そいつを撃つだなんて、殺人みたいに思えた。そのころのわたしは動物を殺すことに特別抵抗があったわけでもないのだが、象を撃ったことはなかったし、撃ちたいとも思ったこともなかったのだ。(大きな動物を殺すというのは、どういうわけか、よりひどいことのように思えるものだ)」

 さて、残る四篇は、すべて文芸評論といって差し支えないものばかりである。まずは「In Defence of P. G. Wodehouse」、つまり「P・Gウッドハウス擁護論」である。じつはこれこそが、この本を手に取った最大の理由で、『ユークリッジの商売道』『エムズワース卿の受難録』などなどの記事を見てもらえばすぐにわかるとおり、わたしはウッドハウスを心底愛しているのだ。以前「雑記:海外文学おすすめ作家ベスト100(2014年版)」にも書いたとおり、ウッドハウスは第二次大戦後に「対独協力」の汚名を着せられ、そんな彼に救いの手を差し伸べたのがオーウェルだった。そしてこの文章こそが「救いの手」と呼ばれたものの正体なのである。

「When the Germans made their rapid advance through Belgium in the early summer of 1940, they captured, among other things, Mr P. G. Wodehouse, who had been living throughout the early part of the war in his villa at Le Touquet, and seems not to have realized until the last moment that he was in any danger. As he was led away into captivity, he is said to have remarked, 'Perhaps after this I shall write a serious book.'」 (p.7)
「1940年初夏、ドイツ軍がベルギーにさっさと攻めこんだとき、彼らはほかの多くのものに加えて、P・Gウッドハウス氏をも捕まえた。戦争初期をつうじて、彼はル・トゥケの別荘で過ごしており、おまけにどうも最後の最後まで、自分の身に迫った危険に気づいていないようだった。捕虜として連行される最中、こんなことを言ったと伝えられてる。「たぶん今後は、まじめな本を書くようになるんでしょうね」」

「In the passage from Flannery's book which I quoted above there are two remarks which would immediately strike any attentive reader of Wodehouse. One is to the effect that Wodehouse 'was still living in the period about which he wrote', and the other that the Nazi Propaganda Ministry made use of him because he 'made fun of the English'.」(p.12)
ウッドハウスの注意深い読者であればだれでも、上掲したフラナリーの本からの引用箇所を見てすぐに、ふたつの点に気づいたことだろう。ひとつは、ウッドハウスがいまだに《自分の小説に描いた時代を生きている》ということ。もうひとつは、彼が《イギリス人を笑いものにする》がために、ナチ党宣伝局に利用されたということ」

 ウッドハウスナチスが運営するラジオに起用され、政治に無頓着な彼は、そこでいつもどおりにイギリス人を茶化すというへまをやらかしたのだった。ナチスってほんと頭いいな、なんて思ってしまうが、イギリスではもちろん非難の嵐で、ウッドハウス売国奴呼ばわりされ、『デイリー・ミラー』紙には「Wodehouse was funny no longer(ウッドハウスはもはや笑えない)」などと書かれたそうだ。馬鹿すぎて笑えるじゃん、というのは、緊迫した戦時中にはたぶん通用しない意見。だが、オーウェルウッドハウスをよく理解していた。彼はウッドハウスの頭から出てくるものが、1914年の第一次大戦以前のイギリス生活だけだと知っていたのである。フォローしているのか、それともけなしているのか、ちょっとよくわからない口調で、こんなことを書いている。

「One of the most noticeable things about Wodehouse is his lack of development. Books like The Gold Bat and Tales of St Austin's, written in the opening years of this century, already have the familiar atmosphere. How much of a formula the writing of his later books had become one can see from the fact that he continued to write stories of English life although throughout the sixteen years before his internment he was living at Hollywood and Le Touquet.」(p.14)
ウッドハウスに関して最も特徴的なことのひとつは、その発展の「欠如」なのだ。『黄金の蝙蝠』や『聖オースティン物語』といった、世紀の初めに書かれた作品でさえ、すでに親しみある雰囲気をまとっているではないか。彼の後年の作品を見れば、これがお決まりの方式となっていったのは明らかで、ハリウッドやル・トゥケに住んでいた抑留前の十六年間でさえ、彼は英国生活を書きつづけていたのだった」

 正直に言うと、ここの訳文にはちょっと不安がある。「How much of a formula」以下の長い一文は、かなり意訳した。大意は合っていると思うけれど、もっといい訳し方が思いついた方は、ぜひ教えてください。

 さて、オーウェルはここから、もっと一般的に、ウッドハウスの作品とその作風を注解してくれている。たしかに! と、びっくりするような説明が多くって、ちょっと感動してしまった。

「How closely Wodehouse sticks to conventional morality can be seen from the fact that nowhere in his books is there anything in the nature of a sexjoke. This is an enormous sacrifice for a farcical writer to make. Not only are there no dirty jokes, but there are hardly any compromising situations: the horns-on-the-forehead motif is almost completely avoided. Most of the full-length books, of course, contain a 'love interest', but it is always at the light-comedy level: the love affair, with its complications and its idyllic scenes, goes on and on, but as the saying goes, 'nothing happens'.」(p.18)
ウッドハウスがどれほど律儀に伝統的な道徳観に従っていたかについては、彼の本のどこを探しても、下ネタが見当たらないという事実からも見てとれる。これはユーモア作家にとって、とてつもない犠牲ではないか。下品なジョークがないというだけではなく、そういったものに導かれるような状況すらほとんど出てこない。寝取られ男などというような要素は、きわめて入念に避けられているのだ。長篇作品となると、もちろん《想い人》のような存在も登場してくるものの、それにしたっていつだって軽い喜劇の範疇を出ない。恋愛にまつわる複雑さ、牧歌的風景などが延々と続いても、いわゆる「結局なにもなかったよ」が着地点なのである」

「As Mr John Hayward has pointed out, Wodehouse owes a good deal to his knowledge of English literature and especially of Shakespeare. His books are aimed, not, obviously, at a high-brow audience, but an audience educated along traditional lines. When, for instance, he describes somebody as heaving 'the kind of sigh that Prometheus might have heaved when the vulture dropped in for its lunch', he is assuming that his readers will know something of Greek mythology.」(p.21)
「ジョン・ヘイワード氏が指摘したとおり、ウッドハウスは英文学、とりわけシェイクスピアに、その知識の多くを負っている。彼の本がインテリ向けだというのではもちろんないが、それでも彼が読者として想定しているのは、一般的な教養を持つ人びとなのだ。たとえば、ある人物がため息を吐くとき、こんな喩えが持ち出される。『ハゲタカが昼食をとるために向かってくるのを見たときにプロメテウスが吐いたようなため息』。読者たちがギリシア神話についてなんらかの知識がある、という前提に立っているのだ」

 わたしにとってのウッドハウスが単なるユーモア作家に留まらないのは、彼の作品がはっきりと文学を下地にしていて、猥談めいた簡単な笑いに走ったりしないからだったのだ。いま思えば、うえに挙げたわたしのお気に入りの二冊だけでも、こういった例はいくらでも見つかるではないか。

「いつもであれば、この大それた行為の知らせはロード・エムズワースを動転させたに違いない。しかし今は、惨めさですっかり消沈していたので、身震いさえしなかった。ソクラテスが自決に用いた毒人参の毒が入っていればいいのにという表情で、コーヒーを飲んだ」(『エムズワース卿の受難録』より、162ページ)

「僕は雄叫びを上げて椅子から飛び上がり、樟脳の臭いを撒き散らしながら階段を駆け下りた。ハムレット並の劇的シーンとはいいかねたが、僕はハムレット的な殺意を抱いていた」(『ユークリッジの商売道』より、103ページ)

 それから、ウッドハウスのファンとしてはぜったいに見逃せないのが、以下の一文である。

「In his early days the writers he admired were probably Barry Pain, Jerome K. Jerome, W. W. Jacobs, Kipling and F. Anstey, and he has remained closer to them than to the quick-moving American comic writers such as Ring Lardner or Damon Runyon.」(p.21)
「若き日のウッドハウスが好んだのは、バリー・ペイン、ジェローム・K・ジェローム、W・W・ジェイコブス、キプリングやF・アンステイといった作家たちだろう。リング・ラードナーやデイモン・ラニョンといった、速い展開が売りのアメリカのコミック作家たちよりも、彼はこういった作家たちの近くに留まった」

 オーウェル、さすが同じイギリスの作家である。『ボートの三人男』のジェロームの名が挙がっているのは、まあわたしでも理解できるとして、W・W・ジェイコブスって怪奇短篇以外も書いてたのか、と思ったり、バリー・ペインやF・アンステイといった、ぜんぜん知らない作家が登場してきたりと、もうこの一節だけでも、この本を手に取って良かった! と思えてくる。読みたい本がじつにたくさん増えて、とても嬉しい。

 さて、ウッドハウスはここまで。次はスウィフトの『ガリヴァー旅行記』だ。マングェルの『図書館』などでも執拗に語られているとおり、本が好きなひとであれば『ガリヴァー旅行記』がぜんぜん子ども向けの読みものでないことは有名だが、オーウェルはこの作品をはっきりとユートピア文学に分類している。

Swift’s greatest contribution to political thought, in the narrower sense of the words, is his attack, especially in Part III, on what would now be called totalitarianism.」(p.45)
「およそ政治思想と呼ばれうるものにおけるスウィフトの最大の貢献は、第三部における、現在では全体主義と呼ばれるようになったものに対する攻撃だろう」

「Other professors at the same school invent simplified languages, write books by machinery, educate their pupils by inscribing the lessons on a wafer and causing them to swallow it, or propose to abolish individuality altogether by cutting off part of the brain of one man and grafting it on to the head of another. There is something queerly familiar in the atmosphere of these chapters, because, mixed up with much fooling, there is a perception that one of the aims of totalitarianism is not merely to make sure that people will think the right thoughts, but actually to make them less conscious.」 (p.47)
「同じ学校のほかの教授陣は、簡略化された言語をでっちあげたり、機械によって本を書いたり、講義内容を刻みこんだウェファースを生徒たちに飲みこませたり、ある者の脳の一部をほかの者と交換させることで個性を撤廃しようとしていた。これらの章は妙に見覚えある雰囲気を帯びている。全体主義が目指すのは人びとが正しい考えを持つことではなく、むしろ人びとの「意識を逸らす」ことなのだという、その感覚が、ふざけた調子に混じって記されているのだ」

 カエルの話などに笑わされていると、ついつい忘れてしまうが、オーウェル『動物農場』『一九八四年』を書いた、あのオーウェルなのだ。このひとは、ユートピアについて語るとき、ちょっと輝きすぎている。

「They had apparently no word for ‘opinion’ in their language, and in their conversations there was no ‘difference of sentiments’. They had reached, in fact, the highest stage of totalitarian organization, the stage when conformity has become so general that there is no need for a police force.」(p.50)
「見たところ、彼らの言語には「意見」という語彙がなく、彼らの対話には「感情の相違」などは見受けられない。彼らは全体主義組織における究極の高み、同調がまったく一般的なものとなり、もはや警察さえ必要とされないという高みに、到達したのだった」

「The Houyhnhnms, creatures without a history, continue for generation after generation to live prudently, maintaining their population at exactly the same level, avoiding all passion, suffering from no diseases, meeting death indifferently, training up their young in the same principles – and all for what? In order that the same process may continue indefinitely. The notions that life here and now is worth living, or that it must be sacrificed for some future good, are all absent. The dreary world of the Houyhnhnms was about as good a Utopia as Swift could construct, granting that he neither believed in a ‘next world’ nor could get any pleasure out of certain normal activities. But it is not really set up as something desirable in itself, but as the justification for another attack on humanity.」(pp.55-56)
「フーイヌムというのは歴史を持たぬ生物、幾世代にもわたって生を耐え忍び、人口を常に同じ水準に保ち、すべての情熱を避け、どんな病害にも苦しまず、無関心に死を受け入れては、若い世代にも同じ態度を伝えていく――だが、いったい、なんのために? 同様の流れが、いつまでも続くようにするためである。いまここにある生が生きるに値するものであり、将来の幸福のためになにかを犠牲にする、といったような精神は、完全に欠落している。フーイヌムたちの陰鬱な世界は、スウィフトに構想できたユートピアのうち最高のものだ。たとえ彼が「来世」なるものも、一般的な行為からもたらされるどんな喜びも信じていなかったとしても。だが、この世界はそれ自体を望めるようにはできておらず、人類に対する新たな攻撃の根拠として構築されている」

 スウィフトの『ガリヴァー旅行記』、まだブログを始めるよりもずっと前に読んだ記憶があるのだが、序盤の有名な小人の国以外には、もうラピュタが出てきたことくらいしか覚えていない。せっかくなのでぜひ英語で読んでみたいな、と、いま思っている。

「the most essential thing in Swift is his inability to believe that life – ordinary life on the solid earth, and not some rationalized, deodorized version of it – could be made worth living.」(p.51)
「スウィフトにおいてもっとも本質的なのは、人生――合理化も脱臭もされていない、この地上におけるふつうの人生――が、生きるに値するとは思えないということなのだ」

Swift is a diseased writer. He remains permanently in a depressed mood which in most people is only intermittent, rather as though someone suffering from jaundice or the after-effects of influenza should have the energy to write books.」(p.59)
「スウィフトは病的な作家である。ふつうのひとには途切れ途切れのものであるはずのがっかりムードに常に憑かれていて、黄疸にかかったひとやインフルエンザの後遺症に苦しめられてるひとのほうが、まだ物書きとしての活力を持っていることだろう」

 しかし、スウィフト、ひどい言われようである。だが、オーウェルはちゃんと、なにもスウィフトが嫌いなのではない、と書いている。

「From what I have written it may have seemed that I am against Swift, and that my object is to refute him and even to belittle him. In a political and moral sense I am against him so far as I understand him. Yet curiously enough he is one of the writers I admire with least reserve, and Gulliver’s Travels in particular is a book which it seems impossible for me to grow tired of.」(p.56)
「ここまで読んだひとは、わたしが反スウィフト論者で、この文章によって彼を論破し、その権威を失墜させようとしている、などと思うかもしれない。たしかに政治的・道徳的な意味では、彼に対する理解が正しいかぎり、反対している。だが、おかしなことに、スウィフトはわたしにとって手放しに尊敬できる作家のひとりなのであり、とりわけ『ガリヴァー旅行記』というのは、飽きることなどいつまでもできそうにない傑作として映っているのだ」

 どんなに賛成できなくったって、おもしろいものはおもしろい、と言い切るオーウェルは、ちょっとかっこいい。

「If one is capable of intellectual detachment, one can perceive merit in a writer whom one deeply disagrees with, but enjoyment is a different matter. Supposing that there is such a thing as good or bad art, then the goodness or badness must reside in the work of art itself」(p.57)
「知性を混同させることなく読むことのできるものなら、ぜんぜん賛成できないような意見を持つ作家にも「価値」を見いだすことができるが、「愉しみ」となると話は別である。芸術に良し悪しの区別があるとしたら、その良さも悪さも、芸術作品そのものに属していなければならない」

「When you are frightened, or hungry, or are suffering from toothache or seasickness, King Lear is no better from your point of view than Peter Pan. You may know in an intellectual sense that it is better, but that is simply a fact which you remember; you will not feel the merit of King Lear until you are normal again.」(p.57)
「怯えているようなとき、空腹のとき、歯が痛かったり船酔いしているようなときには、『リア王』は『ピーター・パン』ほどにも楽しめるものではない。よっぽど楽しいはずのものだとわかってはいても、それは事実として記憶しているだけであって、『リア王』の価値は平常の状態に戻るまでは感じることができないのだ」

 先日の『Books v. Cigarettes』でも、複数の文章で『ピーター・パン』がこき下ろされていたが、なんとここでも駄作の代表として登場である。どんだけ嫌いなんだよ、と思わずにはいられない。

「The views that a writer holds must be compatible with sanity, in the medical sense, and with the power of continuous thought: beyond that what we ask of him is talent, which is probably another name for conviction. Swift did not possess ordinary wisdom, but he did possess a terrible intensity of vision, capable of picking out a single hidden truth and then magnifying it and distorting it. The durability of Gulliver’s Travels goes to show that if the force of belief is behind it, a world-view which only just passes the test of sanity is sufficient to produce a great work of art.」(p.61)
「作家たちの抱く見解というのは医学的な意味で正気のもの、さらには考え抜かれたものでなくてはならず、これ以外にわれわれは才能も求めはするが、そんなものは説得力の別名だろう。スウィフトはふつうの分別など持ち合わせていなかったが、おそるべき洞察力を備えていて、事物に隠れたほんのちょっとした真実を拾い上げ、それを拡大し、ゆがめることができたのだ。『ガリヴァー旅行記』の持続性は、強い信念が背後にある場合、世界観が正気と判断できるだけでも、傑出した芸術作品を生み出すのには十分だと示してくれるだろう」

 また、ちょっとおもしろいな、と思ったのが、以下の一節。スウィフトはトルストイに似ているというのだ。

Swift has much in common – more, I believe, than has been noticed – with Tolstoy, another disbeliever in the possibility of happiness. In both men you have the same anarchistic outlook covering an authoritarian cast of mind; in both a similar hostility to science, the same impatience with opponents, the same inability to see the importance of any question not interesting to themselves; and in both cases a sort of horror of the actual process of life, though in Tolstoy’s case it was arrived at later and in a different way.」(pp.51-52)
「スウィフトは、一般的に言われているよりもずっと多くの点で、幸福の可能性を信じないもうひとりの論客、トルストイによく似ている。ふたりは共に権威主義的な思考を無政府主義的な外観で包んでおり、自然科学への似たような嫌悪感を共有していて、論争相手には気短で、興味をそそらないどんな問題も重要とは考えず、人生の実際的な様相には恐怖めいた感情さえ抱いている。最後のは、トルストイの場合、晩年に異なるかたちで訪れたものではあるが」

 さて、『リア王』トルストイも登場したところで、「Lear, Tolstoy and the Fool」である。これは、わたしはぜんぜん知らなかったのだが、シェイクスピア嫌いを公言していたトルストイが書いた、反シェイクスピア論への反論として書かれたものである。ちょっとびっくりするほどおもしろい文章だった。

「Tolstoy’s final verdict on Lear is that no unhypnotized observer, if such an observer existed, could read it to the end with any feeling except ‘aversion and weariness’. And exactly the same is true of ‘all the other extolled dramas of Shakespeare, not to mention the senseless dramatized tales, Pericles, Twelfth Night, The Tempest, Cymbeline, Troilus and Cressida’.」(p.64)
「『リア王』に対するトルストイの最終的な判決は、催眠にかかっていない読者だったら、もしそのような読者がいるとしてだが、「嫌悪と退屈」以上のどんな感情も抱かずに、最後のページまでたどり着くはずだ、というものだった。おまけにまったく同様のことが、「激賞されているほかのシェイクスピア作品、『ペリクレス』、『十二夜』、『テンペスト』、『シンベリン』、『トロイラスとクレシダ』など、無意味にも戯曲化された物語群にも通用する」」

 名前が挙がっている作品のうち、すでに読んだことのあるのは『トロイラスとクレシダ』だけだったのだが、たしかにストーリーを見たらこれは完全な駄作で、そもそも物語としてぜんぜん完成していない代物だ。だが、これはいつも書いていることの繰り返しだが、わたしはシェイクスピアを読むとき、ストーリーなどはぜんぜん気にしていない。ただその言葉づかいに酔いしれたいがために読むのであって、つまりはのちのち見るとおり、オーウェルと同意見なのだ。だが、その前にトルストイの執拗な攻撃を見てみよう。

「If Shakespeare is all Tolstoy has shown him to be, how did he ever come to be so generally admired? Evidently the answer can only lie in a sort of mass hypnosis, or ‘epidemic suggestion’. The whole civilized world has somehow been deluded into thinking Shakespeare a good writer, and even the plainest demonstration to the contrary makes no impression, because one is not dealing with a reasoned opinion but with something akin to religious faith.」(p.65)
「もしもシェイクスピアトルストイの描き出したとおりの人物だったなら、どうしてこれほどまでの敬意を勝ち取るに至ったのだろうか。答えは明らかに、集団催眠や「伝染性の暗示」といったものにしか見いだせなくなる。文明化されたすべての世界が、どういうわけか、シェイクスピアはすばらしい作家だと信じこむように仕向けられ、どんな些細な反対表明も力を持たなくなった。なぜなら、彼は論理的な意見というものではなく、むしろ信仰心に近いものと対峙しているのだから」

「As to the manner in which Shakespeare’s fame started, Tolstoy explains it as having been ‘got up’ by German professors towards the end of the eighteenth century. His reputation ‘originated in Germany, and thence was transferred to England’. The Germans chose to elevate Shakespeare because, at a time when there was no German drama worth speaking about and French classical literature was beginning to seem frigid and artificial, they were captivated by Shakespeare’s ‘clever development of scenes’ and also found in him a good expression of their own attitude towards life. Goethe pronounced Shakespeare a great poet, whereupon all the other critics flocked after him like a troop of parrots, and the general infatuation has lasted ever since.」(pp.66-67)
シェイクスピアの栄光がどのように「始まった」かについてだが、これはトルストイによると、18世紀末にドイツの学者連中に「でっちあげられた」ものらしい。その名声は「まずドイツで生まれ、そこからイギリスへもたらされた」。ドイツ人どもがシェイクスピアを選んで持ちあげたのは、当時は言及する価値のあるドイツ演劇がぜんぜんなかったためで、奇しくもフランスの古典もちぐはぐで人工的なものに映りはじめていて、そんなときにシェイクスピアの「幕から幕への見事な発展」に心を奪われ、また、人生に対する彼ら好みの表現が見つかったからだ、というのだ。ゲーテシェイクスピアは偉大な詩人だと断言し、するとすぐに批評家連中どもがオウムの大群のように彼の真似をはじめた。以来、こののぼせあがりは今日までずっと続いている、と」

 オーウェル、ちょっと偉いな、と思うのだが、彼はトルストイの言うことを頭ごなしに否定したりはせず、文芸評論に陥りがちな罠をひとつひとつ回避しながら、じつに論理的に彼のまちがいを指摘していく。でも、考えようによっては、そのほうがねちねちしていて、たちが悪い。

「In reality there is no kind of evidence or argument by which one can show that Shakespeare, or any other writer, is ‘good’.」(p.67)
「実際のところ、シェイクスピアが、いや、ほかのだれであれ、「良い」作家であるなどと証明できる根拠や論拠などは、どこにもない」

「Ultimately there is no test of literary merit except survival, which is itself merely an index to majority opinion. Artistic theories such as Tolstoy’s are quite worthless, because they not only start out with arbitrary assumptions, but depend on vague terms (‘sincere’, ‘important’ and so forth) which can be interpreted in any way one chooses.」(p.67)
「究極的には、後世に伝わるか否か以外に、文学における価値を判断できるものなどなく、それさえも一般論の索引以上のものではない。トルストイが試みたような芸術論にも意味はない。恣意的な仮説に依るのみならず、そこで用いられているあやふや語彙(「誠実な」「重要な」などなど)は、どんな解釈でもできるものだからだ」

 極めつけは、以下の一節である。これこそ、チェックメイト

「In any case it is impossible that he should fully have believed in his main thesis – believed, that is to say, that for a century or more the entire civilized world had been taken in by a huge and palpable lie which he alone was able to see through. Certainly his dislike of Shakespeare is real enough, but the reasons for it may be different, or partly different, from what he avows; and therein lies the interest of his pamphlet.」(pp.68-69)
「なんであれ、トルストイがこの主題を本気で信じこんでいたとは考えづらい。つまり、一世紀あるいはそれ以上ものあいだ、文明化された世界が大規模かつ見えすいた嘘に騙されていて、ひとり彼だけが真実を見抜いたと信じていた、などとは。もちろん、彼が抱くシェイクスピアへの嫌悪は本物であるにちがいないが、彼が公言するその理由となると、事情は変わってくる。少なくとも、部分的には。そして、ここにこそ、このパンフレットの面白みがある」

 そして話題は、シェイクスピアが愛される理由のほうに遷移していく。「シェイクスピアが外国の詩人」であるわれわれのような人間には、じつに説得力のある個所だ。

「Those who care most for Shakespeare value him in the first place for his use of language, the ‘verbal-music’ which even Bernard Shaw, another hostile critic, admits to be ‘irresistible’. Tolstoy ignores this, and does not seem to realize that a poem may have a special value for those who speak the language in which it was written. However, even if one puts oneself in Tolstoy’s place and tries to think of Shakespeare as a foreign poet it is still clear that there is something that Tolstoy has left out. Poetry, it seems, is not solely a matter of sound and association, and valueless outside its own language-group: otherwise, how is it that some poems, including poems written in dead languages, succeed in crossing frontiers?」(p.70)
シェイクスピアを敬愛してやまない人びとは、まずもってその言葉づかいに価値を見いだすもので、この「言葉の音楽」の魅力については、もうひとりの辛辣な論客、バーナード・ショーさえも、「抗いがたい」と認めたものだった。トルストイはこれを無視しており、詩はその書かれた言語を話す者たちにとっては、特別な価値を持つことがある、という点には、どうも気づいていなかったようだ。しかしながら、ひとまずトルストイの立場になって、シェイクスピアが外国の詩人であったと考えようとしてみても、やはりトルストイが見逃しているものがあることは明白だ。詩というのはどうも、単に音の連なりや連続だけではなく、その母語を離れたら無価値となるわけでもない。そうでなかったら詩が、すでに死んだ言語で書かれた詩なども含め、いったいどうして国境を越えたりできるというのだろうか」

「If one has once read Shakespeare with attention, it is not easy to go a day without quoting him, because there are not many subjects of major importance that he does not discuss or at least mention somewhere or other, in his unsystematic but illuminating way.」(p.82)
シェイクスピアを注意深く読んだものならだれでも、その言葉を引用することなしに一日を過ごすことなどできなくなる。重要な話題のうち、シェイクスピアがその無秩序かつ魅力的なやり方で、どこかで言及しなかったものなど、ほとんどないのだ」

「Of course, it is not because of the quality of his thought that Shakespeare has survived, and he might not even be remembered as a dramatist if he had not also been a poet. His main hold on us is through language.」(p.82)
「もちろん、シェイクスピアはその思考の価値によって生き残ったわけではなく、もし彼が単なる劇作家で詩人ではなかったなら、とっくに忘れ去られてしまっていただろう。彼の影響力の主たる部分は、その言葉づかいにあるのだ」

「There is no argument by which one can defend a poem. It defends itself by surviving, or it is indefensible.」(p,85)
「詩を擁護するための論拠などありはしない。それは生き残ることでみずからを擁護するもの、もしくはそもそも擁護しようのないものなのだ」

 話題はさらにトルストイシェイクスピアの死生観のちがいに移っていく。晩年のトルストイは来世への憧れに取り憑かれてしまっていたそうで、そういえばそれまでとはぜんぜん作風のちがう『イワンのばか』を書いてみたりと、ずいぶんな変革を迫られていたようだ。そんなトルストイにとって、シェイクスピアの死生観は馴染めるものではなかった、という。

「Vice is punished, but virtue is not rewarded. The morality of Shakespeare’s later tragedies is not religious in the ordinary sense, and certainly not Christian. Only two of them, Hamlet and Othello, are supposedly occurring inside the Christian era, and even in those, apart from the antics of the ghost in Hamlet, there is no indication of a ‘next world’ where everything is to be put right. All of these tragedies start out with the humanist assumption that life, although full of sorrow, is worth living, and that Man is a noble animal – a belief which Tolstoy in his old age did not share.」(p.79)
悪徳は罰せられ、美徳は報われない。シェイクスピア後期の悲劇にある道徳精神は、ふつうの意味でも宗教的なものとは言えず、どう見たってキリスト教的なものではない。ただ二作品、『ハムレット』と『オセロー』だけが、キリスト教時代を舞台としたものであるが、これらにしても、『ハムレット』における幽霊のおふざけは脇に置いておくとして、すべてがあるべきところに収まるという「来世」のことなど、まったく話題になりもしない。これらの悲劇すべては、人生は生きるに値するもので、人間は高貴な動物であるという、人間的な仮説から始まっている。そしてこの信念は、晩年のトルストイは共有していなかったものなのだ」

「one must choose between this world and the next. And the enormous majority of human beings, if they understood the issue, would choose this world. They do make that choice when they continue working, breeding and dying instead of crippling their faculties in the hope of obtaining a new lease of existence elsewhere.」(p.81)
「ひとは現世と来世のうち、ひとつを選ばなければならない。そして大多数の人びとは、彼らがちゃんと問題を把握しているかぎり、現世を選ぶものなのだ。働きながら、血を流しながら、死と向き合いながらも、それでも彼らはその選択をするのであって、代わりに自分を無能力化することで、どこか別の場所で新たな借地契約を得よう、などという希望を抱きはしない」

 オーウェルは論理的なぶん、容赦がない。『クロイツェル・ソナタ』などを書いていたころのトルストイだったら、説教臭さはあるものの、シェイクスピア相手にここまで無謀な戦争をけしかけたりはしなかったかもしれない。

「Tolstoy would have said that poetry is to be judged by its meaning, and that seductive sounds merely cause false meanings to go unnoticed. At every level it is the same issue – this world against the next: and certainly the music is something that belongs to this world.」(p.83)
トルストイだったら、詩はその意味によって判断されるべきで、誘惑的な音などは見過ごされるべき誤った意味を喚起するばかりだ、と言うだろうか。なんであれ、同じ問題なのだ。すなわち、現世か、来世か。そしてまちがいなく、音楽というのはこちら側の世界のものだ」

「if this test is valid, I think the verdict in Shakespeare’s case must be ‘not guilty’. Like every other writer, Shakespeare will be forgotten sooner or later, but it is unlikely that a heavier indictment will ever be brought against him. Tolstoy was perhaps the most admired literary man of his age, and he was certainly not its least able pamphleteer. He turned all his powers of denunciation against Shakespeare, like all the guns of a battleship roaring simultaneously. And with what result? Forty years later, Shakespeare is still there, completely unaffected, and of the attempt to demolish him nothing remains except the yellowing pages of a pamphlet which hardly anyone has read, and which would be forgotten altogether if Tolstoy has not also been the author of War and Peace and Anna Karenina.」(pp.85-86)
「もしこの文章が有効だったなら、シェイクスピア訴訟の判決は「無実」ではないだろうか。ほかのどんな作家とも同じで、シェイクスピアだっていつかは忘れられるにちがいないが、しかしこれ以上に激烈な告訴が、今後彼に対して為されるとは思えない。トルストイは彼の時代でもっとも敬意を集めた文人だったろうが、パンフレット作者としては失格だった。彼はちょうど戦艦の全砲門が同時にうなるみたいに、全力を傾けてシェイクスピアを弾劾したわけだが、その結果はどうだろう。四十年経ったいまもシェイクスピアは読まれつづけていて、まったくなんの影響も受けていない。彼を失墜させようとした試みのうち、残ったのはパンフレットの黄色いページばかりで、それさえも滅多に読まれてはおらず、もしトルストイが『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』も書いていなかったとしたら、とっくに忘れ去られているであろうものなのだった」

 イギリス料理を擁護していたときの負け戦の雰囲気はどこへやら、ここでのオーウェルは勝ち誇っている。たしかに、だれがどう読んだって、シェイクスピアが「無実」であることはまちがいない。散々引用されてはいたものの、逆にこのトルストイの「激烈な告訴」が読みたくなってしまった。

 最後はダリである。「Benefit of Clergy: Some Notes on Salvador Dali」はダリの自伝に対する評論で、これもゲラゲラ笑いながら読んだ。

「Autobiography is only to be trusted when it reveals something disgraceful. A man who gives a good account of himself is probably lying, since any life when viewed from the inside is simply a series of defeats.」(p.102)
「自伝というのは、不名誉なことが書いてあって初めて信用に足る。自分の長所ばかり述べたてているようなものは、たいてい嘘っぱちだ。内部から見つめた場合、どんな人生だって、挫折の連続以外には映らないはずではないか」

「It is a book that stinks. If it were possible for a book to give a physical stink off its pages, this one would – a thought that might please Dali, who before wooing his future wife for the first time rubbed himself all over with an ointment made of goat's dung boiled up in fish glue.」(p.107)
「これはひどく臭う本である。もし本がそのページから現実に臭いを発するとすれば、の話ではあるが。ダリの気に入りそうな考えだ。未来の妻に初めて言い寄ろうというとき、ダリは山羊の糞をにかわで煮つめた軟膏を、全身に塗りたくっていったそうだから」

 だが、ただ笑えるというだけではなく、ここには真理めいたものが見え隠れしている。芸術ってなんだろう、というのは、だれだって一度は考えたことがある問題だと思うが、なんでも「芸術」呼ばわりされるようになった20世紀以降の世界に生きるわれわれには、とりわけこの問題が大きな意味を持っているように思える。たとえば、マルセル・デュシャンの作ったものは、果たして芸術なのだろうか。もしそうだとしたら、芸術はどんなふうに定義されるべきなのか。『シュルレアリスムとは何か』をもう一度読み直したくなってくる文章だ。

「Obscenity is a very difficult question to discuss honestly. People are too frightened either of seeming to be shocked or of seeming not to be shocked, to be able to define the relationship between art and morals.」(p.109)
「猥褻な事柄というのは、正直に話し合うのが非常に難しいものである。人びとは衝撃を受けていると見られることも、また、衝撃を受けていないと見られることも恐れていて、それによって芸術と道徳精神の関係性を定義できなくなっているのだ」

「It will be seen that what the defenders of Dali are claiming is a kind of benefit of clergy. The artist is to be exempt from the moral laws that are binding on ordinary people. Just pronounce the magic word 'art', and everything is OK. Rotting corpses with snails crawling over them are OK; kicking little girls on the head is OK; even a film like L'Age d'Or is OK.」(p.109)
「ダリの擁護者連中が声高に唱えているものは、いわゆる「聖職者の特権」に近い。芸術家というのは、ふつうの人びとを縛っている道徳規範から除外されるべき、というのだ。「芸術」という魔法の言葉をつぶやくだけで、万事問題なし、というわけだ。なめくじが這い回っている腐った死骸も問題なし、少女の頭を蹴りつけるのも問題なし、『黄金時代』のような映画も問題なし、というわけである」

 ちなみに、ここでもシェイクスピア、しかもまたしても『リア王』が登場する。それも、とんでもない登場である。

「If Shakespeare returned to the earth tomorrow, and if it were found that his favourite recreation was raping little girls in railway carriages, we should not tell him to go ahead with it on the ground that he might write another King Lear.」(p.109)
「もしも明日シェイクスピアが地上に舞い戻ったとして、そして彼のお気に入りの気晴らしというのが、じつは列車内の少女たちを強姦することだったとしたら、いくら新たな『リア王』が生まれる可能性があったとしたって、どうぞやっちゃってください、というわけにはいかないだろう」

 ところで、『Books v. Cigarettes』の一篇を訳したときに頭を抱えさせられた「diabolo(空中ゴマ)」が、この文章にも登場してきた。これを読むかぎり、あのときの訳文はあれで正しかったようだ。

「The little boy in knickerbockers playing with a diabolo on page 103 is a perfect period piece.」(p.113)
「103ページで、空中ゴマで遊んでいるニッカボッカーを履いた少年などは、この時代を象徴している」

 それから、ダリがエドワード朝偏愛主義者と説明する箇所では、なんとアナトール・フランスの名前が挙がっていた。どうでもいいが、イギリス人は「エドワード朝」といった言葉を、ちょうど日本の「昭和」みたいに使っているのだと気がつく。

「When I opened the book for the first time and looked at its innumerable marginal illustrations, I was haunted by a resemblance which I could not immediately pin down. I fetched up at the ornamental candlestick at the beginning of Part I (p.7). What did this remind of me? Finally I tracked it down. It reminded me of a large, vulger, expensively got up edition of Anatole France (in translation) which must have been published about 1914. That had ornamental chapter headings and tailpieces after this style.」(p.111)
「初めてこの本を開いて、余白に描かれた数えきれないほどの絵を見たとき、すぐには言い当てられないなにかとの類似に、心を奪われてしまった。第一章の扉(7ページ)に置かれた燭台の飾り絵にたどり着く。いったい、なにと似ているというのだ? そして、ついに思い当たった。それは1914年ごろに刊行されたであろう、下品なまでにひどく豪奢に装幀されたアナトール・フランス(の翻訳)を思い出させたのだ。その本でも、こんなふうにページ上下の余白が装飾されていたのである」

 この文章の結論は、以下のとおりである。

「One ought to be able to hold in one's head simultaneously the two facts that Dali is a good draughtsman and a disgusting human being. The one does not invalidate or, in a sense, affect the other. The first thing that we demand of a wall is that it shall stand up. If it stands up, it is a good wall, and the question of what purpose it serves is separable from that. And yet even the best wall in the world deserves to be pulled down if it surrounds a concentration camp. In the same way it should be possible to say, 'This is a good book or a good picture, and it ought to be burned by the public hangman.' Unless one can say that, at least in imagination, one is shirking the implications of the fact that an artist is also a citizen and a human being.」(p.110)
「鑑賞者は、ダリに対してはふたつの事実を同時に抱いているべきなのだ。すなわち、彼はすばらしい画家であり、同時にくそったれでもある、と。これらはべつに矛盾することではなく、互いに悪影響を及ぼすわけでもない。例えば壁に対して、まずわれわれが求めるのは、それが直立するということだろう。もし直立するのならそれは良い壁であり、なんのために立っているかというのは、度外視されて然るべきなのだ。もしそれが強制収容所を囲むものであったなら、どんなにすばらしい壁だとしても、引き倒されるべきものだ。そういう観点に立ってみれば、こんなふうに言うことだって可能なはずだろう。「これはすばらしい本、あるいはすばらしい絵だが、それでも火刑に処されるべきだ」と。もしそんなふうに言えないのだとしたら、いや、口に出さないまでも思えないのだとしたら、芸術家も人間であって一市民に過ぎない、という事実に、背を向けているということになるだろう」

「it is clear that he has not had to suffer for his eccentricities as he would have done in an earlier age. He grew up in the corrupt world of the nineteen-twenties, when sophistication was immensely widespread and every European capital swarmed with aristocrats and rentiers who had given up sport and politics and taken to patronizing the arts. If you threw dead donkeys at people, they threw money back.」(p.114)
「ダリの奇行癖が、その若かりしころほどには彼を苦しめなかっただろうことは明白だ。彼は19世紀末から20世紀初頭にかけての頽廃的な世界で育ったのであり、当時は洗練された趣味というやつが蔓延していたのだ。ヨーロッパ中のあらゆる資本が貴族や不労所得生活者どもに集中していて、スポーツや政治を諦めたこういった連中が、芸術の庇護者として振る舞うようになっていた。ロバの死体を投げれば、返礼として金が降ってくるという時代だったのだ」

 翻訳にものすごく時間がかかった割には、感想はずいぶんさくさくと書けてしまった。まあ、もともとの話題が多すぎるので、ちょっと支離滅裂ではあるが。オーウェルの評論はとても読みやすいので、英語で本を読んでみようかな、と思っているひとには手放しにおすすめできる。じつはもうほかにも読み終えているのがあるので、時間をどうにか工面してまた紹介してみたい。

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)